Clair de lune  ― 月の光 ―

Clair de lune  ― 月の光 ― 1




「うわ・・・」
出がけに郵便物をチェックしていた香藤が、小さな声をあげた。
「うん?」
片手にマグカップを持った岩城が、キッチンから顔を覗かせた。
起きぬけのパジャマ姿のまま、香藤に歩み寄る。
「どうした」
「うん、何でもないよ」
くしゃり、とわずかな音。
ポケットに手を突っ込みながら、振り返った香藤が微笑した。
「じゃあ、行って来るから」
テーブルの上に、ダイレクトメールやクレジットカードの請求書を広げたまま。
香藤は岩城を無造作に引き寄せて、額にキスを落とした。
「ああ」
気をつけて、と小さく岩城が応じた。
「ロケは三日の予定だろ?」
「うん、金曜日には帰るよ。岩城さんは、もう少し寝てて」
片目をつぶって見せてから、香藤が玄関に向かう。
岩城はその後ろ姿を、黙って見送った。



金色の縁取りのあるカードに、岩城は目を留めた。
「あれ・・・」
テーブルに投げ出された、結婚式の招待状。
開封されているということは、それが香藤宛だという意味だ。
そこに置いたままなのは、岩城に見ておいてほしいという暗黙のサイン。
「実家から、転送されて来たのか」
消印をちらりと見やって、岩城はそれをつまみあげた。
馴染みのない名前の羅列。
日取りは10月。
場所はありふれた都内のシティ・ホテル。
それ以上は興味の持ちようがなくて、岩城はふわりと招待状を放り出した。
「ま、よくあるやつかな・・・」
一種の有名税と、言えるかも知れない。
役者としてそこそこ名が売れてから、かつての級友や遠い縁戚とおぼしき人物から、結婚式や同窓会の招待状が頻繁に来るようになった。
顔すら思い出せないような相手からの誘いの大半は、おそらく興味本位。
芸能人とつきあいのあることを自慢したがる手合いの便りには、岩城も香藤も、慣れっこになっていた。
―――たぶんこれも、そういう類だろう。
ほっとひとつ、ため息をついて。
岩城はゆっくりと緑茶を飲み干すと、寝室に向かった。



☆ ☆ ☆



香藤が撮影から戻ってきたのは、結局それから五日後だった。
しのつく雨の降る、蒸し暑い夏の夜。
うとうとしかけていた岩城はベッドの中で、玄関の扉の音を聞いた。
フローリングを素足で歩いて、バスルームに向かう音。
がさがさ、服を脱ぎ捨てる音。
かすかに響くシャワーの音。
カチリとガラスのドアが開く音。
ばさばさとタオルを使う音。
階段を忍び足で上ってくる音―――。
何をしているのか、手に取るようにわかる。
そのひとつひとつに耳を澄ましながら、岩城は穏やかに微笑していた。



静かに、香藤が灯りの消えた寝室に滑り込んだ。
「・・・おかえり」
眠そうなかすれ声に振り返り、香藤が嬉しそうな声を出す。
「ただいま。起こしちゃったね」
「いや、寝てはいなかったから・・・」
甘えるように、岩城は布団の中から両腕を差し伸ばした。
くすり、と笑って。
香藤は自分のベッドを素通りして、岩城のベッドに腰かけた。
「ん・・・」
岩城の両手を捉えて、上半身を抱き起こす。
力の抜けた身体が、くたりと香藤の逞しい胸にもたれかかった。
「身体が熱いよ」
ささやきながら、香藤は岩城の首筋に顔を埋(うず)めた。
「いい匂い・・・」
「・・・寝苦しかったんだ・・・」
恋人に身体を預けたまま、岩城が言い訳のように呟いた。
「寂しかったとは、言ってくれないの?」
ほの白い項に、ゆっくりと舌を這わせながら。
「んん・・・」
香藤の言葉に、岩城は熱い吐息で応えた。
「・・・毎日、電話で話してただろう」
岩城のしなやかな両腕が、するりと香藤の身体に回された。
「うん・・・そうだけど」
濡れた舌に耳たぶを舐められ、岩城がぞくりと身体を震わせた。
「誰かさんが、寂しそうだったからだよ?」
「・・・ばか」
香藤の手が岩城のパジャマの裾をかいくぐり、火照った肌に触れた。
「あ・・・」
いたずらな指が、吸いつくような素肌を弄る。
久しぶりの香藤の愛撫を悦んで、しどけなく熔けていく肢体。
「香藤―――」
甘い吐息を漏らしながら、岩城は香藤の頭を抱えてシーツに沈み込んだ。
「キスして、岩城さん」
岩城のパジャマをあっさり剥ぎ取りながら、香藤が低くささやいた。
陶然と、求められるままに。
「・・・んふ・・・」
岩城は両腕でしっかりと香藤を抱き寄せ、深いくちづけを交わした。



☆ ☆ ☆



「ねえ、岩城さん・・・」
大きく胸を喘がせながら、香藤が呼びかけた。
「ん・・・?」
汗まみれの身体を、ぴたりと香藤に寄り添わせながら。
重たげな瞼を震わせて、岩城は生返事をした。
午前三時。
久しぶりのセックスで、ぐったりした四肢を投げ出したまま、岩城は熱い息を吐いた。
「・・・お願いがあるんだけど」
ぼんやりと天井を見つめながら、香藤が言葉を続けた。
その響きに、かすかな照れと戸惑いを感じ取って。
岩城は肘をついて緩慢に身体を起こすと、じっと香藤を見つめた。
「どうした」
情事の余韻にざらついた、優しい声。
額に汗を浮かべた岩城を見上げて、香藤は滲むような笑顔を見せた。
わずかに紅潮したままの恋人の頬を、香藤が手の甲でそっと撫でる。
岩城が、その指先をちろりと舐めた。



「・・・昔の彼女の結婚式に、俺、出てもいいかな」
虚をつかれて、岩城が目を瞠った。
「ああ―――あれか」
数日前の、招待状を思い出す。
のろのろと身体を伸ばして、岩城は再び、シーツに寝転がった。
小さく笑って、香藤の胸をポンポンと叩く。
「・・・聞いてやるぞ。言ってみろ」
「え?」
香藤が半身を捩って、岩城を見据えた。
岩城はほのかに微笑して、香藤の顔にかかる乱れ髪をかきあげた。
「なんか事情があるんだろう?」
「・・・岩城さん」
「そんな顔をするな」
くしゃりと、岩城が笑った。
「友だちの結婚式くらい、好きに行けばいい。いつもそうしてるだろう」
「そうだけど」
「・・・適当に何とでも言えるものを、わざわざ俺にお伺いを立てるんだ。わけあり、ってことだよな」
きらめく漆黒の瞳に、至近距離で覗き込まれて。
香藤は降参のポーズで、小さく笑い声を上げた。
「余裕だね、岩城さん」
「・・・あたりまえだ」
むくりと身体を起こして、岩城はしっとりと唇を重ねた。
香藤の唇を、軽く啄ばむように愛撫する。
「んん・・・」
香藤の腕が、岩城の細い腰を抱き込んだ。
「それとも、俺が・・・」
「うん?」
「心配しなくちゃいけないような、ことなのか?」
岩城の視線を、かっちりと受け止めて―――。
香藤は真面目くさって、首を横に振った。



「・・・なら、好きにすればいい」
恋人の抱擁から、そろりと抜け出しながら。
岩城はほうっと息をついて、とさり、と枕に頭を落とした。
強くなった雨音を窓越しに聞きながら、ふと、呟いた。
「そろそろ、寝たほうがいいな―――」
「聞かないの?」
やわらかな毛布をたぐり寄せながら、香藤が問いかけた。
「聞いてやるって、言ったろう」
香藤の肩に頭を預けて、岩城がくすりと笑った。
「・・・一度デートしただけ、なんだけど」
毛布の下で岩城を抱き込みながら、香藤がため息をついた。
「それが、結婚式に出るほどの義理なのか?」
「うん・・・まあね」
鼻先を岩城の髪に擦りつけて、香藤は目を閉じた。
「・・・洋子のクラスメートだったんだ」
「頼まれて、断れなかった?」
「あは」
肩を揺らして、香藤は笑った。
「うん。あの頃の俺、もてたんだよ」
ひそやかに微笑して、岩城が頷いた。
「だろうな」
「・・・そんな、あっさりと。岩城さん、妬いてくれないの?」
「おまえの過去にか?」
冗談じゃない、と岩城は眉をしかめて言い返した。
「言われなくても、おまえがもてるのは、嫌になるほど知ってる。昔の恋人にいちいち嫉妬してたら、俺の身がもたない」
そう言って、心なしか頬を染める岩城を、香藤は嬉しそうに見つめた。
「岩城さん・・・」
恋人を抱きしめる腕に、ぐっと力が入る。
「こら」
擦りつけられた腰の熱さに気づいて、岩城が苦笑した。
「まだ話の途中だぞ」
「うん・・・」
岩城の肩口にキスを落として、香藤が頷いた。
「その子さ、まあ、香藤先輩に憧れてました、ってやつだったんだけど―――」
「うん?」
「・・・なんか、心臓の病気を抱えてて」
岩城はふっと目を細めて、香藤を見つめた。
「いや、大丈夫。元気になったから、結婚するんだよ」
岩城の懸念を読み取って、安心させるように香藤が優しくささやいた。
「そうか」
「うん。でも高校のときは、あと何年生きられるか、みたいな話だったんだ。それで、大きな手術の前に一度、デートして欲しいって・・・」
「・・・なるほどな」
ふっと全身から力を抜いて、岩城がため息をついた。
「おまえも、大変だったな」
「ううん・・・」
照れたように、香藤は微笑した。
「俺、ガキだったからさ。一生の思い出になるからって頼まれて、ボランティアでもするような感覚で、軽く引き受けたんだ。いい気なもんだね」
「香藤・・・」
「人気者はつらいよ、って感じ? メロドラマにでも出演する気分でさ。その子の気持ちなんて、実は全然、考えてなかったと思う」
岩城は首を振ると、そっと腕を伸ばして香藤の頭を撫でた。
「そんなものだろう、子供なんだから」
「うん」
気持ちよさそうに目を閉じて、香藤は岩城の手の感触を追いかけた。
「・・・その後しばらくして、その子が入院して、休学して―――」
香藤は一度、二度、大きく深呼吸した。
「俺はそのまんま卒業して。それっきり―――」
「・・・そうか」
岩城は静かに、吐息をもらした。
「岩城さん・・・」
「よかったな」
「うん?」
香藤はひょいと首を持ち上げて、暗がりの中で岩城を見つめた。
「結婚式を挙げられるくらい、今は元気なんだろう?」
「うん、そうみたいだよ」
「行って来いよ。幸せな彼女を見れば、おまえも気が晴れる・・・」
岩城の声が、眠たげにかすれた。
「・・・うん」
腕の中の暖かい身体を、香藤はそっと抱きしめた。
「おやすみ、岩城さん」
「ん・・・」
目を閉じたまま、うっすらと微笑みを浮かべて。
睡魔に引き込まれるように、岩城はすうっと眠りについた。



つづく


ましゅまろんどん
30 October 2006



2013年2月3日、サイト引越にともない再掲載。初稿を若干修正しています。