第四話
Je te veux 1 あなたが欲しい
《le Japon》
『んぁぁ・・・かとぉ・・・っ』
せわしない吐息。
甘いかすれ声で俺を呼ぶ、愛しいひと。
それに煽られて、俺はどうしようもなく高ぶる。
「い・・・わきさんっ」
その赤い唇にキスしたくて、キスしたくて。
岩城さんの扇情的な顔つきを想像しながら、俺は携帯電話にくちづけた。
『あぁ・・・んんっ』
まるで、そのキスに感じたみたいに。
岩城さんが電話の向こうで、果てたのがわかった。
少し遅れて、俺も手の中に吐き出しながら。
好きだよ、と遠い海の向こうにいる恋人にささやいた。
岩城さんは、絶対にさびしいとか、会いたいとか言わない。
自分で選んだ仕事でパリに行ってるから、それは言っちゃいけないって思ってるんだ。
でも、心で涙を流してる。
俺を恋しがって、俺を欲しがって。
そして、そんな自分の脆さを嗤ってる。
俺にはそれがわかった。
一時の別離がこんなにつらいものだなんて、岩城さんも、俺も、知らなかったから。
そばにいてあげたい。
そばにいてほしい。
一日でも、一時間でもいいから。
時間が許せば、絶対に会いにいくのに。
―――電話もインターネットもあるけど。
ヨーロッパはそれでも、遠かった。
冷たい雨が降っていた。
―――氷雨(ひさめ)って言うんだって、前に岩城さんが教えてくれたっけ。
夜のスタジオの関係者出入り口。
金子さんが車を回して来るのを、俺はぼうっと待っていた。
今日の午後、珍しく岩城さんのほうから電話がかかってきた。
撮影期間が、大幅に延びるって。
天候不順で、予定してたロケが流れた。
そのせいで共演のイレーヌ・デュトワの都合がつかなくなって、結局、撮影の日取りがずいぶん先にずれ込むことになったらしい。
岩城さんのエージェントが今、あわてて岩城さんのほうのスケジュールの調整をしてるんだそうだ。
―――俺にとっては、最悪の知らせだった。
ため息をつきながら、岩城さんはすまないな、と言った。
最初にこの映画の話が持ち上がってから、もう半年以上。
岩城さんが謝罪の言葉を口にしたのは、これがはじめてだった。
俺にひとり暮らしを強いていることへの、謝罪。
岩城さんの心情を思うと、俺はもうせつなくて。
空元気で、大丈夫だよ、というのが精一杯だった。
「・・・さん、香藤さん」
名前を呼ばれて、はっと我に返った。
金子さんが、バックシートにごろんと寝転がってる俺に、気遣わしげな目を向けてる。
車はいつの間にか、家の前で止まっていた。
「・・・ごめん!」
俺はあわてて、車から降りかけた。
「香藤さん、明日の件ですが」
「ああ・・・うん」
明日から3日間、山岳ロケに入る。
俺は今、ワンダーフォーゲル部の同窓会で殺人事件が起きるという、ちょっと変わった設定のサスペンス・ドラマに出演してる。
明日から、遭難したかもしれない仲間を探しに、制止を振り切って冬山に登る―――というクライマックスのシーンを撮影することになっていた。
しばらく岩城さんの声が聞けなくなっちゃう、かな。
電波の通じそうにない山奥だから。
「夕方、中止になったって連絡が入りました」
「ああ・・・って、ええっ、中止!? なんで?」
俺は素っ頓狂な声を出した。
「ロケ地がひどく吹雪いてて、危ないとしか聞いてませんけど・・・」
「でもどうせ、ほんとに登るわけじゃないのに」
「そうなんですけど。保険の件もありますし、監督も大事を取ったんでしょう」
「・・・そうだね」
俺はため息をついた。
けっこう売れっ子タレントを揃えてるから、スケジュールの再調整が大変だろう。
岩城さんも俺も揃ってロケが流れるなんて、なんだかついてない。
「・・・それで、これを」
金子さんが、俺に封筒を差し出した。
「何、これ・・・?」
中身を取り出して、俺は絶句した。
―――飛行機の、チケット。
「!!」
柄にもなく手がふるえた。
「香藤さんのスケジュール、3日間丸々空いちゃいましたから―――」
金子さんが、照れたように笑った。
「・・・勝手だと思いましたが。社長の許可を取って、それを手配しました」
パリ行きの、往復の航空券。
―――岩城さんに、会える?
「金子さん!」
俺は思わず、優秀なマネージャーの首に抱きついた。
「ちょ、ちょっと・・・香藤さんっ!!」
あわてる金子さんに、俺はキスをしたいくらいだった。
信じられない。
岩城さんに会える。
岩城さんに会える!
「ありがと!」
「・・・社長が、香藤さんが最近元気がないから、特別にオフをくれるって。嫁さんの顔拝んだらさっさと帰って来いって、伝言です」
「うん、うん」
俺はもう、上の空だった。
一日だけでも、一時間だけでもいいよ。
岩城さんに会える。
俺の心は、すでにパリに飛んでいた。
日本から直行便でパリまで、だいたい12時間。
長いようで、短い。
いや、岩城さんに会えない時間は、じりじりするほど長いけど。
実際、半日前に自分が何をしてたか考えると、案外早いってことを実感する。
家を出る前に岩城さんに電話したけど、携帯電話は留守電になったままだった。
まだ撮影中だったのかもしれない。
それとも、俺がロケでいないって知ってるから、電源をオフにしたままなのか。
―――ま、行けばなんとかなるさ。
俺は、ファーストクラスのフラットベッドに身を沈めた。
fin
le 8 novembre 2005
藤乃めい
サイト引越に伴い2012年11月11日に再掲載。
初期作品ゆえの青さと甘さが痛々しいですが、修正は最低限に留めました。
ところでこのシリーズ、ヴェネツィア編と同じく、壁紙は過半数が自作です(無料写真素材を自己流に加工)。秋冬のパリの雰囲気が伝わると良いのですが。