春隣 Spring steps

春隣(はるどなり)――― Spring steps ――― 2





荒い息が少しずつ静まる。
鼓動が、緩やかになっていく。
「・・・か、とう・・・」
かすれ声が、充足を伝える。
うれしくて、俺は岩城さんの額にキスした。
ぺったり濡れた黒髪が一筋、唇に張りつく。
セックスの後の、正気に戻る時間―――っていうのかな。
俺は、この瞬間が案外、気恥ずかしい。
バカなことを言って岩城さんを怒らせるのは、こういうときが一番多い。
―――それがわかってるから。
なるべく余計なことは、言わないようにしてる。
つもり。



ぐったりして、岩城さんは眠そうに目を閉じた。
時計を見ると、午前二時ちょっとすぎ。
「・・・大丈夫?」
わずかに頷く。
「しんどそうだね、岩城さん。寝てていいよ。俺が、きれいにしてあげるから」
うっすらと、瞼が開いた。
どうしようか、迷ってる感じのまなざし。
それから観念したみたいに、ふるえる睫毛で頷いた。
余力のあるときなら、俺を振りほどいて、さっさとひとりでバスルームに行っちゃうんだけどね。
今晩の岩城さんは、疲労困憊、って風情だった。
―――無理させて、ごめん。
心の中で謝って、俺はバスルームから持ってきたタオルで、岩城さんの身体を丁寧に拭いた。
濡れたタオルで、汗をぬぐって。
ふかふかのタオルで、もう一度、全身をきれいにする。
ときどきくすぐったそうに、ちょっと身をよじるけど。
岩城さんは安心しきって、俺に全身を任せてくれてた。
気持ちよさそうで、すごく可愛い。
―――こういうとき、ね。
本当に、惚れてるよなあ、って思う。
惚れられてる、とも。
ただの恋人じゃなくて、夫婦なんだって実感する。
こうやって奉仕するのが、うれしい。
こうやって甘えてもらえるのが、うれしい。
俺はそっと、岩城さんの太腿に手をかけた。
なめらかな筋肉が、ピクリとわずかに緊張する。
岩城さんが頬を染めて、顔を背けた。
抵抗がないのを確認してから、俺はそろそろと、指を岩城さんの肛穴に這わせた。
「・・・ん・・・」
かすかに、色っぽい声がもれた。
それだけで、俺は理性を失いそうになる。
聞こえないふりをして、俺はそこに指を差し込んだ。
なるべく刺激を与えないように。
―――ってのは、まあ、不可能なんだけど。
愛撫をしたいわけじゃないから、今は。
ぽってりとピンク色に腫れた蕾は濡れていて、ヤバイくらいだけど。
俺は慎重に、少しずつ、そこから自分の精液を掻き出した。
とろりとした粘液があふれ、俺の指を伝わる。
エロすぎる、眺め。
「んっ・・・あん・・・」
目を閉じて、下半身を俺に預けたまま、岩城さんがそっとあえぎをかみ殺す。
いや、かみ殺せてないから、問題なんだけど。
でも、俺がセックス目的でやってるんじゃないって、信用してもらっちゃってるから。
俺はなけなしの平常心にしがみつきながら、劣情と戦った。
半ば目を逸らして、丁寧にそこを清める。
そう・・・俺にとっても、岩城さんにとっても、大事なところだからね。
きれいにしたい。
してあげたい。



「はい・・・おしまい」
小さくそう言って、俺はため息をついた。
上半身を起こしかけた岩城さんを制して、俺は肘をついて、キスをねだった。
自制心を保てたご褒美、ちょうだい。
くすりと笑って。
岩城さんは片腕で俺の首を抱きこむように、キスしてくれた。
「・・・パジャマ」
そう言われて、俺は床に散らばっていたパジャマとセクシーな下着を拾い上げた。
「着せてあげようか?」
からかい半分でそう聞くと、岩城さんが目を細めてにらんだ。
「・・・それくらい、自分でできる」
低い声でそう言って。
片腕を無造作に、俺に突き出した。
起こしてくれって、無言のご下命。
ほんと、女王様なんだから。
でも、これって・・・甘えて、くれてるんだよね。
それが、うれしくって。
俺はうやうやしくその手にくちづけて、岩城さんを助け起こした。








「岩城さぁん」
ドア全開の、岩城さんの部屋。
俺はまっすぐにクローゼットを目指した。
ひょいと覗き込むと、奥のほうでかさかさと物音がする。
「ねえ、ネクタイ―――」
岩城さんは、弾かれたように振り返った。
「どしたの?」
言いかけて、俺は岩城さんが触れていたものに気づいた。
ウォークイン・クローゼットの一番奥。
防虫カバーのかけられた、白いタキシード。
「あは・・・!」
顔を緩めた俺を見て、岩城さんが眉をしかめた。
顔が、ちょっとだけ赤い。
「うるさい」
「・・・何も言ってないよ?」
「・・・うるさい」
まったく、もう。
俺は狭いクローゼットの中で、岩城さんを抱き寄せた。
鼻をこすりつけて、至近距離で見つめ合う。
「花嫁衣裳、もう一回着たい?」
「・・・誰が花嫁だ」
「自分で白、選んだくせに」
くすくす笑う俺を、岩城さんは不機嫌そうに見返した。
「白タキシードはお嫁さんだよって、俺あのとき、言ったでしょ?」
「・・・おまえが・・・」
「ん?」
「・・・おまえが、白を着た俺を見たいって、言ったからだろう」
憮然とした低い声。
照れ隠し、なんだよね。
「そうだけど。でも・・・残念だけど、岩城さん」
「・・・?」
「もうあのタキシードは、二度と着れないよ。俺と結婚、したからね」
絶対に離婚なんて、ありえないからさ。
そう言ったら、岩城さんは諦めたみたいに笑った。
「そんなこと、わかってる。・・・まあ、昔のことはいい」
「昔のことって」
俺は苦笑して、岩城さんのおでこにキスをした。
「あれ見て何を、考えてたの?」
「・・・忘れた」
岩城さんは、するりと俺の腕の中から抜け出した。
「んもう」
「・・・貸せ」
ぶっきらぼうに、俺が手にしていたネクタイを奪う。
「俺を嫁扱いするのは、ネクタイのひとつもまともに結べるようになってからにしろ」
ふてくされたようにそう呟いて、岩城さんは無造作に細長いシルクを俺の首に巻きつけた。
無言で、向かい合って。
岩城さんは慣れた手つきで、俺のネクタイをしめてくれた。
朝日のあたる明るい部屋で、俺は改めて、岩城さんを見つめた。
光沢のある渋いグレイのダブルのスーツ。
―――やせて一回り細くなって、昔のスーツが着られなくなった岩城さんが新調したばかり。
流れるようなきれいなテイラードのラインが、岩城さんの身体を優雅に包み込んでる。
胸元には、ワインレッドのタイ―――エルメス、だよね。
それはもう、水も滴るいい男ぶりだった。
「ほら、できたぞ」
ポンと俺の胸をたたいて、岩城さんがちょっと眩しげに目を細めた。
俺が着てるのは、岩城さんが見立ててくれたモカ色のシングルスーツ。
四つ釦で細身のシルエット。
ポケットが縦にふたつ並んでる、ちょっと遊びのあるデザインだ。
くすんだオレンジ色のゼニアのタイは、岩城さんから借りた。
「・・・俺、いい男?」
岩城さんがうっとり見てるもんで、俺は思わずそう聞いた。
「ばーか」
軽くいなして、岩城さんは時計を見た。
「行くぞ。そろそろ、迎えが来るだろう」
「うん」



岩城さんの後を追って、俺は階段を駆け下りた。
―――実を言うと岩城さん、ちょっと腰、辛そう。
昨夜は遅かったのに、強引に相手させちゃったから。
いま謝るとよけい怒られるから、黙ってるけど。
靴箱の前にしゃがみこんで、岩城さんは靴を探してた。
「おまえは、これだな」
ほとんど黒みたいなダークブラウンのウィングチップ。
そうか。
俺、このスーツに合う靴持ってないから、貸してくれるんだ。
―――興味なさそうなくせに、俺の靴や服のレパートリー、本当によく知ってるよね。
そのまま磨こうとする岩城さんから、あわてて靴を奪い取った。
「自分でやるよ、それくらい!」
岩城さんは自分の靴を履いて、ドアの前に立った。
俺の格好を、頭の先からチェックするみたいな視線。
「・・・うん」
「どうしたの?」
「いい男、だな」
「え!?」
虚をつかれて、俺は岩城さんをマジマジと見つめた。
「これなら、ご両親にもきっと・・・」
満足そうに頷く岩城さんを、俺は問答無用で抱きしめた。
「・・・おい、香藤っ」
起きたときから、ずいぶんかいがいしく面倒を見てくれると思ったら。
岩城さん、俺の家族の目を意識してたんだ。
―――ほんとに、もう。
「可愛いすぎだよ、岩城さん。・・・キスして?」
耳元で、ささやいた。
「・・・朝っぱらから」
苦笑した柔らかい唇が、そのままそっと重なる。
暖かい舌が俺の下唇をそろりと舐めて、あっという間に離れていった。
「・・・おしまい?」
「・・・もう清水さんが、来るだろう」
ドアを指差した岩城さんの左手に、光るものを見つけた。
仕事のときはしないって、なんとなく暗黙の了解になってる、結婚指輪。
「いいの、岩城さん?」
俺の視線を追った岩城さんが、ふっと笑った。
マリアさまみたいな、やさしい笑顔。
最近の岩城さんは、よくこういう顔をする。
「いいだろ、今さら」
ひょっとしてこれも、俺の家族と会うから、なのかな。
船橋に行くときは、意識して、リングしてるよね。
岩城さんは、俺たちが夫婦だってことに、とてもこだわりがあるから。
それはもう、ときどき俺がびっくりするくらい。
―――俺だってもちろん、結婚を軽く考えてるつもりは、ないんだけど。
なんて言うのかな。
古い日本の、伝統的な「夫婦」のありかたを、一生懸命なぞろうとしてる感じ?
夫唱婦随って言ったら、おかしいかな。
実家のご両親の結婚のかたちを、たぶん無意識に、真似てるんじゃないかと思う。
―――って、これは俺の勝手な想像。
プラチナの指輪をそっとなぞって、岩城さんが低く聞いた。
「嫌か?」
「まさか。俺もしたほうがいいかな、と思っただけだよ」
ちょっと首をかしげて、岩城さんは笑った。
「おまえはいいんだ。どっちでも、好きにすればいい」
ちょうどそのとき、清水さんのヒールの音が玄関の外で聞こえた。
「おはようございまーす!」
俺は先に立って、玄関を開けた。




ましゅまろんどん
11 December 2005


2012年10月29日、サイト引越にともない再掲載。若干ですがテキストを修正しました。