秋麗
「どうしようかな」
玄関先で、岩城さんがトレンチコートを片手につぶやいた。
「なに?」
「いや、コートをどうしようかと」
10月半ばの昼下がり。
岩城さんは今、ドラマ撮影の真っ最中だ。
けっこうスケジュールが押してるらしくて、朝から深夜までスタジオに詰めっきり。
たぶん今日も、帰宅する頃には日付が変わってるだろう。
「うーん」
俺はちょっと、首をひねった。
たしかに今は秋だ。
桁外れの酷暑はようやく去った。
でも、この季節になっても、まだけっこう暑い。
「夜は少し冷えるけど、でも・・・」
都内のスタジオに籠りきりなら、天気はあんまり関係ない。
もともと寒さに強い岩城さんにとって、どのみち大した寒さじゃない―――ってのもある。
「まあ、でも!」
俺は笑って、迷い顔の岩城さんを見つめた。
「邪魔なら車に置いとけばいいし、持って行けば?」
結局は、無難な答えに落ち着く。
「万が一ってこともあるしね」
岩城さんの身体を気遣って―――というのが、いちばんの理由。
それはもちろん、本当の本音だ。
でも正直に言うと、利己的な理由もあったりする。
―――だって、さ?
惜しいんだよね。
チャンスは逃したくない。
トレンチコートを羽織った岩城さんは、最高にカッコいいから。
世界でいちばん、トレンチコートの似合う男だと思ってる。
その姿を見るのが、なにより好きだから。
―――トレンチコートを着る季節って、短いもんなあ。
だから、つい。
持って行けばって勧めてしまう。
身勝手な理由だけど、恋する男ってそんなもんだと思う。
「そうだな」
小さく頷いて、岩城さんが俺を見上げた。
ああ、今日も美人だ。
「なに・・・?」
岩城さんの手首をつかんで、俺はすうっと引き寄せた。
「皺になるぞ」
大げさにぎゅっと抱きしめると、岩城さんが低く笑った。
清水さんは、まだ迎えに来ない。
「これ、新しいスーツだよね?」
「ああ」
「すごい、手触りがいい―――」
背中の縫い目をたどって、俺はのんびり指を這わせた。
すっきり優美なラインがセクシーだ。
悪戯な気分でそろり、と。
まるで気まぐれみたいに、センターベンツの内側に指を忍ばせる。
「こら・・・」
固い弾力のお尻に手がかかった、その刹那。
「香藤」
岩城さんがあっさりストップをかけた。
予定調和。
・・・わかってるけど、でも悔しい。
「あん、いいところだったのにー」
「バカ」
きらめく黒い瞳が、困ったように細められる。
―――ホントは困ってないくせに。
俺はわざと、子供みたいに口を尖らせた。
「けち」
「誰がケチだ」
と、玄関の外にヒールの音。
耳にすっかり馴染んだ、清水さんの足音だ。
「ほら香藤、離せ」
ぽんぽん、と。
宥めるように、俺の腕をたたく。
自分からは抱擁をほどこうとしないくせに、岩城さんはずるい。
「・・・はーい」
悔しいけど、ここで愚図るのも大人げない。
タイムアップ。
俺は素直に引き下がった。
するりと、岩城さんが俺の腕の中からすべり出る。
「おはようございます!」
ほとんど同時に扉が開き、清水さんが姿を現した。
「おはようございます」
「おはよう清水さん、今日もきれいだね」
いつも通りの丁寧なお辞儀。
何年たっても、清水さんは微塵もぶれない。
顔を上げた彼女は、俺をじっと見返した。
「あら・・・」
「え?」
「お邪魔してしまったようですね、すみません」
「・・・!」
気まずい一瞬の間。
俺と岩城さんは、視線を交わして肩をすくめた。
「はあ」
ラブシーンの真っ最中だったって、お見通しらしい。
―――どういうわけか、彼女は昔からそうだ。
ほんのささいな言葉や表情から、俺たちの間にある目に見えない感情や思いを敏感に察知する。
ベテラン芸能マネージャー、恐るべし。
「・・・ホント、凄すぎ!」
今さらながら舌を巻いて、俺は笑い声をあげた。
「かなわないね、清水さんには」
岩城さんも、黙って頷く。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん。気をつけて」
コートを片腕にかけて、岩城さんが扉を開ける。
凛と背筋を伸ばしたいい男に、俺はうっとり見惚れた。
「じゃあね!」
いつもと同じように、俺は笑顔で見送った。
早く帰って来て、とは言わない。
無理だと知ってて言うのは、反則だと思うから。
ぱたん。
静かに扉が閉まる。
カツカツと、小気味いい靴音が遠ざかって行った。
いつもと同じように、俺はちょっとだけブルーになる。
―――せっかく俺、オフなのになあ。
しょうがないから、掃除でもしようか。
風呂場をピッカピカにするとか、いいかもしれない。
それからジムで汗を流そう。
「・・・あれ?」
のろのろと玄関の鍵を閉めようとして、俺は首をかしげた。
岩城さんの靴音が、急に聞こえなくなった。
立ち止まった・・・?
それから今度は、早足で戻って来る。
「どうしたの、なにか忘れ物―――」
ガタリと開いた扉に向かって、俺は声をかけた。
「・・・また、靴下のまま・・・」
「あ、ごめん」
鍵をかけるためだけに靴を履くのが、なんだか面倒で。
俺はつい、裸足のまんま玄関に降りてしまう。
岩城さんには、何度も叱られてる。
悪い癖だってわかってるけど、なかなか直らない。
「叱ろうと思って、戻って来たの?」
「まさか」
岩城さんは笑って、俺の顔をぐっと引き寄せた。
「それとも、俺に叱られたいか?」
「ううん・・・」
かすかな岩城さんの吐息。
俺はうっとりと、きれいな恋人を見つめた。
―――やさしいね、岩城さん。
がっかりした俺を、こうやって慰めてくれる。
「おまえが、寂しそうな顔をするから―――」
甘いささやきなのに、どこか文句みたいに聞こえた。
耳元と頬に。
それから、鼻の先に。
岩城さんは素早いキスをくれた。
しっとりした唇に誘われて、俺は口づけを返した。
忘れ物って、これだったのか。
「ん・・・」
ため息みたいな掠れ声。
ズシンと、下半身を刺激する。
もっともっと。
エロティックな深いキスを、ねだりたくなる。
―――ああ、ダメだ・・・!
奇跡的な自制心で欲望をねじ伏せて、俺は息を継いだ。
「・・・ありがと、岩城さん」
これ以上やったら、さすがにやめる自信がない。
行ってらっしゃいのキスじゃ、済まなくなってしまう。
「じゃあ・・・」
「ああ、行ってくる」
濡れた唇を拭って、襟をきちんと正して。
かすかな照れ笑いを残して、岩城さんは今度こそ出かけていった。
藤乃めい
15 October 2010
2013年11月23日、サイト引越により再掲載。
初稿を、本サイト掲載に伴い大幅に書きなおし・加筆しました。
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