日傘

日傘





居間の電話が鳴った。
洋子は反射的に席を立ち、受話器を手に取る。



「はい、香藤です」
「ご無沙汰してます。岩城ですが・・・」
澄んだバリトンの声が響いて、洋子はすぐに顔をほころばせた。
「あっ! お久しぶりです、岩城さん。私です、洋子です」
「あれ・・・」
小さく息を呑んでから、岩城の声が柔らかく笑った。
「洋子ちゃん、本当にしばらくだね。声、お義母さんとそっくりだ。ちょっとわからなくて、びっくりしたよ」
「やだ、岩城さん」
ころころと笑いながら、洋子が明るくまぜっ返した。
「それ、誉め言葉かどうか、微妙ですよ? お母さんが聞いたら、若々しい娘みたいな声だって言われたって、すっごい喜ぶと思うけど」
「あっ、ごめん。そんな意味で言ったわけじゃ・・・」
慌てて、申し訳なさそうに謝る岩城に、洋子は受話器のこっち側で大げさに手を振った。
「冗談ですってば、岩城さん。全然、気にしてないですからー」
けろりと笑って、洋子は続けた。
「今日は、お休みなんですか?」
しばしの雑談を決め込んだ洋子が、楽しそうに尋ねた。
「うん、そう。久しぶりに、ひとりで家にいるんでね。・・・って、あれ。洋子ちゃんもそういえば、船橋に戻ってるんだね」
急いでいる風もなく、ゆったりと岩城が応じる。
「そうなんです。啓太さんが出張でしばらく青森に行ってるんで、親孝行がてら里帰り。・・・って言うのは、口実。ホントは、甘やかされに来てるんですよー」
「あはは、なるほど。ご両親にとっては、いつまでたっても可愛い一人娘だからね。久しぶりで、喜んでるんじゃない?」
「一応、叱られましたけどね。うちを放り出して怠けに帰って来る主婦なんて、って。でも二人とも、洋介にはメロメロだから。ディズニー・シーだ、海浜公園だって、ここ数日もう大騒ぎですよ」
「そうだろうね」
「ええ。おかげで私は、楽させてもらってますけど」
洋介の名前を聞いて、岩城の声がワントーン低くなった。
「洋介くんか。もう、ずいぶん会ってないな・・・」
ほとんど甘いと言ってもいいような声音で、懐かしむように。
岩城はささやくように、そう言った。
「もう5歳、だよね? 可愛い盛りだね。まだ俺のこと、覚えていてくれてるといいけど・・・」
それを聞いて、洋子がくつくつと笑った。
「その心配は、ないと思いますよ。何しろ、お兄ちゃんがさんざん躾けてますからねー。うちでもね、テレビで岩城さんを見つけるたびに、『あ、岩城しゃんだー』って、凄くはしゃいでますよ?」
「・・・俺の出てるドラマ、見せてるの?」
岩城が、小さく笑った。
「言いたくはないけど、教育上よさそうなドラマって少ないよね。子供向けの番組には、まったく縁がないからな―――」
「あは、ご心配なく! ドラマは確かに、まだ無理ですけど。でも岩城さん、いっぱいコマーシャルに出てらっしゃるから。子供は目ざといから、ちーゃんと岩城さんを見つけますよ?」
「あ、そうか」
思い出したように答える岩城に、洋子は呆れた声を出した。
「そうかって、岩城さんたら。・・・ホント、自覚がないんだからー」
「え?」
「ご自分が売れっ子の役者さんだって、忘れてるみたい。・・・そういうとこは、お兄ちゃんも同じですけどね」
「・・・ああ。香藤は本当に、そうだな」
ふと、岩城の声音が変わる。
とろけるように、柔らかにほころんだ響き。
甘さを秘めたそのやさしいトーンに、洋子はくすぐったそうに肩をすくめた。
「岩城さんって、ホント・・・」
「なに?」
「プロの俳優さんなのに。どうしてそういうときは、ご自分の感情を隠せないのかしら? っていうか、気づいてないのかな」
くすくす笑いながら、洋子が言った。
「え・・・?」
岩城が、戸惑いの声を漏らす。
「今のたったひと言、香藤って。ホントに嬉しそうで、何ていうか・・・岩城さんがお兄ちゃんの話をするのって、聞いてて、こっちが照れちゃう感じ?」
「・・・そんな」
返答に困ったのか、岩城は小さく苦笑した。
「話ってほどの話は、してないと思うけど・・・」
「でも、わかるもん。お兄ちゃん、本当に愛されてるなあって思います」
きっぱりそう断言されて、岩城はきまり悪げに咳払いした。
「・・・ごめん」
「あん、謝らなくても!」
洋子は驚いて、甲高い声を出した。



「えっと、あの、岩城さん。さっきから暇な私のおしゃべりに、つき合わせちゃってますけど。うちの両親に、何かご用があるんですよね?」
「ああ、うん」
ほっとしたように、岩城が言葉を続けた。
「楽しくて、こっちもすっかり忘れていたよ。あのね、今朝、お義母さん宛てに小包を送ったから。それを、伝えておこうと思って」
「小包?」
「ああ、そうなんだ・・・」
ふと、思い出したように。
岩城は言葉を切って、ゆったりした声で笑った。
「香藤が、お義母さんにって日傘を買ったんだよ」
「・・・日傘、ですか?」
意外なその言葉に当惑して、洋子はオウム返しに岩城に聞き返した。
「なんでまた・・・今さら、日傘? もう秋だと思うけど」
「うん、そうなんだけどね」
岩城の声がわずかに弾んだ。
「この間・・・お盆の前に一日だけオフが取れたときに、そちらに寄らせてもらったんだけど」
「ええ、それは、母から聞いてます」
「そのときちょうど、お義母さんが、お気に入りだった晴雨兼用の日傘が壊れたって嘆いてらして。それで香藤が、じゃあ新しいのを買ってあげるよって、請け負ったんだよ」
「ああ、なるほど・・・」
ようやく事情が飲み込めた、という風に。
洋子は受話器を握りしめたまま、小さく頷いた。
「今までそれを忘れてたのね、お兄ちゃんったら」
「忘れてたわけじゃ、ないんだけど」
軽く笑って、岩城は話を続けた。
「忙しさにかまけて・・・かな。とにかく気づいたら、もうとっくに日傘のシーズなんて終わっててね。でもあいつ、約束したからには、どうしても最高の日傘を見つけてお義母さんに贈るって、聞かなくて」
洋子は思わず笑みをもらした。
「あはは、もう! 無駄な意地張って、お兄ちゃんらしいや」
「うん、それでね。もうどこを探しても、なかなか売ってなかったんだ。直接デパートに電話かけたり、インターネットで探したり、気に入ったのを見つけるのに、けっこう苦労したんだ」
「・・・お兄ちゃん、バカすぎ・・・!」
爆笑した洋子に、岩城は楽しそうに言葉を返した。
「まあ、子供みたいなところはあるよね。ムキになると特に」
でも、と岩城は続けた。
「母親思いの、いい息子だと思う。だから俺もずいぶん、一緒に探したんだけど」
「岩城さんも?」
「ああ」
あっさりと肯定する岩城の明るい口調に、洋子は微苦笑した。
「・・・どっちもどっちね・・・」
「え?」
「ううん、こっちの話!」
ひと息ついてから、岩城は説明を続けた。
洋子にはそれはもう、惚気にしか聞こえなかったけれど。



「そういうわけで、ようやく俺たちの気に入った日傘を見つけたんだ。今さら時期はずれだとは思うけど、今朝、宅急便で送ったから。お義母さんに、そう伝えておいてもらえるかな」
「うん、岩城さん。伝えておきます」
「あ、今の裏話はオフレコのほうがいいな」
「はい、もちろん!」
「ありがとう、洋子ちゃん。それじゃ俺は、そろそろ・・・」
屈託のない岩城の声。
それを聞きながら、洋子はふと、思った。



ときに無防備なほど純粋な、兄の恋人。
親戚―――家族としての彼は、テレビや映画で見かける俳優『岩城京介』とはまったくの別人だ。
ひたむきで献身的で、そしてどこか脆い。
自分よりはるかに年上のはずなのだが、守ってあげたくなるような危うさを持っている。
兄が脂下がって、ことあるごとに岩城を「可愛い」と惚気るのが、今ならよくわかる。
たしか、兄とそういう関係になって、もう10年近いはずだ。
それなのに、いまだに初々しさの抜けないのはなぜだろう。
香藤しか見えていないからか。
それが、打算のない愛だからか。
全身全霊で恋をしているのが、傍から見ていてもわかるからかもしれない。
それが当然であるかのように、ごく自然に。
岩城は、香藤洋二のために生きている。
もちろんキャリアへのこだわりもプライドも、人一倍あるのだろうけれど。
それとは比較にならない深いレベルで、生涯のすべてを、香藤との恋愛に捧げている。
せつないほどの純愛。
それがわかるから、洋子の家族も岩城を受け入れたのだろう。
受け入れることが、できたのだろう・・・。



「―――そういう盲目的な愛って、女には無理って気がするな・・・」
「・・・え?」
洋子のつぶやきにを聞き取れずに、岩城が問い返した。
「ううん、なんでもないの」
「ごめん、俺、ぼうっとしてたかな?」
「そんなことないよ、岩城さん」
洋子は穏やかに笑って、首を振った。
「じゃあ、俺はこれで。洋介くんと、ご両親によろしくお伝えください」
「はい、伝えます。岩城さんも、いつもお忙しいみたいだから、無理しないでくださいね?」
「うん、ありがとう。香藤にもそう、伝えておくよ」
最後にもう一度、最愛の恋人の名前を口にして。
岩城はそっと、電話を切った。




ましゅまろんどん
10 October 2006



サイト開設1周年記念のつもりで書いたお話です。
香藤家の一人娘と兄嫁の、のん気な昼下がりの会話(笑)。
でも今思うと・・・岩城さん、しゃべりすぎよね(汗)。
2013年2月11日、サイト引越にともない再掲載。初稿を若干修正しています。