春更ける庭にて   (いただきもの)



ここは、都随一の陰陽師である岩城京介と、その夫で、類い希なる楽士であり帝の年下の叔父でもある香藤洋二の住まう邸――。
その片隅で白い塊が動いていた。
耳と手足に尾の先が茶色の、垂れ目の白い子狐。
――岩城と香藤の愛息の小君であった。


縁側の端を行きつ戻りつし、時折その前足を床の縁から地に伸ばしては、何かを探るのを繰り返す。
暫くうろうろと歩いた後、意を決したように再び端に寄り、今度は片方の後ろ足を降ろす。
足の先まで精一杯伸ばしたが、地面までは全然届かない。
残していた片足も降ろしてみる。
が、全く触れるものが無い。
それどころか、足より長い尻尾の先でさえ何の感触も伝えてこない。
バタバタと宙を藻掻く足につられて、身体が次第にずり落ちていく。
そしてあっという間に前足も宙を掻いていた。
「きゃうん!!」
お尻から全身に熱い衝撃が走り、思わず悲鳴が上がった。
きゅ〜んと目の端に涙を溜めて、じんじんとするお尻の痛みをやり過ごす。
やがて、おずおずと開いた小君の目に飛び込んできた光景に、その痛みも吹き飛んでしまった。
瞳をキラキラとさせて、じいっと眺めていた。
そしておもむろに足を踏み出していった。


小君は庭のいたる所に鼻を押し付け、匂いをふんふんと嗅ぎまわった。
前足で地面を掘り返しては盛大に土を飛ばしてみたり、所狭しと駆け回ってみたりした。
また、鼻をくすぐる花や葉っぱをはぐっと噛じっては、まずそうに吐き出してみたり、食い散らかしてみたり。
散々、思うがままに暴れまわった。
本当は、両親に庭に降りてはいけないと言われていたのだけれど。
しかしその両親は仕事に出かけ、普段、小君の世話をしている佐和や雪人は珍しく姿を表さなかった。


その内に小君は、視界の端を掠める白いものに気がついた。
ふわふわと漂うそれは、小さな白い蝶々であった。
花から花へと蝶が移る様を、暫く小首を傾げて見つめていた。
だが次第にうずうずしてきた小君は、そおっと姿勢を低くしてゆっくり近寄る。
十分に近づくと、蝶目掛けていきなり飛び上がり、上から前足で押さえつけた。
「とった!」
小君は成功を確信した。
だが。
動くものの感触を、前足は伝えてこない。
そおっと前足を持ち上げて、覗き込んでみたが何も無かった。
「あれ〜?」
首を傾げてみても、現れるわけもなく。
そんな、きょときょとと瞬きを繰り返す小君の鼻先を、ひらりと蝶々が横切った。
小君はむうっと目を眇めて、蝶々を追いかけ始めた。
しかし蝶々は小君が近づくと、ふわりふわりと、まるでからかうように逃げていく。
そして、勢いよく追いかけていた小君は蝶々しか見ておらず。
目前に迫っている土壁の塀にそのまま、顔から突っ込んでしまった。
「―――っ!!」
あまりの痛みに目の奥がチカチカし、声にならない悲鳴があがる。
大粒の涙がぼろぼろと、垂れた目から溢れた。


鼻を押さえて、ひぃんひぃんと泣いていると、大きな手に持ち上げられた。
目を開ければ、薄茶の垂れ目が特徴的な、精悍な男の顔。
「おもうしゃま…」
小君の父親の香藤であった。
「馬鹿だなあ。ちゃんと前を見ないと危ないだろう?」
どこからか塀に鼻からぶつかる小君を見ていたらしい香藤は、笑いながら言い聞かせた。
「だって、だって…」
突然の香藤の出現に驚いていた小君の、止まっていた涙が再び零れ落ちた。
「痛いの、痛いの、飛んで行け〜。」
突然、香藤が小君の鼻を軽くさすり、その手を宙に向かって払った。
「ん?」
涙目の小君が、ことんと首を傾げる。
「おまじないだよ。痛いのが飛んで消えるようにって。これでもう大丈夫。泣くんじゃないぞ?」
「おまじ、な…?」
「そう、おまじない。」
それから香藤は単衣姿の懐から手巾を出すと、小君の涙を拭(ぬぐ)い、土まみれの体を拭いた。
「よし、きれいになった。…ほら」
そう言って自分の懐に小君を入れた。
小君はもそもそと動いて収まりの良い姿勢を整え、ひょこりと着物の袷から顔を覗かせる。
そうやって、香藤の使っている香の匂いと心音に包まれていると、香藤が言ったように鼻の痛みが薄れていった。


「…とう、香藤? いないのか?」
くはっと大口を開けて欠伸をした小君の耳に、母親である岩城の声が届いた。
「岩城さん、ここ〜。庭にいるよ〜」
香藤がのんびりと応えた。
邸の影から現れた岩城が、真っ直ぐこちらに向かって来る。
「ここにいたのか。小君は…」
一緒じゃないのかと尋ねようとして、香藤の懐の小君と目が合った。
「あっ、また。そんなところに!」
「いいから、いいから。こんなの小さい時しか出来ないんだし」
「だからってな。甘やかしたら良くないだろう?」
「それより。小君が大暴れしたみたいだよ?」
そう言って、香藤は庭を示した。
促された岩城は、そこで漸く、香藤と小君以外に目を向けて辺りを見回した。
所々掘り返され。
綺麗に咲いていた花は散らされ。
大きく広げられた葉は喰いちぎられ。
低木は折り曲げられて。
まるで嵐の後のような、惨憺たる有り様だった。
唖然として眺めていた岩城だったが、次第に体が震えてくる。
ゆっくりと拳が握られて、くるりと小君へと向き直り。
怒号一声。

「庭を荒らすやつがあるか!!!!」

「きゃうっ!」
あまりの大音声に、びくりと小君の体が震えた。
「だいたい庭に降りてはいけないと、あれほど言っていただろう!? 約束の一つも守れないのか? それから何でもかんでも口に入れるんじゃない! 身体に悪いものだったらどうするんだ!!」
岩城のあまりの剣幕に、小君は声も出せず、身を竦めるばかりだった。


そんな小君に、立て板に水とばかりに説教をする岩城を宥めようと、香藤が口を挟む。
「まあまあ。落ち着いて、岩城さん」
「まあまあ、じゃない!」
「大丈夫だよ。小君は賢いからね。もう、しないよ」
懐から小君を出し、両脇をそっと掴んで目の高さが合うように持ち上げる。
「おたあさまの大事なお庭に、勝手に降りたりしないだろう?」
視線を合わせたまま、香藤は小君に言い含める。
「な。もうしないだろう?」
にこりと微笑んだ香藤の顔を見た小君は、慌てて、こくこくと肯いた。
岩城の怒鳴り声も怖かったが。
それよりも、笑顔の香藤の、笑っていない目の方が怖かったからだ。
「約束を破ったり、おたあさまの大事な庭を荒らしたりするのは悪い事なんだよ。悪い事をしたら謝らなくちゃいけない。だから、ちゃんとおたあさまに謝るんだ」
香藤が小君を反転させて、岩城に向き合わせた。
「おたあしゃま、ごめんなしゃい」
眉を寄せる岩城の顔を上目遣いで見上げて、小君は謝った。
「ん、わかった。もう、するんじゃないぞ?」
そう言った後、岩城はわしゃわしゃと小君の頭を撫でた。
小君は岩城から許しをもらい、ほうっと息をつく。
そして、まだ少しひりひりする鼻をぺろりと舐めた。
そんな小君を抱え直し、香藤がほろりと言った。
「あ、そうそう。小君ったら、さっき、顔から塀に突っ込んでたよ」
「何っ!?」
「鼻ぶつけて泣いてたよな」
香藤がくすりと笑い、小君の顔を覗き込む。
「馬鹿っ! それを早く言えっ!!」
今度は香藤を叱りつけると、岩城は小君の顔を両手で挟んでぐいっと自分の方に向ける。
「小君、大丈夫かっ。怪我は? 痛いところは無いか?」
そしておろおろと歩き出す。
「薬湯はあったか。塗り薬、いや貼り薬の方が…。ああっ、薬草は揃っていたか?」
「岩城さん」
「そんな事より、病魔平癒の祈祷の方が良いのか!? なら、準備をしないと!!」
今にも駆け出して行ってしまいそうな岩城の腕を香藤が掴んだ。
「岩城さん。大丈夫だって」
「何言ってるんだ。傷が膿んだり、残ったりしたらどうするんだ!!」
「だから…」
「もしかしたら命に関わるかもしれないんだぞ! 心配じゃないのか!?」
「岩城さん!!」
香藤は喚きたてる岩城を右手で引き寄せて、その唇を塞いだ。
「…っ!!」
岩城は香藤を引き離そうと、香藤の腕や背中を叩いたり引っ張ったりした。
だが香藤は幾度も角度を変えながら、岩城の口内を荒らしまわる。
次第に岩城の抵抗が減り、最後には香藤に身体を預けるまでになった。
そうなって漸く、香藤は岩城から唇を離す。
「落ち着いた? 岩城さん」
「……かと」
「子供っていうのはさ。案外、丈夫に出来てるものなんだよ。多少の怪我なんてすぐ治るものだし」
自分の肩に頭を預ける岩城の背を宥めるようにさすりながら、香藤が諭す。
「怪我や痛みから学ぶ事だって、たくさんあるからね。それに…」
一旦言葉を切った香藤を、頭を上げて岩城が真っ直ぐ見つめた。
「それに?」
「それにここは、あの、岩城京介の邸だよ? その庭で、岩城さんの産んだ小君が、本当に危ない目に遭う訳ないじゃない!」
その言葉に岩城は絶句した。
香藤特有の、根拠がどこにあるか分からない自信なのか。
稀代の陰陽師である岩城への、絶対の信頼なのか。
それとも、岩城を取り巻くものを更に見透かした結果なのか。
岩城には判断がつかなかった。
だが、香藤に言い切られることによって、すとんと納得する自分もいた。
「ね?」
「そう、か…」
「そうだよ」
岩城は上げていた頭を元に戻し、額を香藤の肩に擦り寄せた。
そんな岩城の腰を、香藤は再びしっかりと抱きしめた。


香藤の左手に抱えられ、おろおろと両親を交互に見上げていた小君は、静まった二人を見てほっとした。
そして、岩城の真似をして香藤の胸に顔を擦りつけた。
ゆったりとした時間が三人を包み込んでいた。
だが突然、その暖かな空気を打ち破る奇音が、辺りに響き渡った。

きゅるるるる〜〜〜!

香藤と岩城は顔を見合わせ、同時に音の発生源に目を向ける。
その視線の先にいたのは小君だった。
当の本人は、訳が分からずきょとんとしていた。
しかし再び、くきゅきゅるるる〜と盛大に小君の腹の虫が鳴り響いた。
岩城と香藤は顔を見合わせて、同時にぷっと吹き出した。
そしてそのまま笑い出す。
香藤は岩城の肩に縋って声を上げ、岩城は袖で口元を隠してはいるが、その肩は小刻みに震えていた。
小君は理由は分からなかったが、自分が笑われているのに気づき、途端に恥ずかしくなった。
きゅうっと目尻を更に下げ、少しでも隠れようと香藤の左腕と身体の間に鼻を差し込み、潜り込もうとする。


暫くそうやってもがいていると、そっと背を撫でる手があった。
顔を上げると、岩城と香藤の優しい笑顔。
「これだけ暴れたんだものな。腹も空くさ」
「そうだね。佐和さんに言ってご飯増やしてもらおうか」
「ああ。いつもの量では足りないだろう」
「おっと、その前に湯を使わないとね。だいぶ土まみれだったし」
「鼻の手当てもしないとな」


そんな会話を残し、寄り添う三人の姿が邸へと消えていった。


次の日。
岩城邸では、仲睦まじく庭の手入れをする岩城と香藤、そして小君の姿があった。






玖美さま


サイトURL引越に伴い2013年2月28日に再掲載。
・・・それにしても、何度読み返してもホント可愛い。可愛すぎます。玖美さん、本当にありがとうございます!