第一話

Tu me manques 1 あなたがいないと淋しくて




「岩城さん、そういえば目薬持った?」
香藤がドアからひょいと顔を出した。
「・・・いや」
「じゃあ俺、ちょと駅前まで行ってくるよ。あそこの薬局、深夜までやってたよね」
「ああ・・・すまん」
ちらりと笑顔を見せて、香藤は姿を消した。
「・・・おい、かと―――」
あっという間に、階段を駆け下りる音。
ドアの開閉する音。
俺はため息をついた。





明朝、俺はパリに出発する。
一月半、日本には戻らない。
『La lune descendante(傾く月)』という新作映画の撮影のためだ。
メガホンを取るのは、フランス映画界の鬼才、アンドレアス・セガン監督。
息子を病気で失い心を閉ざした女性が、とある事故のショックで声の出なくなった外国人の青年と知り合い、やがて心を通わせあうようになる―――という物語だった。
心に深い傷を負ったぎこちないふたりが、ゆっくりと信頼を育て、お互いを支える力になっていく。
ラブストーリーと言えなくもないが、恋愛だとすれば、それは精神的なもの。
所謂、ふつうの男女関係にはならない。
映画はそのやさしくも不思議な関係を、冬のパリを舞台に淡々と描写することになっていた。
いかにもアートハウス系の地味な作品。
俺はその、声の出ない青年を演じる。



最初にこのオファーが来たときは、正直とても驚いた。
自分がフランス映画に出演する日が来るなんて、考えたこともなかった。
言葉の通じないロケ現場というのも、どうなるのかまるで想像がつかない。
長期のフランス滞在が必要になるだけに、スケジュールの調整ができるとも思わなかった。
それでもプロットを読んだとき、純粋に、挑戦してみたいと思った。
高度な演技力が要求される役だ。
不安要素はあったが、魅力的な仕事だった。
まして、高名なセガン監督直々の指名とあれば尚更、やりたくないはずがない。



―――ただ、やはり。
香藤の反応を考えると、気が沈んだ。
ふだん仕事の取捨選択をするときに、香藤の顔色をうかがうことはない。
だが何週間も、ひょっとするともっと長い間、ヨーロッパに行ったきりになるなら話は別だ。
単にあいつと離れていたくない、という感傷めいたものだけではなく。
夫婦である以上、そんな重要なことを、自分ひとりで決めてはいけない気がした。
だが、それでも。
俺は結局このオファーを受けるだろう、とも思った。
役者のエゴかもしれないが、このチャンスを逃したくなかった。
誰にもこの役を譲りたくなかった。
香藤への配慮からやりたい仕事を断ったら、俺はきっと後悔する。
後悔して、そしていつか、恋人を逆恨みするようになるかもしれない。
そんな真似だけはしたくなかった。
おそらく、あいつも同じ気持ちだろう。
わかってもらえるという確信はあったが、それでも心が揺れた。



「そっか・・・」
せつない沈黙。
じっと俺の目をみつめて、香藤はとうとう言った。
「撮影の間、会えなくなっちゃうね」
吐息がかかるほどの近さ。
香藤がゆっくりと、俺の顔を手のひらで包み込んだ。
明るいとび色の瞳が、さびしいよ、と訴えていたけれど。
香藤は、俺の決断に反対しなかった。





それから二ヶ月あまり。
俺はフランス語の特訓を始めた。
仕事の合間をぬって、契約を交わすために数日パリに渡り、監督や共演者に挨拶も済ませた。
主演―――俺の相手役は、イレーヌ・デュトワ。
フランス映画界きっての美人女優だ。
アメリカ映画にもときどき出演しているので、外国人俳優に疎い人間でも、どこかで聞いたことのある名前だろう。
実際に彼女に会ってみて、その飾らない性格に驚かされた。
「ジャポンからすごいハンサムさんが来るっていうから楽しみにしていたのに、既婚者なんですってね」
残念だわ。
でもちゃんと誘惑してあげるから、安心してね。
―――茶目っ気たっぷりにそう言って、イレーヌは俺の頬にキスをした。
抱きしめたら折れそうな細い肢体と、すっぴんの笑顔。
目じりの小じわに年齢が現れていたが、それでも彼女は、息を呑むほどきれいだった。
ハリウッド女優のようなつるんと人工的な美しさとは違う、生身の女性らしさ、とでもいうのだろうか。
―――そんな話をするたびに、香藤は顔をしかめていたけれど。
それでも俺は、話して聞かせなければいけない、と思った。
俺の周囲で何が起きているか、香藤は知る権利があるから。



そんな長い間岩城さんに触れなかったら、俺、死んじゃうよ。
俺も、ついていこうかな。
外国に岩城さんひとりなんて、心配だもん。



そんなことを言っては甘い吐息をつき、さんざん俺を困らせた香藤だが。
あと数日で渡仏というときになって、ぱったり泣き言を言わなくなった。
「俺がいなくても、岩城さんが元気でいられるように」
口ぐせのようにそう言って、かいがいしく俺の渡航の世話を焼く。
気が回るという意味では、俺はもともと香藤にかなわない。
俺のほうが格段に忙しいこともあって、結局、常備薬のたぐいから着替えに至るまで、俺は旅支度を香藤に任せっぱなしだった。



そして、渡仏前夜。
―――目薬なんかどうでもいいから、ここにいろ。
そう思ってしまった自分に苦笑した。
抱きしめていてほしい。
離れたくない。
いっそのこと、行かせない、と力づくで縛りつけてくれればいい。
―――どうかしてる。
仕事ですれ違いが続いたり、遠隔地のロケでずっと会えなかったり。
そんなことはこれまでも、何度となくあったのに。
パリまで、飛行機で12時間。
その距離が、俺の心にさざ波をたてる。
自分で決めた仕事なのに、ほんの少し後悔が頭をもたげる。
―――どうかしてる。
俺は、ひとりため息をついた。



ベッドの中で、香藤はひどくやさしかった。
いや、もちろん、香藤はいつだってやさしいのだけれど。
やわらかいくちづけ。
あたたかい抱擁。
惜しみなく注がれる、愛情にあふれた言葉。
俺の身体に負担をかけないように、気遣ってくれるのがもどかしい。
―――いいから。
もっと、強く。
焼き尽くすほど強く、俺を抱いてほしい。
そう、懇願した。
香藤に与えられる痛みなら、それすら悦びになる。
どれほど辛くでも、それが愛ゆえだということを、俺の身体は知っているから。
ただ、奪われたい、と思った。
狂おしい愛撫に溺れて、何もわからなくなるほど。
「岩城さん・・・」
吐息のようにささやかれる俺の名前。
目を開けると、困ったような香藤の顔があった。
「・・・ん?」
太腿にいっそう強く力を入れ、香藤の腰を逃さないようにはさみ込んで、俺はそのきれいな瞳を見つめた。
「泣かないで―――」
香藤の指が、俺の顔をなぞった。
そうされて初めて、睫毛が濡れていることに気づいた。
「泣いて、なんか・・・」
あたたかいキスが、まぶたに落ちた。
香藤の舌が、癒すように俺の瞳のまわりをなぞる。
「・・・ん・・・」
心地よくて、目を開けていられない。
愛してやまないこの男を、今夜はずっと見つめていたいのに。
「香藤・・・」
もっと熱くなりたくて、俺は香藤の首に両腕を回した。



声が聞けないのなら、目を見ればいい。
お互いの姿が見えないのなら、肌のぬくもりを感じればいい。
肌が合わせられないのなら、心に手を当てればいい。



ほんの数週間の別離。
少しの間会えないくらいで不安になるような、そんな脆い関係ではないはずだ。
わかっている。
わかっているけれど。
―――女々しいと、笑うなら笑え。
離れたくない。
俺の心が、そう軋んだ。





「それでは、行ってまいります」
清水さんが、香藤に丁寧に頭を下げた。
翌朝の成田空港。
彼女は最初の一週間ほど俺に同行したあと、日本に戻ることになっていた。
香藤が穏やかな笑顔を見せる。
「こちらこそ、岩城さんがお世話になります。よろしくお願いします。清水さんも、小さな娘さんを置いて海外出張なんて、大変ですよね」
ざわめくロビー。
日本語、英語、中国語。
喧騒の中、周囲の旅行客が俺たちに気づいて足を止める。
「それじゃ・・・」
清水さんが、それとなく俺を促した。
「ええ」
出発ゲートにちらりと視線を走らせた。
ここから先、香藤は入って来られない。
「じゃあ岩城さん、元気でね。俺がいなくても、ちゃんと食事してよね」
「ああ」
「仕事、がんばって」
「ああ」
「毎日、電話するからね」
「・・・ああ」
「あぶないから、夜道をひとりで歩いちゃだめだよ?」
「・・・ばか」
笑おうとしたが、できなかった。
行かないで。
あなたがいない夜は長すぎるから。
香藤が全身で、心でそう言っていたからだ。
明るいとび色の瞳が、俺を映して揺れていた。
ばか、そんな顔をするな。
―――周囲にどれだけ人がいると思ってるんだ。
俺は深いため息をついた。
「清水さん」
まっすぐ香藤を見つめたまま、彼女に声をかけた。
「はい?」
「―――すみません。すぐ追いつきますから、先に入っててください」



彼女は黙ってそっと、俺の脇を離れた。
「岩城さん?」
「・・・おまえのせいだ。責任取れよ」
せわしなくそれだけ、耳元でささやいて。
俺はしっかりと香藤を抱き寄せ、唇を重ねた。



fin




le 28 octobre 2005
藤乃めい





甘い・・・甘すぎる。砂糖を吐きそうな甘さです(苦笑)。
乙女度120%設定の岩城さんと香藤くんですが、若気の至り(筆者含む)だと思って見逃して下さい。
初期作品ゆえの青さが痛々しいですが、修正は最低限に留めました。2012年11月5日、サイト引越に伴い再掲載。