第二話
Tu me manques 2 あなたがいないと淋しくて 《1》
聞いたことのないデジタル音が耳障りで、目が覚めた。
がらんとした真っ白な壁にかかっている時計を見る。
まだ、朝の7時前。
薄闇が、とろりと部屋を覆っていた。
ベッドの中から腕を伸ばして、空気の冷たさに驚く。
うるさい音の正体を手探りでつかんだ。
「・・・はい」
起きぬけの、喉にはりついた声。
『岩城さん!』
愛しい声が、飛び込んできた。
俺は一気に覚醒する。
「かとう・・・」
『よかったあ。番号、違ってたらどうしようかと思ったよー。清水さんから、朝メールもらったんだ』
「そうか」
昨日、パリ滞在中に自由に使えるようにと、現地の携帯電話を手渡された。
仕事に関しては、専属のエージェントがすべて連絡を代行する。
だからこの携帯電話がプライベート用だと、はなから想像はついたが。
『まだそっち、朝早いんだよね。起こしちゃってごめん。俺、ずいぶん我慢したんだけど、もう待てなくって―――』
香藤が申し訳なさそうに言った。
「いや、いい。今、日本は何時だ」
『もうすぐ3時。今ちょうど休憩中なんだ。この後、夜までずっと収録に入っちゃうから。ほら、例の連ドラの―――』
地球の向こう側の声が、すぐ耳のそばで聞こえる。
まるで、ほんの少し手を伸ばせば届くところにいるみたいに。
『・・・岩城さん?』
心配そうな声。
「聞いてるよ、香藤。なんでもない・・・ちょっと寝ぼけてただけだ」
『パリは、どう?』
「どうも何も、まだ5日だからな」
俺は苦笑した。
「このまえ来たときは、車での移動ばかりだったから・・・今回初めて、地下鉄に乗ったよ。バスと地下鉄に乗るのと、パン屋で買い物をするくらいは、できるようになったぞ」
『フランス語、通じた?』
「はは・・・まあ、バゲットをひとつ、って言うくらいはな」
『撮影はいつから?』
「明日、衣装合わせがある。その後すぐ撮影に入りたいらしいな、セガン監督は。何しろ、俺がここにいる期間が限られてるから」
『だろうね。たかが一ヶ月や二ヶ月で映画一本撮るなんて、かなり無理しないとできないよね。・・・俺にとっては、すっごい長いんだけど』
香藤が、さびしそうに笑った。
「香藤・・・」
そんな声を出すな。
そう言ってやりたかったが、俺自身、明るい声を出せている自信がない。
ふと、携帯ごしに遠いノイズが聞こえた。
呼ばれて、香藤が返事をしているのがわかる。
『ごめん岩城さん、俺、行かなきゃ』
「ああ。がんばれよ」
『うん。キスして、岩城さん・・・?』
声をひそめて、香藤が甘くささやいた。
心臓が、トクリと跳ねた。
バカ、と反射的に返しそうになったのを呑み込んで、俺は携帯電話を握りしめた。
ちいさなマイクに唇を寄せ、キスを落とす。
味気ない機械へのキス。
それでも、恋人に気持ちを伝えてくれるなら。
『岩城さん・・・』
返ってきた香藤のキスは、小刻みに3回。
『・・・おでこと、まぶたと、唇だよ』
わかると思うけど。
そう言って、香藤はくすりと笑った。
「ああ・・・」
わかるさ。
そばにいるなら、もうとっくに、おまえの手が俺の腰を這い回っているころだ。
『じゃあまたね、岩城さん。愛してるよ』
派手に音を立てておまけのキスをして、香藤は電話を切った。
俺は、シーツの中で深いため息をついた。
俺は、初めての外国映画出演のために、単身パリに来ていた。
「La lune descendante(傾く月)」というタイトルのついた、フランス映画界の大物アンドレアス・セガン監督の新作だ。
過密スケジュールをむりやり調整して、なんとか作り出した二ヶ月弱のパリ滞在。
映画を一本撮るには短すぎる時間だが、セガン監督はそれでも俺にオファーを出した。
香藤を置いて長く日本を離れることに、躊躇しなかったわけではないが。
それでも俺はこの仕事を受けた。
―――まもなく、撮影が始まる。
年明けまで、おそらく日本に戻ることはないだろう。
パリに来て5日目。
俺は、奇妙に穏やかな日々を過ごしていた。
街に慣れるために必要な時間なのだと、監督には言われていた。
ひとりの仮住まいには贅沢すぎるほどの、左岸の高級マンション。
家政婦が出入りし、掃除をするだけでなく、冷蔵庫にぎっしり食べ物を詰め込んで帰って行く。
そのうえ毎週、パリ市内の日本料理屋から和食が届けられることになっていた。
もちろん、俺の体調を気づかう清水さんが、事前に手配してくれたものだ。
パリ在住の日本人エージェントと専属の通訳が、不慣れな俺の世話を何かと焼いてくれる。
破格の待遇だった。
熱いシャワーを浴びて、俺はアンティークの姿見の前に立った。
情けないが、どうしても気になってしまうからだ。
バスローブの紐をほどいて、鏡に映る裸体を確かめる。
わき腹と内股に点々と散った薄赤色の痕。
それをそっと、指で辿った。
最後の夜に香藤が念入りに残したキスマークは、ほとんど消えかかっていた。
―――ふだん、こんな痕をつけられて嬉しいと思ったことなどないが。
それがまだ肌にあることに、俺はひそかに安堵する。
初冬のパリをひとりで歩いた。
キンと張りつめた朝の空気が、頬に心地いい。
セーヴル通りのアパルトマンを出て、サン・ジェルマン大通りを目指す。
ポケットに地図を忍ばせてはいるが、特に行くあてがあるわけではない。
東京と違って、誰も俺を知らない開放感。
それもきっと長くは続かないよ、とセガン監督には言われていたが。
映画出演が決まって以来、フランスのマスコミからの取材が殺到した。
無理のないことだ。
無名の日本人俳優が、天下のセガン監督に見込まれたという話題性。
フランスきっての人気女優、イレーヌ・デュトワとの共演。
俺がかつてAVに出ていたことも、やむを得ないことだが、記者連中の興味を引いた。
―――そして、やはりというべきか。
香藤の存在が大きかった。
俺に同性のパートナーがいることが、何より彼らの好奇心を煽ったのは間違いないだろう。
事務所サイドは、俺がゲイだと報道されることを極端にいやがるが、俺自身は、あまり気にしないように努めていた。
香藤のように笑い飛ばすことは、今もできないが。
それでも他人の勘繰りに動揺しない程度には、図太くなったつもりだった。
自分の性癖について、考えたことがないとは言わない。
だが、いつの間にか悩まなくなっていた。
香藤に愛され、抱かれて悦びを感じることがゲイである証拠だというのなら、否定はしない。
―――誰がどう思おうと、俺が香藤を、香藤だけを愛しているという事実は変わらないから。
男であれ女であれ、香藤以外の人間と、そういう関係になるのは考えられない。
それでいいじゃないか、と思っていた。
「キョースケ!」
久しぶりに会ったセガン監督は、俺を見てうれしそうに笑った。
「ボンジュール」
小声で返した俺に、おや、という顔をする。
「フランス語の勉強をしたの?」
俺は、照れて笑った。
「とりあえず、あいさつ程度は」
「勉強家だね。いい姿勢だよ」
―――と、これは同行する通訳が訳してくれた。
「・・・それ」
監督が、目ざとく俺の指に視線をやった。
「・・・はずしたほうが、いいですか」
くすり指のプラチナリング。
「この間会ったときは、してなかったよね。うーん」
香藤に会えない間、はずさずにいられればと思ったのだが。
ちょっと顎をなでてから、セガン監督は言った。
「ま、いいんじゃないかな。マリアージュしてるのも、ミステリアスで」
脚本の先生には言っとくよ、と言われて。
俺は黙って頭を下げた。
衣装合わせをしているところへ、イレーヌが顔を覗かせた。
「キョースケ、フランス語ができるようになったんですって?」
うれしそうに、大きな瞳を輝かせる。
大輪の花のような存在感だ。
「ほんの、カタコトですよ」
「私の日本語よりは上手よ」
さらりとそう言って、俺の両頬にキスをした。
フランス人の挨拶のキスは、4回が基本だ。
左右の頬に、ご丁寧に2回ずつ。
まあ、キスといっても頬に軽く唇がかすめる程度の、一瞬の接触だが。
こっちに来てからというもの、俺は女性スタッフに紹介されるたびに、この「キス4回」を律儀に繰り返している。
初対面のときだけかと思っていたら、通訳に釘をさされた。
「岩城さん、このキスはあくまで、ふつうの挨拶ですからね。毎日、忘れないでくださいよ」
そのうえ、別れ際にキスをすることもあるという。
スタッフの半数は女性だ。
いったい一日に何回、キスをするんだろう。
―――香藤が知ったらひどく妬くだろうな。
俺は苦笑した。
ヘアメイクを担当するのは、ジャン=ピエールというすらりとした若者だった。
赤く染めた髪に、細身のジーンズ。
外国人の年齢はよくわからないが、まだ20代だろう。
俺の髪を触って、そばかす顔で笑った。
「きれいな黒髪ですね。一度も染めたことがないみたいだ」
染めたことはないよ、というと、びっくりしたように俺を見た。
今どき、カラーリングの経験もない人間に会うのが珍しいらしい。
―――香藤のような髪だったら、俺も染めているかもしれないが。
監督には、素のままの俺の外見を壊したくない、と言われている。
「ちょっとトリミングするだけでいいみたいですね」
それはジャン=ピエールも、承知しているようだった。
撮影は、ほとんどパリ市内のロケだった。
自然光が基本なので、朝の10時から夕方4時くらいまでがコアタイム。
案外と規則正しい撮影スケジュールだった。
その日は、オルセー美術館の最上階のバルコニー。
場所柄、大勢の観光客が興味津々で撮影の様子を眺めていた。
俺の演じる外国人の青年が、イレーヌの扮する女性、マリ=コレットに初めて出会うシーン。
息子を失って人生に絶望した、うつろな瞳の女性。
同じくらい空虚な目をした異国の青年。
言葉のない、パントマイムのような場面だ。
セーヌ川から吹きつける風が、肌を切るような冬の朝だった。
眼下を流れる、銀糸のようなセーヌ川。
その向こうに壮麗なルーヴル宮殿が見える。
冴え冴えとしたモノクロのトーンが、美しい街だと思った。
「キョースケ、準備いい?」
「はい」
俺は深呼吸して、目を閉じた。
何かのショックで、いっさい口の聞けなくなった異邦人。
自分でも受け止めきれないほどの哀しみを抱え、孤独で、心が凍りついている。
誰もわかってくれない。
そう思うから、言葉がすべて無意味に思える。
―――それでもどこかで、誰かに理解されたいのだ、本当は。
誰かにあたたかく抱擁され、守られることを渇望しているのだ。
生きている生身の人間ならば、誰でも。
ふ、と。
おぼろげな過去が蘇った。
香藤にめぐり合う以前の俺は、もしかしたらこんなふうだったかもしれない。
肩肘を張り、世の中との関わりを否定し、ひとりでも生きていけると強がって。
愛を知らず、ただ虚勢を張っていたかつての自分。
その閉ざされた心が、今回の役と重なった。
―――この青年にとって、この出会いは、救いだったのだ。
俺は、この役をできる、と思った。
撮影が始まって2週間。
「キョースケ!」
帰宅準備をしていた俺を、イレーヌが呼び止めた。
「この後、ちょっと時間ちょうだい?」
言われるままに、彼女の行きつけだというモンパルナスのカフェに、ふたり並んで腰を下ろした。
どんなに寒い日でも、フランス人は屋外のテーブルが好きだ。
イレーヌもそうなのだろう。
亜麻色の髪をかき上げ、それから細いタバコに火をつける。
一連の動作が、映画のように洗練されていた。
俺の視線に気づいて、イレーヌが困ったような顔をする。
「もう・・・そんな目で見ないで」
あなたは自分のまなざしの威力に気づいてないのね、と笑われた。
香藤と同じことを言うな、とぼんやりと思った。
「ねえキョースケ。・・・話して?」
イレーヌが唐突に切り出した。
「言葉の壁があって、おまけに声の出せない役で。もとからおしゃべりじゃないんでしょうけど、私、キョースケが黙ってるの、耐えられないのよ」
彼女は真剣だった。
「・・・何も言わずに、毎日だんだん沈んでいくあなたを見るのはつらいわ」
「何を・・・」
「ごまかしてもダメ。演技はちゃんとしてるし、監督の前ではプロの役者の顔だから、みんな気づかないのかもしれないけど。ひとりで苦しむのはよくないわ。話して。それだけでも、気がまぎれるかもしれないでしょ?」
「え―――」
俺は、イレーヌの洞察力に驚いた。
すべて、お見通しだと言うのか。
女々しい心の葛藤など、共演者やスタッフに見せるつもりはなかった。
完璧に、隠し通しているつもりだったのに。
「イレーヌ・・・」
彼女のあたたかい視線を感じながら。
―――ふと、話したい、と思った。
話してもいいのではないか、と思った。
なんとも形容しがたい、この晴れない違和感。
俺の心に巣食った小さな、小さな空虚感。
そう、俺の演じる青年が、偶然に出会ったマリ=コレットに救われたように。
「・・・本当に、バカバカしい、ことなんですけど」
迷いながら、俺は口を開いた。
―――香藤がいない。
淋しいのは覚悟していたし、何より自分で決めたことだ。
俺にとって仕事は大切なことで、あいつもそれをわかってくれているから。
「・・・ただ、怖い気がして」
「恋人の心変わりっていうこと?」
「いや、それはないと信じてます」
香藤を失う、という不安ではなくて。
「朝、起きて、仕事に出かけて、帰宅して。料理を作ったり、テレビを見たりする、そういう俺の日常の生活のどこにも、あいつがいない―――」
イレーヌは、ちょっと目を丸くした。
「もちろん声は、毎日のように聞いてるんですけど。でも・・・あいつがいなくても、俺の生活は成立する。あいつは、極端に言ってしまえば、今の俺の毎日とは関係がない。何年も一緒に暮らして、お互いがいないと息ができないくらいに思っていたのに―――」
恋人のいない日常に、慣れるのが怖い。
恋人の関わらない俺の生活が、あるのが怖い。
たどたどしくそう言った俺に、イレーヌはため息をついた。
目が・・・笑っている。
「なんだ・・・心配して、損した! キョースケ・・・あなたってほんと、ばかね」
「・・・え?」
「わかってないのね、あなたがどれだけ幸せか。何ヶ月も放っておく恋人が浮気はしないと、断言できるくせに」
「それは・・・」
「普通はまず、そこを心配するものでしょ? でもあなたは、違うのね。自分の24時間すべてを、彼に知っていてほしいのね。そうじゃないと不安なのね?」
答えあぐねて、俺は彼女を見つめた。
「・・・束縛されていたい、ってことでしょ、それ。まったく、おのろけもいいところだわ」
大げさに肩をすくめられ、俺は赤面した。
―――束縛・・・?
「いい、キョースケ。どれほど愛し合っている恋人でも、夫婦でも、お互いの行動すべてを把握するなんて不可能なのよ。普通ならね。どれだけ心が繋がっていても、身体はふたつあるんだから、それはあたりまえなの。あなたが、そんなことも知らないっていうのは・・・」
イレーヌは、からかうような視線を向けた。
「本当に、よっぽど彼とフィジカルな関係なのね。いつもそばにいて、触れあって、ひとつになって確かめあって、それが当然・・・っていう。ああもう、とんでもないわ、あなたたち!」
彼女は笑って俺の首に腕を巻きつけ、耳元にキスを落とした。
「イレーヌ・・・」
鼻をくすぐる、やらわかな香り。
抱き返すこともできずに、俺はそっと彼女の名前を呼んだ。
「彼が恋しくて憂えるあなたは素敵よ、キョースケ。でも、そういう色っぽい話は、あんまり人前でしないほうがいいわ。まるっきり、自覚ないみたいだけど」
「・・・色っぽいって」
困惑した俺にもう一度キスをして、彼女は立ち上がった。
「だって私、うっかりあなたと彼のセックスライフを覗いちゃった気分だもの。・・・ヨージ、だったかしら? あなたをそこまで夢中にさせる彼に、会ってみたいわね」
さらりとそう言って、片手を挙げると。
イレーヌは俺を残して、颯爽とカフェを後にした。
a suivre
le 5 novembre 2005
藤乃めい
サイト引越に伴い2012年11月6日に再掲載。
初期作品ゆえの青さと甘さが痛々しいですが、修正は最低限に留めました。