Maiden voyage
「岩城さん、岩城さーん!」
軽快に階段を駆け上がる、リズミカルな足音。
それから、ことさらゆっくり廊下を歩く足音。
のんびりしているようで、でもいつもより少し歩幅が広い。
「ねえ、岩城さん?」
―――ほんの何年か前、あいつが、まだ20代の頃なら。
それを考えて、俺はふと微笑した。
これは、『ねえちょっと、話があるんだけど』というときの声音だ。
怒ってるわけでも、焦ってるわけでもない。
だけど今すぐに話したいこと、確認したいことがあるときの香藤の口調。
―――ああいう声を出すときは。
もうちょっと若い頃の香藤なら、間違いなく駆け出していた。
バタバタと素足で廊下を蹴って、まっすぐに俺の前に現れただろう。
俺の手首を掴んで、有無を言わせずに引き寄せていたかもしれない。
嵐のような、情熱的な俺の恋人らしく。
でも、今は―――。
「ちょっと待ってくれ、香藤」
まだ、朝8時にもなっていないだろう。
手早く腰にタオルを巻きつけながら、俺はドアの向こうに声をかけた。
濡れた髪の毛の先から、ぽたぽたと雫がこぼれる。
立ち込める湯けむりをかき分けて、ほっとひとつ息をついた。
「今すぐ出るから」
「うん、岩城さん」
俺は再び微笑んだ。
やわらかな声がいささかくぐもって聞こえる。
浴室ドアの向かい側の壁、かな。
ゆったりもたれて、腕を組んでいるかもしれない。
「清水さん、あと30分だっけ」
「ああ。部屋に行っててくれ」
出かける支度をしながら話を聞くから、と心の中でつけ加えた。
香藤にはわかるので、わざわざ言わない。
「うん」
―――ずいぶん、大人になったもんだ。
じわりと、滲むような幸せ。
ふだん意識することは滅多にないし、いちいち口にしようとも思わない。
まして、高いところから見下ろしているつもりは毛頭ない。
だが実際、今の香藤は、年齢以上に大人びていると思う。
キャリア・パスに迷いのない男だけが持つ、自然な余裕や自信。
それから、より高みを目指す野心と向上心。
そんなものが、あいつの全身からにじみ出ている。
男盛りで、今が旬で。
ときどき、正直、眩しいほどに。
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「おかえり」
タオルで髪を拭きながら俺の部屋に入ると、香藤がソファのアームに腰かけていた。
さんさんと降りそそぐ朝の日差しを背に、穏やかに笑っている。
片手には、俺のネクタイが二本。
ソファの背もたれには、軽やかな茶系ストライプのスーツ。
―――ずいぶん今日は、渋いのを選んだな。
「・・・なら、エルメスを」
「うん、そうだね」
香藤はあっさり頷いて、朱色のタイをスーツの隣りに並べた。
それから、まっすぐに俺を見据える。
「なんだ?」
「うーん」
たっぷり間をとってから、香藤が低く唸った。
きれいな茶色の瞳をすがめて、じっと俺を見つめる。
一秒、二秒、三秒。
妙にしんとした、熱をはらんだ視線。
「・・・まったく」
それ以上はこらえ切れず、俺は苦笑をもらした。
―――いつものこと、なのだが。
無造作に裸でいる俺の全身を眺めて、香藤は必ず、こういう顔をする。
「だってー」
子供みたいに口を尖らす、それもおなじみの仕草だ。
『本当に綺麗だよ、岩城さん』
それが朝っぱらだろうが、真っ昼間だろうが。
まるで酔ったような甘い口調で、香藤はそうささやく。
うっとりと、まるで音楽を奏でるように。
口にしないときも、熱い目がそう語っている。
―――気恥ずかしいというか、何というか。
眼差しの真摯さが、どうにも落ち着かなくて。
こればかりは何年経とうが、完全に慣れる日は来ない気がする。
「なにか、用があるんだろう?」
照れ隠しにそう言って、俺は視線を逸らした。
無造作に髪をはらいのけて、クローゼットの棚を探る。
―――嫌なわけじゃない。
もちろん、嫌なわけがない。
香藤のあの眼差しを喜び、欲し、どこかで安堵する自分がいる。
でも最近は、少し違うことを考えるようになった。
―――そうやって、香藤がいつも通りに振る舞ってくれるから。
それが演技だと思ってるわけじゃない。
香藤はいつだって、100%本物だ。
でも、ふと思う。
彼がこうやって目に見えるかたちで、俺を欲しがってくれるから。
色褪せない想いがそこにあることを、毎日ちゃんと示してくれるから。
だから俺は安心して、笑っていられるのだろうと思う。
愛されていることを、そうやって実感できるから。
一緒になって、もう10年。
―――香藤のおかげ、なんだろうな。
俺たちが馴れ合うことも、飽きることもなくいられるのは。
いつまでも恋人同士として、甘やかな気持ちでいられるのは。
香藤はこの10年ずっと、たゆまず完璧な恋人だ。
夫として、人生のパートナーとして、非の打ちどころがない。
もう若くはない俺を、ハネムーンの新妻よろしく、熱く求めてくれる。
言葉を惜しまずに、愛を躊躇わずに、いつでも俺を最高に甘やかしてくれる。
求められることが、俺にとってどれほど必要か。
求め合うことが、俺たちの関係にとってどれほど大切か。
わかっているから、態度で見せてくれるのだろう―――。
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「岩城さん、これさー」
香藤が差し出してきたのは、俺のスケジュールだった。
週に一度、清水さんがファックスしてくれる定期便だ。
最近は俺も、手のひらサイズの電子手帳を持たされてはいるが、一週間の予定をこうやって、ざっと把握できるのはありがたい。
「何か、変わったことでもあったのか?」
下着をつけて、糊のきいたシャツに腕を通しながら。
俺は不思議に思って、香藤の顔を見返した。
「変わったことっていうか・・・」
香藤はくしゃりと眉をしかめた。
それは、言いにくいことを言うときの香藤のくせだ。
「―――ここまでする必要、あるわけ?」
その声には、少々のためらいが含まれていた。
お互いの仕事に口を挟まないというのは、俺たちの暗黙の了解だ。
最低限のルール。
あるいは、プロとしてのけじめ。
夫婦同業だからこそ、超えてはならない一線だと思っている。
「ああ、そのことか」
香藤の言わんとしていることを察して、俺は頷いた。
「そんなに減ってるかな」
ごまかそうとしても、無駄だろう。
つとめて明るく、俺は笑顔でそう聞き返した。
乾き始めた髪の毛を撫でつけながら、香藤をじっと見つめる。
視線がゆっくり絡み合った。
―――わかってしまうものなんだな。
正直なところ、驚きはしなかった。
むしろ長年のパートナーとして、当然の洞察力なのかもしれない。
それでも俺は、香藤の鋭さに舌を巻いた。
「そりゃ、わかるよ」
「・・・そうか」
俺はここ数ヶ月、徐々に仕事量を減らしていた。
俳優としての露出をセーブしている、と言うほうが正確かもしれない。
すでに決まっていた仕事は契約どおりこなしているが、新規のオファーは、よほどのことがない限り引き受けていなかった。
「だって、これ。一週間で収録が二本だけなんて―――」
「ああ、そうだな」
インタープロを買収してから、ほぼ半年。
本音を言えば、すべて予想外の展開だった。
もともとは、自分の面倒を見るつもりしかなかったのだから、あたりまえと言えばあたりまえだ。
覚悟の上とはいえ、今の俺は、会社経営のことで頭がいっぱいだった。
初めてのことばかりだが、経験の無さは言い訳にならない。
大勢のタレントたちの未来が、俺の双肩にかかっているのだ。
彼らの人生を左右する立場にある以上、生半可な気持ちでは務められないし、失敗は許されないと思っていた。
―――圧(の)し掛かる重責は、確かにきつい。
後悔はしていない。
投げ出すつもりはないし、負けたくもない。
自分で選んだ道だから、逃げずにまっすぐ進むしかない。
ただ、時間は限られている。
本腰を据えて経営にあたるつもりならば、それ以外のことに割く余力はなかった。
役者業との両立はなかなか難しい。
―――少なくとも、今はまだ。
「俺はまだ、経営者としては駆け出しだ。会社を軌道に乗せるまでは、仕方ないさ」
「うん・・・それは、わかるけどね」
「今だけのことだと、思ってるけどな」
「でも、賞を取って波に乗ってるときに、こんな・・・」
香藤がもどかしそうにそう言って、俺を見つめた。
心配なのだと、その瞳が言っている。
掛け値なしに、心底俺のことだけを気遣ってくれる恋人。
嬉しくないわけがない。
俺は笑って頷き、香藤に向かって片腕を伸ばした。
すたすたと、香藤が近づいてくる。
俺はその肩を抱き寄せ、なだめるように背中をそっと撫でた。
―――ありがとう、香藤。
すまない、と口にするつもりはなかった。
それを言ったら嘘になるし、香藤も喜びはしないだろう。
「岩城さん・・・」
「俺は、大丈夫だから」
香藤の言いたいことは、痛いほどわかった。
俺が独立しようとしたのは、ただ純粋に仕事のためだ。
役者として、誰に気兼ねすることなく、やりたい仕事を選ぶ自由が欲しかった。
自分の責任で、自分の人生をプロデュースしたかった。
インタープロ買収も社長就任も、そういう意味では制約が多すぎる。
キャリアについて我儘を言うどころか、自由な時間もおぼつかない。
俺がもともと望んだ方向ではないのが、もどかしいのも事実だった。
―――泣き言をいうつもりは、ないけどな。
「インタープロは大所帯だ。個人事務所とは、わけが違うさ」
「・・・うん、それはわかるよ」
「社長の俺が、自分の売り込みにばかり、時間を割くわけにはいかないだろう?」
香藤のふくれっ面に苦笑しながら、俺は肩をすくめてみせた。
たしかに現状は、俺の理想のかたちではない。
そこにフラストレーションがないと言ったら、嘘になる。
―――だけどな、香藤。
会社経営にはまったく素人の俺を、社員は辛抱強く、献身的に盛り立ててくれていた。
才能ある若いタレントたちも、ベテランスタッフも。
誰も不平不満ひとつ言わずに、俺の取ってきた仕事を懸命にこなしてくれる。
組織として、チームとしてのプロジェクト運営。
処女航海の興奮と、大海原を睨みながらの舵取り。
会社勤めの経験のない俺にとっては、そのすべてが新しい刺激だった。
「役者としてのエゴは、もちろんある」
「うん」
「でも今は・・・みんなの期待に応えたい。船長(キャプテン)として航海に乗り出した以上、最後まで責任を全うしたいんだ」
俺はきっぱりとそう言って、香藤を見つめた。
―――おまえが心配してくれるのは、とても嬉しいが。
もう少しだけ、見守っていて欲しい。
俺の心が挫けることがあったら、むしろ甘えるなと突き放して欲しい。
それは、香藤にしかできないことだから。
「・・・うん、わかった」
しばらくの沈黙の後、香藤は神妙に頷いた。
まるで迷いを吹っ切ったような、すがすがしい微笑。
―――おまえだけだ、香藤。
おまえ以上に、俺を理解してくれる人間はいない。
俺が言葉にしなかった部分を、おまえはすべて汲み取って、何もかもわかった上で、俺を信じてくれる。
黙って俺を支えて、こうやって受け止めてくれる。
「髪の毛、ブローしなくちゃ・・・」
「・・・ああ」
時間にすれば、ほんの数分間。
俺たちはひっそりと、朝の日差しを浴びながら抱き合った。
香藤の胸のぬくもりに、うっとりと目を閉じる。
軽いキスが瞼に、頬に、唇に落ちる。
大きな暖かい手が俺の髪を撫で、項を辿り、背筋をすべり下りた。
「・・・時間・・・」
「うん―――」
階下で、ドアベルが鳴るのが聞こえた。
*-----*-----*-----*-----*-----*
「それでは、行って参ります」
清水さんはそう言うと、香藤に深々と頭を下げた。
長年の習慣なので、受ける香藤も慣れたものだ。
にっこりと鷹揚に頷いて、清水さんの労をねぎらうのを忘れない。
「いつも早くからご苦労様です。じゃあ、岩城さん―――」
いつもの笑顔で、香藤がすっと人差し指を唇に当てた。
ウィンクと同時に、小さく唇を鳴らす。
どうも最近、この小さな投げキスが気に入っているらしい。
とんでもなく気障な仕草だが、この男がやると、ごく自然に決まってしまうのだ。
「・・・まったく」
―――おまえは本当に、俺を甘やかしすぎる。
満足げな香藤の眼差しに、俺は思わず苦笑した。
恥ずかしいというより、どうしようもなく面映い。
そんな俺たちを、まるで自分の子供でも見るような、柔らかいまなざしで眺めて。
「では行きましょう、社長!」
清水さんはくるりと踵を返すと、玄関のドアを開けた。
藤乃めい
7 May 2009
『スタンドオン・ヴェッセル』後の岩城さんが、今ごろ何をしているのか。
・・・それを真面目に考えていたら、こんなお話が浮かびました(笑)。
2013年9月18日、サイト引越にともない再掲載。初稿を若干修正しています。