希求 ― St Valentine's Day ―

希求 ― St Valentine's Day ― 2




「もう、いい・・・」
低くかすれた声で、岩城がささやいた。
手にしたグラスには、冷たい水がまだ半分ほど残っている。
香藤はそれを受け取って、サイドテーブルに置いた。
背中に廻していた腕で、そのまま岩城を抱き寄せる。
「まだ、クラクラする?」
「ああ・・・」
苦笑まじりにそう答えながら、岩城は緩慢に周囲を見回した。
呆れたように、少し目をみはる。
その視線を追いかけた香藤が、くすりと笑った。
「・・・俺の趣味じゃないけど、豪華だよねえ。これきっとみんな、海外から取り寄せたんだろうね」
派手ではあるが、趣味は悪くない調度品の数々。
天蓋から零れ落ちるチュールレースには、よく見ると金糸が縫いこめられていた。
どっしりしたマホガニーのベッド自体も、おそらくとてつもなく高価な輸入品なのだろう。
岩城がひそやかに笑った。
「・・・ウィルシャーを、思い出すな」
「岩城さん・・・!」
香藤はまじまじと岩城を見つめると、そのしなやかな身体をぎゅっと抱きしめた。
そのまま体重をかけて、ベッドに上半身から倒れ込む。
「かと・・・っ」
「・・・あのさあ」
「なんだ?」
「悪気がないのは、わかってるけど」
「うん?」
「岩城さん、ほんと、マジ・・・自覚して・・・?」
香藤は真下にあるほの白い項に、唇をつけた。
はだけられたシャツの襟を鼻先でかきわけ、鎖骨に近いところにキスを繰り返す。
痕をつけようとするように、何度も。
岩城の肌の火照った匂いに、あてられたように。
「おい、香藤」
わずかに息を乱して、岩城が香藤の頭を押さえつけた。
「ぁん」
「こら、やめろ」
「・・・岩城さんが、挑発したくせに」
恨めしそうな低い声で、上目遣いに岩城を見つめる。
「俺が、いつ」
岩城が苦笑した。
「あのねえ」
香藤はむくりと起き上がって肘をついた。



至近距離でゆれる、漆黒のまなざし。
いつもは冴え冴えとした瞳が、酔いのせいか、とろりと頼りなげだった。
ほんのり桜色に染まった眦。
酔いまじりの、熱をはらんだ吐息。
香藤は岩城を見つめながら、言い聞かせるように囁いた。
「・・・もう、お願いだから、ちょっとは学習しようよ。酔っぱらって目元を紅くして、こうやってはんなりしてる岩城さんが目の前にいるんだよ? それだけで俺はさっきから、襲いたい衝動と戦ってるのに・・・」
岩城の頬が、それを聞いて朱に染まった。
「香藤・・・」
「俺の自制心、誉めてもらいたいくらいなんだからね?」
香藤は岩城の手を取って、自分の股間に導いた。
力を漲らせつつある勃起。
探り当てたそれを、岩城の手のひらが覆った。
愛してやろうか、やめようか、ためらうように。
岩城の指が、睫が、とまどうように震えた。
「こんなところで、さかるな・・・」
「わかってるって」
香藤が苦笑した。
「だからちゃんと、我慢してるでしょ? 据え膳に手を出さないのって、大変なんだよ」
「誰が据え膳だ、ばか」
「そ。俺はバカなの。そのバカに、新婚旅行のことなんて思い出させちゃ、ダメ。絶対ダメ。・・・収拾がつかなくなったら、岩城さんのせいだからね・・・?」
「ばか・・・」
もう一度そう呟いて。
岩城は気だるげに、香藤の首に片腕を廻した。
やさしいキスが、香藤の顔に降ってくる。
額に、瞼に、鼻先に。
官能をかき立てるのではなくて、焦れた子供をあやすような、柔らかなキス。
「ずるいよ、岩城さん・・・」
しばらくじっと、香藤は目を閉じてそれを受けていたのだが。
岩城の身体を抱きしめていた香藤の腕から、ゆっくり、力が抜けた。
「・・・俺を、手玉にとってない?」
香藤が口を尖らせた。
「俺だって、学習してるんだ」
岩城はそう囁いて、なだめるように香藤の髪をすいた。
「頭が回る・・・もうちょっと、寝てていいか・・・」
それだけ言うと、岩城は再びぐったりとベッドに沈み込んだ。



☆ ☆ ☆



カラリ。
氷の解けるかすかな音で、岩城は目を覚ました。
見慣れない大きなベッドの上で、のろのろと身を起こす。
「あら、起きたの?」
ざらりと響く声のほうを、振り返る。
いつの間に戻ってきたのか、少し離れた位置のソファに、ゆったりと佐和が座っていた。
膝の上には雑誌が乗っている。
どこからか、音量を絞ったクラシック音楽が流れていた。
「佐和さん・・・」
ベッドサイドには氷を浮かべた、たっぷり水の入ったグラス。
その脇には、ミネラル・ウォーターがペットボトルごと置かれていた。
ぼうっとした頭を覚醒させるように、岩城はゆっくりと首を振った。
「香藤くんは、下よ」
「・・・下?」
「レストラン。お腹が空いてるみたいだったから、厨房でまかない飯、食べさせてもらうように言ったの」
眉をしかめて、岩城は記憶をたぐり寄せた。
ようやく、さっきまでの経緯を思い出す。
「・・・すみません、本当にご迷惑をおかけして。今、何時ですか?」
「そろそろ、12時ね」
「えっ」
岩城はあわてて、身体を起こした。
「じゃ、俺はいったい―――」
その途端、ツキンと頭痛に襲われ、岩城は顔をしかめた。
「つ・・・っ」
「ほら、無理しないの」
佐和が笑顔を見せた。
「ここ数日、寝不足だったんですってね。イタリアのリキュールは、アルコール度数が高くても口当たりがいいから、つい飲みすぎちゃうのよ。慣れてなければ、なおさら。体調の悪い人は、ひとたまりもないわ」
「すみません・・・」
またぼやけ始めた視界に、観念したのか。
岩城は再び、ベッドに潜り込んだ。
「謝るのはこっちよ、岩城くん。せっかくのバレンタイン、台無しにしちゃったわね」
その言葉に、ふと岩城は目を開けた。
「・・・雪人くんは?」
恋人との甘い夜を過ごしたいのは、それこそ佐和のほうだろう、と思った。
「家に帰ったわよ」
さらりと言われて、岩城は押し黙った。
「あら、気にしないでちょうだい。あの子はあれでも、情熱的な恋人ですからね。私が帰って来るのを、ちゃあんとベッドで待っていると思うわよ?」
いたずらっぽい瞳を輝かせて、佐和が笑った。
「岩城くんこそ、早く香藤くんを連れて、お家に帰りたいんじゃないの?」
「俺は・・・」
岩城は顔を赤らめた。
「今さらバレンタインもないだろうって、あいつに言いましたから・・・」
「あら」
佐和がおかしそうに笑った。
「そう言ったのを、後悔してるような顔つきね」
「・・・そう見えますか」
見透かされていることに、岩城は苦笑した。



「・・・ありがとうね、岩城くん」
佐和が、ポツリと言った。
「え?」
「雪人に、卒業祝い。すごく、嬉しかったわ」
「ああ・・・」
岩城はちょっと笑った。
「気がきかなくて、大したことはできないんですけど」
「ううん」
大げさに首を振った佐和は、潤んだ目でじっと岩城の顔を見つめた。
「雪人は・・・もちろん恋人だけど、でもやっぱり、私は保護者でもあるから。複雑な生い立ちで、家族もなくって・・・たったひとりの肉親と、こんな関係になっちゃった子でしょ。親戚にプレゼントやお年玉をもらったりした、そういう経験がないのよ」
「・・・」
「だからね。岩城くんや香藤くんが、そういう普通の親戚みたいなつきあいをしてくれるのが、とっても嬉しくって」
岩城は微笑した。
「・・・俺たちでよかったら、喜んで『親戚のおじさん』になりますよ」
「あらやだ、そういう意味で言ったんじゃないわ」
佐和が、ころころと笑った。
「ずいぶん大人になりましたよね、雪人くん」
「ええ、もう! すっかり頼れる旦那さまでしょう」
零れるような笑顔で、佐和が言った。
「ごちそうさまです」
「あら、何言ってるの。あなたたちこそ、相変わらずラブラブのくせに」
「ラブラブって」
岩城が顔を赤くした。
「よく続いてるどころか、年々お熱くなってるじゃない。ホントに香藤くんったら、岩城くんを大事に大事にしてるわよね。お姫さまを守る凛々しい王子様みたいで、見ていてドキドキするわよ?」
「お姫・・・」
岩城が絶句した。
「今さら、照れないの。いいじゃないの、熱烈に愛されてるんだもの。何も恥ずかしがることないわ。だいたい、あのやんちゃな坊やをあんないい男に育てたのは、他でもない、岩城くんでしょう」
「そんな・・・」
言い募ろうとして、岩城はふと口をつぐんだ。
何か思い出したかのように。
のそりと身じろぎし、じっと自分の手を見る。
プラチナの指輪が、間接照明に鈍く光っていた。



「岩城くん?」
物思いをめぐらせる風情の岩城に、佐和が声をかけた。
「・・・聞いても、いいですか」
ため息にかき消されそうな声で。
岩城が、小さく尋ねた。
「佐和さんは・・・女になって、雪人くんと結婚したい・・・?」
「あら」
佐和がおもしろそうに岩城を見た。
岩城のかすれ声は心もとなく、逡巡しているのは明らかだった。
「・・・気持ちの上では、もう女よ? ・・・でもそうね。できるものならとっくに入籍してるわ。まあ、苗字が同じだから、実際にはもう、お嫁に行ったつもりでいるけどね」
「女だったら・・・結婚して、子供が欲しいのかな・・・」
岩城は中空を睨むようにして、つぶやいた。
酔いの抜けきっていない朦朧とした頭で、一生懸命、知りたいことを聞き出そうとするように。
佐和は、ゆっくり言葉を選んだ。
「そうねえ・・・。女には、愛する人の子供を産みたいってDNAがあるらしいけど、どうでしょうね。私に限って言えば、ないわねえ。雪人とは、血が近すぎるから」
岩城が、はっとしたように佐和を見た。
「・・・仮に私に子宮があったとしても、産まない・・・産めないんじゃないかしらね」
少し寂しそうに、佐和が笑った。
「・・・すみません」
岩城は小さくそう言うと、もう一度ベッドに身体を預けた。
天蓋をぼんやりと見つめたまま、深い息をつく。
それを見ていた佐和は、ソファに身を沈めると、静かに聞いた。
「・・・岩城くんは、どうなの?」



その問いかけを、岩城は仰臥したまま聞いた。
佐和から見える左手が、サテンのシーツをゆるく掴む。
「俺は・・・」
―――独り言のように、つぶやいた。
「・・・女になりたいと思ったことは、一度もないです。香藤もそんなことは、望んでいないと思う」
一言一言、確かめるように、自分に言い聞かせるように。
佐和は、黙って頷いた。
「夫婦だって・・・言ってますけど、でもそれは、男と女を真似てるわけじゃなくて。・・・俺たちの関係を表すのに、他にいい言葉がないだけだと―――」
「そうね」
やさしい沈黙。
かすかに流れる音楽が、静寂を埋めていた。
「でも・・・」
酔いが醒めかけたのか、岩城がゾクリと身体を震わせた。
シーツを掴む指に、力がこもった。
それから眉をひそめて、ポツリと。
「でも・・・産めるものなら・・・香藤の子供を、産んでやりたいと・・・思うときがある。―――俺はたぶん、おかしいんです。こんな、バカなこと・・・」
迷いを隠しきれない声だった。
「岩城くん・・・」
焦点の合わない視線が、ふらりと泳ぐ。
「・・・あいつは長男で、一人息子で、まだ若い。俺のせいで、あの家が途絶えると・・・思うと―――」
言葉を失って、佐和は岩城を見つめた。
「・・・奪って、しまった・・・」
語尾は掠れて、闇に溶けていった。
それきり岩城は、口を閉ざした。
泣きそうに歪められた漆黒の瞳が、すうっと閉じられる。
やがてそのまま、岩城は睡魔に引き込まれていった。



☆ ☆ ☆



岩城の寝息が聞こえてきたのを確認して、佐和はほうっと嘆息した。
「何て、こと・・・」
額に手のひらを当てた、そのとき。
静かにノックの音がして、階下へ通じるドアが開いた。
「香藤くん・・・!」
長身をかがめて、ゆらりと。
香藤が無言で部屋に入ってきた。
無表情にも見えたその顔を覗き込んで、佐和ははっと息を呑んだ。
涙がひと筋。
香藤の頬を伝っていたからだ。
佐和の表情を読んで、香藤はひっそりと苦笑した。
「お見苦しいところを・・・すみません。立ち聞きなんて、するもんじゃないですね」
偶然なんですけど。
かすれた声でそう言って、岩城の眠るベッドの端に、そっと腰をかけた。
かすかな寝息をたてる岩城の髪を、指先にそっとからめる。
「申し訳、ないんですけど―――」
「香藤くん、私」
ふたりは同時に話し始め、それに気づいて顔を見合わせた。
佐和が微笑して、立ち上がる。
「・・・帰るわ。鍵は置いていくから、ここは好きに使ってちょうだい。厨房のスタッフは、ここに誰がいてもわからないから、安心して」
それだけ言うと、さっさとドアに手をかけた。
「ねえ、香藤くん・・・」
背中を向けたまま、つぶやいた。
「はい?」
涙をこらえた、震える声で。
「はちきれそうだわ・・・私。岩城くんって―――」
「ええ」
香藤が、静かに頷いた。
「・・・この人がくれる想いに、一生応えられないんじゃないかって・・・思うときが、ありますよ」
そう言った香藤の声は、哀切に満ちていた。





ましゅまろんどん
5 February 2006


2012年12月07日、サイト引越にともない再掲載。初稿を若干修正しています。