希求 ― St Valentine's Day ―

希求 ― St Valentine's Day ― 1




「マジ!?」
香藤が盛大に眉をしかめた。



「ただいまー」
底冷えのする二月の深夜。
帰宅した香藤に、リビングで本を読んでいた岩城が顔を上げた。
「ずいぶん遅かったな」
コーヒーテーブルには飲みさしのワイン。
グラスの匂いを嗅いで、香藤は破顔した。
「昨夜のワイン煮に使ったボルドーの残りでしょ、これ?」
もっといいワイン、開ければいいのに。
そう続けた香藤に、岩城が答えた。
「ただの寝酒だ。これで十分だよ」
ふわりと浮かんだ微笑。
吸い寄せられるように、香藤は岩城にくちづけた。
「・・・唇が、冷たいぞ」
くすくす笑いながら、岩城は軽いキスを返した。



「そんなあ・・・」
シャワーを浴びて戻ってきた香藤に、岩城が告げた言葉。
それを聞いて、香藤はがっくりとうな垂れた。
「・・・だから、断れなかったんだって」
岩城が、ため息まじりに釈明した。
「それは、わかるよ。岩城さんのせいじゃないんだけど。でも・・・」
恨めしそうに、香藤は電話の脇のカレンダーを見た。
「せっかく一緒のオフなのに!」
2月14日の欄に、ちょっといびつなハートマーク。
何年ぶりかで、バレンタイン・デーにふたりのオフが重なる。
それがわかったときに、香藤がいそいそと印したものた。
30歳を過ぎた男ふたりで、今さらバレンタインもないだろう。
呆れてそう言った岩城を無視して、香藤は何やら、ひそかに計画を練っていたらしい。
イベント好きの香藤らしい、最高に甘いふたりきりの時間を。
それだけに、香藤の落胆ぶりは目に余るものがあった。



ことの起こりは、佐和渚からの電話。
先に帰宅していた岩城に、2月14日の都合を聞いてきたのだ。
佐和の従兄弟で、年の離れた恋人でもある沢雪人が、まもなく大学を卒業するという。
『誰に似たのかしら、雪人ったらとっても優秀なのよ。きっとどんな企業にだって就職できるでしょうに、うちのレストランの経営を手伝うって聞かないの。うれしいけど、保護者としては、ちょっと複雑よねえ』
佐和は派手にため息をついてみせたが、口調はあくまで幸せそうだった。
『・・・ま、だからってわけじゃないけど。雪人の卒業祝いを兼ねて、うちのレストランで特別イベントをやろうと思うのよ。ごく親しいお友達を呼んで、ゴージャスなバレンタインのパーティーをね。岩城くんたちも、もちろん、来てくれるでしょう?』
ベストセラー作家で、今やテレビでも売れっ子の佐和。
岩城と香藤の友人であり、よき理解者でもある。
はた迷惑な騒動を引き起こしたこともあったが、二人の縁結びの神様、と言えないこともない。
そして、佐和が岩城たちの恋愛模様を、最初から見守ってきたのと同じように。
岩城たちもまた、佐和と雪人の関係が時を経て、おだやかに変化していくのを見てきた。
そんな佐和のたっての頼みである。
岩城に、断れるはずがなかった。



岩城はほうっと息をつくと、香藤の肩を抱き寄せた。
「悪かった。・・・そんなに、落ち込むな」
やわらかな薄茶色の髪の毛にそっとキスを落とす。
「謝らないでよ―――」
甘えるように、香藤が鼻をこすりつけた。
それから、くすりと思い出し笑い。
「・・・なんだ?」
「あのレストラン・・・また、行くんだ」
しのび笑いの裏に色めいたものを感じ取って、岩城が苦笑した。
「・・・今度は、地下じゃないと思うぞ」
「まあね」
香藤の手が、するりと岩城の股間に伸びた。
緩く、からかうような愛撫。
「こら」
岩城が、いたずらな香藤の右手を捕らえた。
「あの晩の岩城さん、すごかったよね」
「・・・ばか。あんなのは、二度とごめんだ」
「感じまくってたくせに・・・」
吐息まじりにつぶやく香藤の額を、岩城は小突いた。
「ばか。・・・おまえだからだろう」
「え・・・」
目をみはる香藤を尻目に、岩城はさっさと立ち上がった。
「寝るぞ。明日も早いんだろう」
寝室に向かう岩城を、香藤はあわてて追いかけた。



☆ ☆ ☆



さざめく喧騒。
ゆらめくシャンデリアの柔らかな灯り。
《Una faccia-meno》のメインダイニングフロアは、グラスを傾ける多数の招待客で賑わっていた。
佐和が趣向を凝らした、特別な『ヴァレンタインの夕べ』。
岩城と香藤は、その人波の中にいた。
「あ、雪人くん!」
佐和の恋人を目ざとく見つけて、香藤が声をかけた。
「香藤さん。・・・岩城さんも」
口数の少ない青年は、丁寧に頭を下げた。
「久しぶりだね」
「大学卒業、おめでとう」
岩城は胸のポケットから、小さな封筒を差し出した。
「これ、俺たちから気持ちだけ、お祝い」
「え・・・」
「プレゼントは何がいいのか見当がつかなかったんで、その、図書カードなんだ。芸のないもので、すまないね」
「そんな・・・ありがとうございます」
雪人は、はにかんだように笑った。
最近すっかり大人びたが、そういう顔をすると幼さがのぞく。
「佐和さんは?」
「厨房で、料理の最終確認を」
そっと笑う雪人に、岩城は頷いた。
「オーナー自らチェックか。佐和さんらしいな」
「お料理、楽しみにしてるよ」
頷いて、雪人はすべるように姿を消した。



「なんだか、ねえ」
「どうした?」
香藤が、手にしたワイングラスをゆらめかせながら呟いた。
「いや、雪人くん。はじめて会ったとき、少女みたいに可憐だったのにねえ」
「ああ、そうだったな」
岩城が笑った。
「あっという間に、大人だな。すっかり男らしくなった」
「・・・洋介なんかを見てても思うけどさ。子供ってほんと、大きくなるの早いよね」
「そうだな。洋介くんは・・・4歳だったか?」
「んーと・・・そだね。今年5歳になるんだと思うよ」
「・・・そうか・・・」
「俺も歳をとるわけだよー」
「おまえが、それを言うのか」
だったら俺はいったいどうなる。
苦笑した岩城を見て、香藤はひょいと片腕を挙げた。
ふわりと、手の甲で岩城の頬を撫でる。
「香藤」
その手首をつかんで、岩城がたしなめた。
「あのね。岩城さんに年齢は、関係ないよ」
唇が頬に触れるほどの距離で、香藤がささやいた。
「こんなに、きれいなんだもん。・・・わかってるくせに」
低い口説き声で。
「ばか、もう酔ってるのか」
少し頬を染めた岩城が、ぶっきらぼうに返した。
「こんなところで・・・」
「大丈夫でしょ」
香藤がペロリと舌を出して笑った。
「同業者は少なそうだし、第一、佐和さんの客だからね。マスコミ対策は完璧じゃない?」
「そういう問題じゃないだろう・・・」
岩城は、目の前の恋人を見つめて嘆息した。



幸せな招待客の喧騒。
流れるシャンパン。
心地よい音楽がほのかに流れる、綺羅の空間。
きらめく灯りに彩られた、ヴァレンタインの晩餐。
―――岩城の視界が、ぐらりと揺れた。



気がつくと、岩城は、凝った装飾をほどこしたイタリア製のソファに座り込んでいた。
「あらあら、岩城くん。大丈夫?」
佐和の声が遠くに聞こえた。
後ろから腕を廻して肩を支えた香藤が、心配そうに覗き込んでいる。
「岩城さん?」
至近距離で名前を呼ばれて、岩城は苦笑した。
頭が、くらりとする。
「・・・酔った・・・かな」
勧められるままに、岩城はずいぶん甘い酒を飲んでいた。
とろりと口当たりのいい、サンブーカやグラッパ。
飲みすぎたのかもしれない、と岩城は思った。
そう思った心を読んだように、香藤が戸惑った声を出した。
「飲みすぎるほど、飲んでないはずだけど・・・」
「・・・岩城くん、寝てないんじゃないの?」
「それは、ありますね」
頭上で交わされる会話を、岩城は朦朧と聞いた。
全身が重たい感じで、下半身に力が入らない。
喉がひりつく。
岩城がそう言おうとしたのを、香藤が制した。
「いいよ、しゃべらなくて。のど、痛いんでしょう」
ひんやりしたグラスが、唇に当てられた。
岩城は、グラスを持つ香藤の手に指を重ねて、そのまま水を飲み干した。
「けっこう、酒には強い人なんですけど」
「体調が万全でなければ、誰だって酔うわよ。タクシーを呼びましょうか」
「いや、気分は悪くなさそうだから・・・」
香藤の声が、すぐ近くで響いた。
「少し酒が抜けるのを待てば、大丈夫だと思います」
温かい胸にもたれて、鼓動を聞きながら、岩城は深く息を吐いた。
香藤の大きな手が、いたわるように岩城の髪を撫でる。
それが心地よくて、岩城は目を閉じた。
「どこか、横になれる場所はありますか」



結局、通されたのは、最上階の佐和の私室だった。
レストランの仕事が遅くなって、世田谷の自宅に帰れないときに使用するのだという。
輸入もののアンティーク家具で飾られた、貴族の寝室のようなつくりの部屋だった。
暖炉といい燭台といい、まるで映画のセットのようだ。
天蓋つきのダブルベッドにさすがに目を丸くして、香藤が聞いた。
「本当にいいんですか、ここ」
「いいのよ、どうせふだん使ってないんだし」
ベッドを覆うチュールレースをかきわけながら、佐和が岩城を振り返った。
香藤に腰を支えられて、ゆらりと立っている岩城が、小さく会釈した。
「すみません。ご迷惑を・・・」
「もう、水くさいんだから」
佐和が、大笑した。
「私と岩城くんの仲じゃない。ほら、ここに横になって。ちゃんとリネンは洗濯してあるから、安心してね」
ほっと息を吐いて、岩城はどさりとベッドに腰を下ろした。
そのまま上半身を横たえて、目を閉じる。
香藤がしゃがみこんで、岩城の靴を脱がせた。
「すまん・・・」
「いいから、岩城さん。ちょっと休めば、楽になるよ」
返事の代わりに、泳ぐように頼りなげに伸ばされた岩城の腕を、香藤が捕らえた。
チュッと音をたてて、香藤が手のひらにキスを落とす。
岩城の指が、唇が去っていくのを惜しむように、香藤の顎を撫でた。
「あら」
佐和が笑った。
「いいとこ見ちゃった。甘えてるのね、岩城くん」
「おかげさまで」
香藤はニッタリと笑顔でそれに応じた。
佐和と視線を合わせたまま、岩城の指先をねっとり舐める。
「やだもう、見せつけないでよ」
佐和が笑い声をあげて、ベッドサイドを離れた。
「見ればわかると思うけど、あっちがバスルームよ。置いてあるタオルは好きに使ってちょうだい。そのドアの向こうは簡易キッチン。大したものはないけど、冷蔵庫に水くらいあるはずだから」
てきぱきと説明すると、さっさときびすを返した。
「お邪魔みたいだから、退散するわ。他のお客さんのお相手しなくちゃいけないしね。後で見に来るけど・・・何かあったら、そこのインターフォン使ってちょうだい」
にっこり笑って、佐和は扉を閉めた。





ましゅまろんどん
1 February 2006



めろめろメロドラマと究極の官能(当社比)を目指して書いた、今になって読み返すと気恥ずかしい長編。岩城さん、乙女度全開です。
2012年12月05日、サイト引越にともない再掲載。初稿を若干修正しています。