水深30cm

水深30cm




「恋って、どうやって終わらせるんだっけ―――」



香藤がふいに呟いた。
思いがけない言葉に、俺はどきりとして振り返った。
「え・・・?」
久しぶりに二人とも早く帰宅した、六月のある日。
とても蒸し暑い夜だった。
素麺と冷しゃぶに、焼き茄子。
簡単に済ませた夕食の後。
俺はリビングのソファで、漫然と新聞を読んでいた。
切子のグラスには、今年はじめてのアイスビール。
それに手を伸ばそうとした、その瞬間。
『恋って、どうやって―――』
キッチンで食器を片づけていた香藤が、さらりと問いかけた言葉。
俺は絶句した。
広げたままの新聞が、カサリと音を立てた。



「なにを―――」
「・・・ってさー」
「・・・」
「いきなりそんなこと聞かれても、答えらんないよねー」
屈託のない口調。
香藤はどこか楽しそうだった。
「だいたいこの俺に恋愛をやめる相談なんて、してくるほうが間違ってない?」
「あ、ああ」
そうだな、と俺は口ごもった。
俺に背中を向けたまま、香藤が続ける。
「俺たちみたいな超ハッピーラブラブ夫婦に、普通そんな話題、振らないでしょー」
―――ああ、なるほど。
誰かに言われた言葉を、引用しただけだったのか。
「そう思わない?」
「そうだな」
安堵の吐息をつきかけてから、ふと。
―――なぜ俺は、こんなことで動揺したのか。
脳内で何か、閃くものがあった。
直感、としか言いようがない。
俺はあらためて、ひそかにキッチンを振り返った。
「・・・どうして・・・」
「えー?」
「なんでもない」
髪を後ろでひとつにまとめた、普段着の香藤。
テキパキと家事をこなす見慣れた姿を、俺はじっと目で追った。
くつろいだ、軽快な動き。
―――いくら見ていても飽きない。
ヴィンテージ風のノースリーブTシャツ。
すんなり伸びた腕についた筋肉の、力強い躍動感。
デニムに包まれた下肢は一見しなやかだが、鋼のような堅さを秘めている。
それから、まっすぐな愛情。
強靭な精神と、あたたかい心。
―――惚れ惚れするほど、魅力的な男だ。
俺は毎日、いちばん傍でそれを見つめ、常に触れている。
それでも、尚。
永遠に香藤に馴れることはないだろう、と思う。



「それは・・・」
なぜかと問われても、説明はできない。
普段、あまり勘の鋭い性質(たち)でもない。
だが、この時はわかった。
感じ取ってしまったのだと思う。
―――ああ、おそらく。
戯れかもしれない。
でも香藤に、恋愛の相談を持ちかけた相手。
誰なのか見当もつかないが、それは若い女性なのだろう。
明るいエネルギーを持った魅力的な女性。
俺はそれを疑わなかった。
どこか、冴え冴えとした心持ちだった。
―――そして、もしかしたら。
単に親しい、というだけではないのかもしれない。
香藤が昔、つきあっていた女性かもしれない。
心に漣(さざなみ)が立つ。
どうしてそんなことを、思いついてしまったのか。
不安があるわけではないのに。
―――ああ、なぜ。
俺は今、こんなふうに考えるのだろう?



「ねえ、岩城さん?」
「・・・うわ!」
突然、俺は現実に引き戻された。
目の前に香藤の顔があった。
不思議そうに瞬く、きれいな茶色の瞳。
まじまじと覗き込まれて、俺は思わず声を上擦らせた。
「おい、香藤・・・っ」
「そんなにびっくりしなくても」
苦笑して、香藤が俺の隣りに腰を下ろした。
とすん、と。
ソファが沈み込む、いつもの感覚。
ふんわりと、香藤の匂いがした。
「なにを考えてたの?」
香藤の声はやさしい。
いつもそうするように、するりと俺の腰に腕を廻す。
甘える仕草で、鼻先を俺のうなじに擦りつける。
「いや、別に・・・」
「岩城さん」
ほんのわずかに掠れた俺の声を、香藤は敏感に聞きとがめる。
―――なにも、隠せない。
香藤はすべてお見通しだ。
隠さなければならないことなど、何もない。
それでもやはり、この男の鋭さには驚かされる。
「んー?」
俺の身体が強張ったのに、気づいたのだろう。
香藤の手がゆっくりと俺の肩を撫でた。
「ふふ」
喉の奥から、小さな声。
半ばからかうように、香藤は俺を抱き寄せた。
「どしたの」
「なんでもない」
「もう」
「もう、って・・・」
「なんでもないってことは、ないでしょ?」
「だから」
「なーんか、変なこと考えてるね?」
「変なこと―――?」
俺はぼんやりと繰り返した。
「ほら、そうやってごまかそうとする」
拗ねた子供をあやすような甘い声で、香藤が笑いかけた。
―――それはちがう。
俺は何も、ごまかそうとしていない。



「誤魔化してなんか―――」
俺の言葉は、さぞ弱々しく聞こえただろう。
「いないって?」
きらめく瞳が、俺を見つめた。
温かい指先が、俺の頬を撫でる。
「ウソばっかり」
「嘘じゃ・・・」
俺はあいまいに首を横に振った。
「相変わらずウソが下手だね、岩城さん」
―――嘘じゃない。
香藤に触れられると、いつもこうだ。
触れられた箇所から、肌が熱を帯びる。
じんわりと、何かが体内で目覚める。
―――いったい何の話をしていた?
静かに、心に靄(もや)がかかる。
「そういうとこ、可愛いけどさ」
香藤の肌の匂い。
香藤の指先のぬくもり。
それだけのことで、俺はなにも考えられなくなる。
「香藤・・・」
心地よさに思わず目を閉じかけると、香藤が耳元で囁いた。
「ねえ、岩城さん」
「ん?」
「もしかしてさっきの、気にしてるの?」
「いや・・・」
俺はのろのろと、香藤の瞳を見返した。
「・・・さっきのって・・・」
「恋を終わらせるとか何とかってやつ」
「ああ」
「あれ、他所の人のことだよ?」
「そうか」
―――女、だよな。
愚かしい問いを、俺は呑み込んだ。
言ってはいけない。
聞くだけ馬鹿馬鹿しいのは、わかっているから。
「あのさ」
香藤は小さく笑って、髪の毛をかきあげた。
俺の頬を、指先でちょんとつつく。
「なにを言ってるの、岩城さん」
「え・・・」
「たしかに女だね、うん。女の子」
俺は思わず、言葉に詰まった。
「今やってるドラマの仲間だよ。ただの共演者。それだけ」
―――そんなに簡単に、俺の心を読むな。
「ばか・・・」
苦笑でほころんだ俺の唇に、香藤の親指が触れた。
「ん・・・」
無理にこじ開けるでもなく、ゆるゆると焦らすように。
香藤の指がなめらかに、俺の下唇を滑っていく。
右の端まで辿って、また戻る。
ひどくエロティックな仕草だと、俺は思った。
「ん・・・」
ちょん、と。
舌先でその指先を舐める。
香藤の含み笑いが聞こえた。
「エッチ」
「・・・ばか」
至近距離で、視線が絡み合う。
―――ただの共演者じゃ、ないんだろうな。
心のどこかでそう感じたが、もうどうでもいいことだった。
香藤は何も言わない。
俺が気にすべきことはない、ということだ。
それでいい。



「キスしてほしい?」
吐息まじりに問われて、俺は黙って頷いた。
しっとりした吐息。
香藤の唇が、ゆっくりと俺のそれに重なった。
「ん・・・」
大きな手のひらが、俺の髪を撫でつける。
耳をくすぐり、項をそっと降りてゆく。
腰の深いところに、疼きが生まれた。
「好きだよ、岩城さん」
息継ぎの合間の囁き。
「ああ」
俺は素直に頷いて応えた。
―――わかっている。
初めから、わかっている。
香藤に疚しい心がないのは、他の誰よりもよく俺が知っている。
過去に何かあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。
否定はやさしい嘘かもしれないし、そうではないかもしれない。
それを考えても意味がない、ということも。
―――結局どっちでもいいんだ、俺は。
真実が何なのか、決めるのは俺の心だ。
もし香藤が嘘をつくとしたら、それは俺のためだ。
騙すためではなく、俺を護るための嘘。
これは信念だ。
香藤は俺を裏切らない。
恋人を信じる気持ちは、微塵も揺るがない。
二人で生きると決めた、あの日から。
「香藤・・・」
逞しい腕に抱擁されながら、俺はひそかに苦笑した。
矛盾している、と思う。
どうでもいいなら、何があっても香藤を信じるのなら。
―――こんな些細なことで、動揺しなければいいのに。
なぜ俺はこうなのだろう。
いい加減、慣れてもいい頃だ。
香藤に愛されていることに。
何があっても、香藤が俺のそばを離れないことに。
―――不安の種を探しているのは、自分じゃないか。
幸せは、今この掌の中にあるのに。
香藤は俺だけをまっすぐに欲してくれるのに。
「・・・岩城さん?」
いったい何をそんなに、ぐるぐる悩んでいるの。
香藤の瞳が、そう聞いていた。
「大丈夫?」
「好きだ、香藤―――」
俺が、心の均衡を見失いそうになるたびに。
香藤はこうやって俺に寄り添い、支えてくれる。
不器用で、ときに無様な俺を、こんなにも愛おしんでくれる。
―――すまない。
おまえを本気で疑ったことはない。
感謝している。
信じている。
誰よりも愛している。
俺はただ、香藤の身体をしっかりと抱きしめた。



「岩城さん・・・」
甘い声で呼ばれて、俺は頷いた。
それが合図。
穏やかな香藤の微笑が、ふっと官能に彩られる。
そのまま体重を受け止めて、俺はソファに横たわった。
太く逞しい腕が、俺の腰にまわされる。
するりと、俺の尻をまさぐる仕草。
「香藤・・・」
俺はゆっくりと、香藤の剥き出しの二の腕に触れた。
うっすら日焼けした胸元にも指を這わせた。
肌はなめらかで、筋肉はやわらかい。
「くすぐったいよ」
「嫌か」
「ううん」
香藤が笑う。
こぼれる茶色の髪の毛が、俺の顔をくすぐる。
夏のセックスは嫌いじゃない。
交わる前から、お互いの素肌に触れていられる。
―――ああ、でも。
香藤はそれがつまらないと言っていた。
薄着の季節は、脱がせる愉しみが半減するからと。
「・・・なに、笑ってるの」
「なんでも」
「目、開けてよ」
耳元でささやかれて、肌がぞわりと火照った。
「香藤・・・」
「きれいだね、岩城さん」
視界いっぱいに香藤洋二。
この男のほうがよほど綺麗だと、俺は思う。
眩しくて、恋しくて。
見つめているだけで、鼓動が早くなる。
―――何年たっても、これだ。
「そんな顔で見ないでよ」
困ったように、香藤が笑った。
「色っぽくて、俺、止まらなくなる―――」
声がわずかに掠れた。
睦み合うときだけしか聞けない、香藤の低い声。
「香藤」
たまらなくて、俺は両腕を伸ばした。
ぐっと、香藤を抱き寄せる。
「苦しいよ、岩城さん」
「・・・あのな、香藤」
「うん?」
―――さっきの、あの問いかけ。
「俺は、半分しか答えを知らないんだ」
俺はぽつりと呟いた。
「・・・え?」
「でも、恋は―――」
香藤の鼓動が、俺の鼓動と重なっていた。
ふれあう肌が熱い。
呼吸がとても近い。
「ある日いきなり、落ちるものだろ・・・?」
香藤が小さく身じろぎした。
俺は少しだけ、腕の力を緩める。
「神の領域・・・じゃないかと思う」
わずかに上体を起こして、香藤はまじまじと俺を見た。
「神?」
「神仏を信じるとか、そういうことじゃなくて」
香藤の眼差しを、俺は真正面から受け止めた。
「誰かと出会うのも、誰かと愛し合うのも。自分の意志だけではどうしようもない」
どこか人智を超えた力がはたらくような、そんな気がする。
―――運命、のせいにするわけじゃないが。
恋は奔流だ。
一度その激流に足を掬われたら、逃れる術はない。
とてつもなく熱く、抗いがたいもの。
「だから」
香藤はぎゅっと、唇を引き結んだ。
「岩城さん・・・」
「恋は・・・ひとが始めたり終わらせたり、自分の都合に合わせてできるものじゃないと、俺は思う」
香藤の手が、俺の額に触れた。
やさしく髪を撫でつけ、擦ってくれる。
俺を見おろす瞳が、かすかに潤んで光った。
しばし、沈黙が訪れる。
この上なく心地よい、あたたかな沈黙。



「・・・で?」
くすりと、香藤が笑った。
「なんだ?」
「半分って、どういうこと?」
「ああ」
俺は小さく頷いた。
香藤がそっと、俺にキスを落とす。
やわらかく濡れた唇に、俺もくちづけを返した。
「ん・・・」
「教えてよ、岩城さん」
「だから―――」
ふと、自意識が戻った。
―――だめだ。
今夜の俺は饒舌すぎる。
そう意識してしまうと、頬に血が上った。
「・・・」
「あれ」
いたずらっ子の瞳で、香藤が囁いた。
「急に恥ずかしくなった?」
「馬鹿を・・・」
「照れなくてもいいのに」
「・・・バカ」
香藤は軽やかに身を起こすと、俺のシャツに手をかけた。
かすかな衣擦れの音。
魔法のように易々と、ボタンを外してゆく。
「香藤・・・」
何を言っていいのかわからないまま、俺は恋人を見上げた。
「いいよ、岩城さん」
眩しい笑顔。
香藤はあっさり俺の胸をはだけ、そこに両手を這わせた。
「わかってるから、岩城さんの言いたいこと」
「あ・・・」
火照る素肌を愛撫されて、全身が震えた。
器用な指先が自在に動き、俺の快感を紡ぎ出す。
「半分、かあ―――」
独り言のように、香藤が呟いた。
「そりゃ、そうだよね」
「あ・・・んん」
香藤、と呼ぼうとしたが。
とろりとした快楽の予感に、俺はすでに翻弄されていた。
「岩城さんの恋は、終わらないもんね」
続きはもう、聞き取れなかった。
―――もしも、もしも。
霞んでゆく意識の中で、俺はぼんやりと考えた。
恋に落ちて恋の始まりを知り、恋から醒めて、恋を失ってはじめて、恋を語れるのだとしたら。
だったら俺は、永遠に恋を語らなくていい。
永遠に、恋の半分しか知らない男でいい。
「香藤・・・」
恋は、終わらせるものではない。
恋は―――終わることがあるとすれば、それは。
「嫌だ・・・!」
俺は香藤にしがみついた。
「え?」
聞こえなかったのだろう、香藤は首を傾げている。
「なんでもない」
「なあに、岩城さん」
「なんでも、ないから―――」
俺はそっと首を横に振った。
―――失いたくない。
失うわけにはいかない。
香藤の肌の熱さ。
俺に絶対の安心感をくれる、この逞しい腕。
俺の人生になくてはならないもの。
愛おしくて、気が狂いそうだ。
「もう」
しょうがないなあ、と香藤は言った。
嬉しくて嬉しくてたまらない、そんな響きにも聞こえた。
「今日の岩城さんは、変だよ・・・?」
何もかも、本当はわかっているだろうに。
香藤は何も聞かなかった。
ささやかな俺の混沌に、気づかないふりをしてくれる。
「ほら、おいで」
俺は黙って、香藤の胸に顔を埋(うず)めた。
大きなあたたかい手が、俺の頭を抱え込む。
くるみこむような抱擁。
宥めるような愛撫。
―――どうして、こんなに大きい。
香藤の甘やかしは媚薬だ。
しっとりと俺の肌に染み渡り、全身を侵してゆく。
かぷり、と。
耳朶を甘噛みされて、俺は震えた。
「かとう・・・」
喘ぐように、俺は恋人を呼んだ。
愛おしすぎて目眩がしそうだった。
「早く―――」
「うん」
もう何も考えられない。
俺はすべてを香藤に委ねて、目を閉じた。





藤乃めい
9 June 2010



2013年11月18日、サイト引越により再掲載。
初稿(初掲載時の仮題は「恋の終わらせ方」)を、本サイト掲載に伴い改題、かつ全面的に書きなおし・加筆しました。当初の三倍くらいの長さになったので、ほぼ新作です(2013年10月)。
大の大人でも、水深30センチもあれば溺れることがある・・・というのがタイトルの由来。岩城さんが稀に陥る『うだうだ下降モード』状態を、徹底的に?追求してみました。些細なことで心のバランスが崩れる彼が、どうやって浮上するのか。これもいわば日常の風景だと思っています。
(といっても最近は、こういうのあんまりないでしょうけどね。)