第三話
Tu me manques 3 香藤洋二の孤独
朝、金子さんからの電話の着信音で目が覚める。
隣りのベッドに岩城さんはいない。
がらんとしたキッチンでコーヒーを入れて、トーストにかじりつく。
おはようのキスをしてくれる岩城さんはいない。
最近お気に入りのダークブラウンのコートを持って、玄関に向かう。
じゃあな、と笑って見送ってくれる岩城さんはいない。
俺はため息をついた。
岩城さんがいない。
岩城さんがいない。
岩城さんがいない。
俺は岩城さん欠乏症で、気が狂いそうだった。
「おはようございまーす」
馴染みのメイクさんが、元気に挨拶してくれる。
「・・・はよー・・・」
あくびをしながら、俺は生返事をした。
秋から収録の始まった連ドラ。
活気のあるいつものスタジオ、いつもの共演者たち。
『冬の蝉』の撮影終了後、俺は久しぶりの主演ドラマに燃えていた。
芸能界復帰、第一作って感じだから。
―――燃えてたんだ、実際。
岩城さんがパリに行っちゃうまでは。
もちろん今だって、仕事には全力を尽くしてる。
俺を使ってくれる脚本の先生にも、監督にも、感謝してる。
ファンの応援も凄くありがたい。
いいものを作りたいと、本当に思う。
俺にだって、役者のはしくれとしてのプライドはあるから。
―――でも。
だめなんだ。
ダメダメ、マジでダメ。
台詞はちゃんと頭に入ってる。
演技もそつなくこなしてる。
スタッフも金子さんも何も言わないから、それなりの仕事ができてるのも知ってる。
でも、だめ。
心にスースーすきま風が吹いて、何をしててもむなしい。
いい役なのに、熱くなれない。
お腹に力が入らない、っていうのかな。
ふにゃけてるばっかりで、ちっとも気合が入らない。
岩城さんがいないと、エネルギーが湧かないんだ。
―――岩城さんお願い、早く帰ってきて。
神様、俺に岩城さんを返してください。
俺はまた、ため息をついた。
岩城さんの声を聞きたい。
いや、毎日、電話で話してるんだけど。
でも、吐息もささやきも遠すぎる。
岩城さんに触れたい。
まあ、電話でのあれこれも楽しいけど。
でも・・・どんなに色っぽい声で、俺の名前を呼ばれても。
俺は岩城さんの表情を見ることができない。
あの指に吸いつくなめらかな熱い肌に、キスできない。
あのどうしようもなく扇情的な細い腰を、ぎゅっと抱きしめられない。
あの切れ長の瞳が濡れてまたたくのを、これ以上ないくらい近いところで見られない。
そんなの、セックスじゃない。
―――いや、セックスに飢えてるんじゃなくて。
俺は、岩城さんに飢えていた。
「はあ・・・」
仕事のあと。
赤坂のバーで、俺はぐったりテーブルに突っ伏した。
収録は順調だ―――たぶん。
岩城さんが帰ってきたころ、ちょうど放映が始まるはず。
気合の入ってない演技をして、岩城さんに叱られないように、がんばってる。
―――つもり。
うん、視聴率が欲しいのは本当だ。
「よお」
ぽんっと頭を小突かれて、俺は顔を上げた。
「小野塚か・・・」
相変わらずすかした格好で、にやりと笑う悪友がいた。
「てめーで呼びつけといて、小野塚か、はねーだろ」
文句を言うわりには気にするようすもなく、隣りのスツールに座った。
「ああ・・・」
そっか俺、こいつを呼び出したんだ。
岩城さんのいない家に、ひとりでいたくないから。
ここのところ、俺は毎晩のように誰かを誘い出しては、辛気臭く飲んでいた。
へろん、ともう一度テーブルに倒れた俺を、小野塚は鼻で笑った。
「情けないツラ、してんなあ。6年連続抱かれたい男ナンバーワンの名が泣くぞ」
言いながら俺の髪をポンと叩いたしぐさは、ちょっと岩城さんみたいだった。
俺はうっかり、いい気分になる。
「まったく。久々の独身生活が、そんなに辛いか」
あきれた声・・・ちくしょう。
俺はむくりと起き上がった。
「・・・うるせー」
すごんでは見せたけど。
実際、俺は参っていた。
岩城さんのいない家は、はっきり言って拷問だ。
キッチンで、ファンにもらった花束を花瓶に活ける岩城さん。
ダイニングで脚本を読む岩城さん。
ソファでテレビを見ながら、俺の髪をなでる岩城さん。
お風呂場で気持ちよさそうに俺に寄りかかる岩城さん。
階段で、俺をふと振り返る岩城さん。
俺の部屋を覗いて、ほっとしたような笑顔を見せる岩城さん。
ケンカして、自分の部屋に篭城する岩城さん。
ベランダでビールを飲む岩城さん。
ベッドで、とんでもなく色っぽい顔で俺を誘う岩城さん。
たくさんの岩城さんが、幻のように俺の前に現れる。
現れては消える。
何をしていても、岩城さんの声が聞こえる。
どこにいても、岩城さんの匂いがする。
―――でも、いないんだ。
どこにも、いない。
こともあろうに、俺は小野塚に泣き言をこぼしていた。
あの人のいない家になんか、いたくない。
酔いつぶれなきゃ、眠れない。
「重症だな、そりゃ」
小野塚が、しょうがないなって感じで口を開いた。
「・・・ったく。昨日今日くっついたわけでもあるまいし。何年も連れ添った古女房相手に、そこまで熱くなれるもんかねえ」
「・・・うるせー」
「そんなに辛いなら、どうして止めなかったんだよ。岩城さんなら、おまえがいやだって言えば、パリの仕事なんて断っただろ」
「馬鹿か、おまえ!?」
俺は、小野塚を睨んだ。
「岩城さんがやりたい仕事、俺がつぶせるもんか。俺の言うこと聞いてくれちゃう人だから、なおさら、言えるわけねえだろ」
―――そう。
いっそ、行かないで、と言えればよかった。
俺の側を離れないで、と言えば、岩城さんはきっとそうしただろう。
だって、俺は知ってる。
岩城さんが心のどこかで、俺に行くなと言ってほしがってたことを。
でも、俺は言わなかった。
つまんない男のプライド云々じゃなくて。
たとえ夫婦でも、それは言っちゃいけないことだから。
俺たちは、一生かけてやりたいと思う仕事の上では、ライバルだから。
―――たとえ今、どんなに後悔してても。
「はあー・・・」
俺は、深いため息をついた。
「俺、岩城さん不足で死にそうだよ―――」
小野塚は呆れて、まずそうに酒をあおった。
家に帰ったのは、1時すぎ。
気分が乗らないときは、もちろん楽しく酔えるわけもなくって。
俺は相当、陰気な顔をしてたんだと思う。
タクシーの運転手が、気の毒そうに俺を見ていた。
その理由は、わかってる。
岩城さんと、共演の美人女優イレーヌ・デュトワ。
なんだかずいぶん仲がいいらしいって、新聞に出てた。
フランスの国民的大女優と、だよ?
それもゴシップ上等の芸能ニュースじゃなくて、国際欄の特派員メモみたいな、小さな囲み記事。
イレーヌさんのことはもちろん、岩城さんから聞いてる。
姉御肌で、ずいぶん岩城さんを助けてくれてるらしい。
岩城さんに浮気はありえないことも、俺は誰よりもわかってる。
―――でも、これは理屈じゃなくって。
心がチクリと痛んだ。
岩城さんのそばにいない俺。
岩城さんのそばにいるイレーヌさん。
嫉妬よりももっと、切実な胸の痛みだった。
深夜、俺の部屋でパソコンをつける。
自虐的だと思うけど、今ではもう日課で、ちょっとやめられない。
ブラウザを開いて、岩城さんの公式ファンサイトを立ち上げる。
俺は迷わず、岩城さんのブログをクリックする。
ファンクラブ会員限定でアクセスできる、岩城さんのパリ日記。
そこに載る何枚かのスナップ写真を、俺は食い入るように見つめた。
―――俺の知らないどこかで、俺じゃない誰かに向かって、岩城さんが笑っているのを。
営業スマイルだって、わかってるけどさ。
でも、やっぱり、見るのは辛い。
だけど同時に、美人だなあと思う。
添えられている文章は、めったに読まない。
それを書いてるのは、岩城さんの事務所の人間だって知ってるから。
俺は、解像度の悪い写真にそっと呼びかける。
岩城さん。
今日もきれいだね。
仕事、がんばってるみたいだね。
その服はじめて見るけど、すごく似合ってるよ。
―――ねえ、岩城さん。
淋しいよ。
会いたいよ。
この腕に今すぐ、岩城さんを抱きしめたいよ。
早く、早く帰ってきてね。
岩城さんがいないと、俺、ほんとに何もできないんだ。
こんなに自分が女々しいとは思わなかった。
情けない男でごめん。
―――ねえ、岩城さん。
好きだよ。
大好きだよ。
もう、寝なくちゃ。
明日の朝、また電話するからね。
元気な声、聞かせてね。
・・・おやすみ。
俺はため息をついて、パソコンの電源を落とした。
fin
le 8 novembre 2005
藤乃めい
サイト引越に伴い2012年11月10日に再掲載。
初期作品ゆえの青さと甘さが痛々しいですが、修正は最低限に留めました。今の香藤くんはこんな甘えんぼじゃないよなあ、と考えると・・・これは、まだう〜んと若いころだった。ってことで、どうぞご容赦ください(汗)。