希求 ― St Valentine's Day ―

希求 ― St Valentine's Day ― 3




静かな夜だった。
いつの間にか音楽は途絶え、階下の喧騒もとうに立ち消えていた。
香藤は岩城の隣に身体を横たえ、浅い息をして眠る恋人の顔を、じっと見つめた。
半開きの、紅い唇。
眦がまだ、ほのかにピンクに染まっていた。
「ねえ、岩城さん」
そっと名前を呼んだ。
「岩城さん・・・」
何度かそう繰り返し、寝乱れた黒髪をすいた。
「・・・ん・・・」
まんじりともしないその視線に、気づいたかのように。
岩城が、うっすらと目を開けた。
「か・・・とう?」
つややかなテノールが、今は甘く掠れていた。
「うん、俺だよ」
香藤はぐったり力の抜けた岩城を、胸にしっかりと抱き寄せた。
寝起きの心もち熱っぽい身体から、ほのかな甘い体臭が立ちのぼる。
「岩城さん・・・」
岩城の肩に顔を埋めて、香藤はうめくように恋人を呼んだ。
されるがまま、岩城はその暖かな胸にじっと抱かれていた。
「岩城さん、岩城さん・・・」
くぐもったその声に、やるせないまでの悲痛を感じとって。
岩城は小さく首をかしげた。
岩城を抱く腕に、いっそう力が込められる。
首筋に、熱いものがじわりと伝った。
香藤の肩が小刻みに震えているのに気づいて、岩城は顔を上げた。
「香藤?」
香藤の身体に腕を廻して、宥めるように背中をさすった。
「・・・どうした?」
心配げな、低い声。



「・・・泣いてるんだよ。岩城さんが、俺を泣かすから・・・」
すすり泣きながら、香藤がやっと顔を上げた。
「泣かすって・・・」
戸惑うまなざし。
「・・・聞いたんだよ、俺。さっき岩城さんが、佐和さんと話してたこと」
岩城の眉が、ひそめられた。
「・・・?」
それから突然、天啓でも受けたかのように。
岩城は上半身を起こし、濡れた瞳の香藤を呆然と見つめた。
驚愕の表情で。
「あれは・・・」
岩城は目をすがめた。
香藤がこらえている痛みに、自分が傷ついたかのように。
言葉につまった岩城を、香藤がもう一度、抱きしめた。
「・・・バカだなあ」
愛しくてたまらないという顔で、香藤が囁いた。
「ホントにバカだよ。いつだって、俺のことばっかり・・・」
泣き笑いの、震える声を隠そうともせずに。
それから香藤は、岩城の両肩を掴んでわずかに身体を離した。
ベッドの上に座り込んだ岩城を、正面から見据える。
そっと岩城の顎をとらえ、その顔を上げさせた。
黒曜石の瞳が、恋人を見つめて揺れた。
香藤は、岩城の頬をしっかりと両手で挟みこんだ。
大きな手のひらの温もりで、岩城を安心させるように。
「俺だって、同じなんだよ・・・?」
そう、ささやきながら。
岩城の額に、瞼に、頬に。
香藤は鳥の羽のようなキスを降らせた。
そっと岩城の髪をすき、そのまますべり降りて白い頬をなでた。
愛おしむように、慈しむように、何度も、何度も。
「・・・ねえ、岩城さん」
甘い、哀しい響きだった。
「・・・この髪も、目も、肌も、こんなに、誰よりもきれいなのに。でも岩城さんの遺伝子が、次の世代に引き継がれることは、ないんだ。・・・それを俺が、どれだけ悲しいと思ってるか、わかる・・・?」
涙で濡れた、まっすぐな瞳。
香藤のひたむきなまなざしを受け止めて―――。
岩城は耐えきれずに、ゆっくりと俯いた。
その瞳から、はらりと涙がこぼれ落ちた。



ほの白い肌をすべり落ちる涙を、香藤の指がすくいあげた。
嗚咽をこらえて、岩城が香藤の背中に両腕を廻す。
香藤は愛しい身体を力強く抱きしめた。
「・・・すまん・・・」
絞り出すような声で、岩城が低くつぶやいた。
香藤の耳元に、熱い吐息がかかる。
あやすように、香藤がそっと囁いた。
「岩城さん・・・泣かないで」
「香藤・・・」
後はもう、言葉にならなかった。
「岩城さんてば―――」
きつい抱擁の中で。
岩城は目を閉じて、香藤の鼓動を聞いていた。
やるせない想いに息がつまりそうだった。
お互いを選んだということは、その代償に、何かを切り捨てたということでもあるのだと。
知っているつもりだった。
知ってはいたが、それを残念だと思ったことはなかった。
お互いがお互いを必要としているのが、わかっていたから。
他に欲しいものなどないと、思っていたから。
それが、いつからだろう。
自分のせいで相手が失ったものばかり、目につくようになっていた。
―――愛しすぎてしまったから。
恋人に、世の中に存在する幸せのすべてを、与えてやりたいから。
それなのに。
もう絶対に自分が身を引くことなどできないことも、わかっていて。
恋人を大切に思えば、思うほど。
そこに生まれる矛盾に、心が軋んだ。
「香藤・・・」
溺れるように、すがるように。
岩城のしなやかな腕が、香藤をぐいと引き寄せた。
愛しい身体の重みを抱いて、岩城がベッドに沈み込む。
香藤が微笑して、岩城の顔にキスを降らせた。
目を閉じて、恍惚と、岩城はそれを受けた。
愛おしさに眩暈がしそうだった。
全身が、香藤を欲していた。
今すぐ、ひとつになりたくて。
身体の中心に、熱い香藤を感じたくて。
「ん・・・っ」
岩城は全身を震わせて、香藤のくちづけを乞うた。
欲しい、と口にする必要はなかった。



堰を切ったように。
香藤は荒々しく、岩城の肌を貪った。
着衣を引きむしり、汗ばむ胸に手を、舌を這わせる。
そんな香藤の愛撫ひとつひとつに、岩城は甘い声をもらした。
「岩城さん・・・!」
荒い息で、香藤が呼ぶ。
その度に岩城は瞳をめぐらし、恋人の姿を探した。
「香藤・・・」
真珠色のサテンのシーツに、岩城の裸体がほの白く映えた。
香藤の唇を求めて。
岩城の手が、香藤の髪の毛をぐっと握り込んだ。
「痛いよ、岩城さん」
香藤が苦笑して、腕の中の恋人にキスを落とす。
「う・・・るさ・・・っ」
吐息を奪うほどの、深いキス。
口腔を執拗に侵されて、岩城は苦しさに眉を寄せた。
「んん・・・っ」
ねっとりと舌が絡みあい、唾液がこぼれて、岩城の顎を伝った。
それを追いかけて、香藤の舌が喉を這う。
「あうっ」
乳首に吸いつかれて、岩城がぐんと仰け反った。
ふるえる指が、香藤の髪をせわしなくかき乱す。
「感・・・じる?」
香藤は歯を立てて、虐めるように乳首をねぶった。
快感を訴えて涙をこぼしながら、岩城は何度も頷いた。
「・・・もっと・・・」
岩城のペニスが、どくんと跳ね上がる。
香藤はそれを捉えて、片手でしごいた。
もう一方の手で、桜色に染まった岩城の全身をくまなくまさぐる。
岩城の肌からは、熟れた官能の香りがしていた。
「はっ・・・!」
たぎる欲情に翻弄されて、岩城は身体をびくびくと震わせた。
長い月日をともに暮らして、とうに馴染んだ愛撫だというのに。
香藤の指に、舌に、どうしようもなく反応した。
「ふっ・・・あぁ・・・んんっ」
熱をはらんだ甘い吐息に、時折せつない嬌声が混ざった。
「・・・やっばすぎ」
岩城のしどけない痴態に煽られて。
香藤が身体を起こして、乱暴に服を脱ぎ捨てた。
全身を波打たせて息をしている岩城を、火を噴くような目で見下ろす。
「岩城・・・さんっ」
香藤の飢えたまなざしを感じて、岩城がゆっくり、嫣然と微笑した。



香藤が見ている。
どうしようもなく岩城の中に挿入りたがって。
そう思うだけで、岩城の後孔がじんじんと疼いた。
香藤が欲しい。
岩城の心が、身体が、悲鳴をあげていた。
「岩城さん・・・」
香藤の手が岩城の太腿にかかり、無造作に左右に押し拡げる。
岩城の脚の間に身体を捻じり込ませた香藤を、岩城がふと、押しとどめた。
「待っ・・・」
荒い息をつきながら、岩城が上半身を起こした。
「どしたの・・・?」
ふらりと傾いだ身体を支えてやりながら、香藤が低く尋ねた。
「ここで・・・はっ・・・まずい・・・佐和さ・・・っ」
胸をあえがせて言葉を継ぐ岩城を、香藤は目を丸くして見つめた。
「え・・・ダメなんて・・・言わない、よね?」
上目遣いにそう聞いた香藤の頭を、岩城は力の入らない手ではたいた。
「ばっ・・・ちが・・・っ」
岩城が顔を紅潮させ、香藤を睨みつけた。
意図を察しない香藤に焦れて、ついと顔を背ける。
「・・・ムを・・・」
「うん?」
怒ったように、吐き出した。
「・・・ゴム・・・持ってるんだろう・・・!」
「ああ!」
香藤が、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「それくらい、わかれ・・・っ」
羞恥に耐えきれず、岩城が顔を真っ赤にして俯いた。
「ごめんごめん」
くすくすと、笑いながら。
香藤はベッドの下に脱ぎ落とされたスラックスを拾い上げた。
片腕でなだめるように岩城を抱きしめながら、もう一方の手でポケットを探った。
「はい」
手のひらに、コンドームがふたつ。
ほっと息をついて、岩城はそれをつまみ上げた。



ベッドの上で胡坐をかいていた香藤の膝を、掴んで。
岩城はにじり寄ると、香藤のペニスに手を添えた。
「岩城さん・・・?」
「・・・いいから」
鎌首をもたげて岩城の指を悦ぶ先端に、腰をかがめて軽くキスを落とす。
「ん・・・っ」
香藤が思わず、甘い吐息をもらした。
挨拶のように軽くしごいてから。
岩城は慣れた手つきで、小さなパッケージを破いた。
香藤のペニスを掴み直し、そこに丁寧にコンドームを被せる。
やさしく、愛おしむように。
「ありがと。・・・岩城さん、上手いね」
岩城の耳元を舐めるように、香藤がささやいた。
「ばか」
わずかに身体をよじって、岩城が苦笑した。
もうひとつのコンドームに、すいと手を伸ばす。
その手首を、香藤が捉えた。
「俺にもやらせて?」
「・・・自分でできる」
岩城が、頬を染めて言った。
「いいから、ね?」
膝をつきあわせて座っている岩城の胸を、香藤はとん、と押した。
大した抵抗もなく。
岩城は背中から倒れ、素直にベッドに身体を沈めた。
香藤はもう一度、岩城の太腿を大きく拡げた。
先走りをこぼして勃ちあがっている岩城のペニス。
それを両手で包み込む。
「あぁ・・・っ」
それだけで、岩城の腰が浮き上がった。
「いっちゃわないでよ?」
からかうように香藤が声をかける。
コンドームを取り出すと、岩城の脚の間に肘をついた。
吐息がかかるほどの近さで、岩城の性器を見つめる。
勃起の向こうから恥ずかしげな視線を寄越す岩城に、にっこり笑ってから。
見せつけるようにゆっくり、コンドームを口に銜えた。
「ば・・・っ」
起き上がろうとした岩城を押しとどめ、そっとペニスに口をつけた。
慎重に、唇で器用にコンドームを被せていく。
「・・・くぅ・・・」
岩城は思わず目を閉じて、その感触に耐えた。
香藤の唇の熱がゴムを通して、岩城の性器に伝わる。
「やあ・・・っ」
香藤の指が、するりと岩城の双珠に触れた。
くすぐるように弄び、そのまますべって後孔にたどり着く。
そこはすでに先走りで濡れ、香藤を欲しがってヒクヒクと震えていた。
「・・・岩城さん」
香藤の飢えた声。
岩城は低く、喉を鳴らした。





ましゅまろんどん
10 February 2006


2012年12月08日、サイト引越にともない再掲載。初稿を若干修正しています。