Clair de lune  ― 月の光 ―

Clair de lune  ― 月の光 ― 2




☆ ☆ ☆



その日は、眩しいほどの秋晴れだった。
「もうずいぶん、空が高いな―――」
昼下がりの寝室。
ベランダから戻ってきた岩城は、颯爽と部屋に入ってきた香藤を見止めて、顔をほころばせた。
「どう?」
渋い色合いのかっちりしたスーツに、明るいストライプ柄のシャツ。
合わせた海老茶色のタイは、岩城のクローゼットから失敬したものだ。
「ずいぶんまた、地味なのを選んだな」
歩み寄り、ネクタイの結び目を整えてやりながら、岩城が言った。
「目立たないように、気を遣ったつもりだけど」
くすり、と岩城が笑った。
「無理だろ」
「また、そんなこと言う」
「何を着てようが、おまえは人目を惹くからな」
ふっと顔を上げて、岩城はほのかに笑った。
「せいぜい大人しくして、新郎新婦に花を持たせてやれよ?」
「岩城さん」
こつん、と額をつけて、香藤が秘めやかな微笑をもらした。
「もっと素直に、言ってくれない?」
「うん?」
かすめるようなキスを盗んで、ささやく。
「それって、俺が誰よりもいい男だっていう意味でしょ」
「・・・ばか」
眉をしかめて、岩城はついと身体を離した。
くるりと向こうを向いたその細身を、香藤が背後から抱き寄せる。
「ねえ、岩城さん」
「ん?」
香藤の肩に後頭部を預けるようにして、岩城が聞き返した。
「・・・好きだよ」
こぼれ落ちる愛の言葉にかぶせて、香藤は岩城の額にキスを落とした。
「大好きだよ」
封印のように、重ねられる誓い。
岩城はくすぐったそうに笑って、わずかに頷いた。
「わかってる」
自分を捉える太い腕に、そっと手のひらを添えながら。
「―――そろそろ時間だぞ」
ゆっくりと抱擁を振りほどき、岩城は時計を指差した。
「うん・・・」
なお名残惜しげな香藤の、背中をポンと叩いて。
「ほら、行って来い」
岩城は振り返って、にっこり笑った。



「あ、これ」
立ち去ろうとした香藤が、思い出したように。
ポケットの中から、小さな紙切れを取り出した。
「なんだ?」
「読んどいてよ。読んだら、捨てていいから」
ウィンクを残して、香藤はするりと姿を消した。



岩城は手元に残された紙片を、しげしげと眺めた。
くしゃくしゃのメモを開くと、女性の字で短い手紙があった。
「あ・・・」
今日、晴れの日を迎える花嫁の、香藤へのメッセージ。
たった一度のデートが、当時の彼女にとってどれほど特別なものだったか。
叶わぬ夢だと思っていたウェディングドレスを着ることへの、手放しの喜び。
かわいそうな病弱の少女ではなく、幸せな花嫁姿を見て欲しい、と。
香藤先輩のように、幸せな家庭を築きたい、と―――。
「・・・かなわないな」
幸せが弾けそうなメッセージを読みながら、岩城は苦笑した。
会ったこともない、おそらく一生会うこともないだろう女性。
・・・顔も声も、知らない相手ではあるが。
幸せになって欲しい。
岩城は心底から、そう思った。



☆ ☆ ☆



その日、岩城が帰宅したのは、夜も9時を回った頃だった。
雑誌の取材が一本あっただけの、中途半端な仕事の終わり。
「・・・香藤?」
リビングに恋人の気配がないことに、ふと、眉を寄せてから。
「二次会にでも、行ったかな」
居心地が悪くて、早々に退席するよりはいいだろう。
「洋子ちゃんも、いるだろうしな―――」
そう思いを巡らせながら、岩城はキッチンに向かった。
マグカップになみなみと、紅茶を淹れて。
岩城はリビングのソファに、のそりと腰を下ろした。



香藤の過去の女性遍歴が話題に上ることは、これまでにも何度かあった。
それを微笑ましいと思ったことも、傷つけられたこともある。
すべてを知っているとは思わないし、すべてを知りたいとも思わない。
―――まったく何も感じないと言えば、嘘になる。
だが、恋人の歩んできた華やかな人生を考えれば、あたりまえのことだ。
そう、思ってきた。
「・・・お互いさまだしな」
そう嘆息して、岩城は苦笑した。
「いや、そうでもないか―――」
自分だって、叩けば多少の埃くらい出るだろうが。
香藤のように、後々まで他人(ひと)の心に印象を刻むような、そういう恋愛をした記憶はない。
年齢ばかり重ねたけれど、だから人生経験が豊かだということにはならない。
それは日々、香藤に身をもって教えられている。
「子供だったのは、俺だな・・・」
希薄な人間関係しか、知らなかった。
―――香藤が強引に、岩城の人生に踏み込んで来るまでは。
太陽のような恋人に愛され、導かれ、燃えるような恋を知った。
「・・・とんでもないのに、捕まったもんだな」
岩城はそっと、唇をほころばせた。



ガラリと窓を開放して、庭を眺めた。
蒼い闇に、煌々と街を照らす丸い月。
「十六夜の月、だな・・・」
さわさわと秋風が吹き、リビングの空気がひそりと揺れた。
都心とは思えない静けさの中。
岩城はじっと、立待月を見つめた。



「・・・これからも、こういうことはあるんだろうな」
声に出して、その心もとなさに岩城は苦笑した。
今回はただ、高校時代の淡い青春のひとコマ。
若かった自分の驕りに気づいた香藤が、ほんの少し罪悪感を感じただけだ。
・・・だから心がざわめくような、そういう事態ではないけれど。
いつかまた、思いがけず傷つくこともあるかもしれない。
「ま、いいさ」
ソファに立ち戻って、岩城はごろりと身体を横たえた。
不安があるわけじゃない。
信じていれば、それでいいから。
―――香藤が俺のところに帰って来る限り、他に何もいらない。
何があっても揺るがない、絶対の愛情を注いでくれるのは香藤だ。
それに、全身全霊で応えたい。
祈るような気持ちで、岩城はそう思った。
―――こうして、年月を重ねて。
「いつか・・・」
香藤が岩城と共に歩んだ時間が、何よりも誰よりも、いちばん長くなる。
早くそうなるといい。
「・・・それで、充分だな」
過去も未来も、現在もすべて。
香藤は岩城に、捧げているのだから。
岩城が香藤に、捧げているように。



☆ ☆ ☆



ガタリ、と玄関で音がした。
いつの間にかうたた寝をしていた岩城は、はっと目を醒ました。
壁の時計は、11時を回っていた。
見れば、窓は開け放ったまま。
「無用心だって、叱られるな」
苦笑して、岩城はそっと身体を起こした。



「ただいま」
軽快な足音が響いて、香藤がリビングの扉を開けた。
とろけるような満面の笑みで、まっすぐソファに近づく。
「ああ、おかえり」
つられて甘い笑顔を見せて、岩城は香藤を見上げた。
「どうだった?」
「うん、いい式だったよ」
―――吹っ切れたような会心の笑み。
ネクタイを緩めながら、膝でソファに乗り上げ、上から包み込むように岩城を抱き寄せた。
「ん・・・」
そのまま、天から降ってくるようなキス。
首筋を伸ばし、うっとり目を閉じて、岩城はそれを受け止めた。
「・・・んふっ・・・」
深いくちづけに、岩城は喉を鳴らして応えた。
ふわりと腕が上がり、香藤の腰に絡みつく。
「・・・んっ」
執拗なキスから逃れるように、岩城は小さく首を振った。
肩で息をしながら、潤んだ瞳で睨むように香藤を見上げる。
「・・・酒くさいぞ」
顔をしかめて見せると、香藤がひょいと眉を上げた。
「ごめん」
「・・・なに、にやけてるんだ・・・」
相好を崩したままの香藤に、岩城は憮然とした視線を投げかけた。
「いや、ね」
ドサリ、とソファに沈み込んで。
香藤は甘えるように、岩城の肩に凭れかかった。
「今日さ。俺は幸せだなあ、ってしみじみ思ったんだ」
「・・・はあ?」
「だって、さ。家に帰って来ると、岩城さんがいるんだよ」
「そりゃ・・・」
「岩城さんにおかえりって言ってもらえるのは、世界中で、俺だけだって―――」
香藤がほうっと、熱い息を吐いた。
あまりにも嬉しそうに、うっとりそう囁くので。
「・・・酔っ払い」
岩城は照れて、ついと顔を背けた。
香藤の重みを、しっかりと受け止めたまま。



穏やかな、しばしの沈黙を破って。
くすくすと、香藤が声を立てずに笑った。
「―――きれいな花嫁さんだったけど」
のんびりそう言いながら、香藤は岩城の手を取った。
指を絡めて、ぎゅっと握りしめる。
「ん?」
「世界でいちばんきれいな花嫁は、うちにいるからね」
ずるずると上肢をずらして、香藤は岩城の膝枕に納まった。
とろけそうな眼差しで、まっすぐ岩城を見上げる。
「・・・誰が花嫁だ」
岩城は苦笑して、香藤の頬をぱちりと叩いた。
「痛いってば」
低く笑いながら、香藤は緩慢に身を捩った。
岩城の手はしっかり握ったまま、ゆっくり、半ば瞼を閉じかける。
「あふ・・・」
あくびをかみ殺す香藤に気づいて、岩城は微笑した。
「寝ようか」
薄茶色の髪をそっとすきながら、静かに言う。
「うん・・・」
―――もうちょっと、このまま。
独り言のように、小さくそう呟いて。
子供のような満ち足りた顔で、香藤はくったりと身体の力を抜いた。




ましゅまろんどん
30 October 2006



2013年2月3日、サイト引越にともない再掲載。初稿を若干修正しています。タイトルはドビュッシーの「月の光」から―――あのピアノの旋律をBGMだと思っていただければ。
なお、背景に使用した画像(まんまお月様!)は1ページ目が満月、このページは十六夜(いざよい、立待月)です。