Lovers on Route 134

Lovers on Route 134




その男に気づいたのは偶然だった。
沿道の観客たちよりも頭ひとつ高い、圧倒的な長身。
位置的には俺の左肩越しのすぐ後ろ。
黒いロングコートにその身を包んで、まるで一月の朝の寒風をものともせずに、道路標識のポール脇に佇んでいた。
サングラスに隠されて、顔は見えない。

―――誰だ、あれ。

派手さはカケラほどもないが、とにかく目立つのだ。
格好だけなら、いつか映画で見たアメリカ大統領のSPか、マトリックスのキアヌ・リーヴスのようだが、何しろ醸し出す雰囲気が違いすぎた。
華やいだ漆黒というものがもしあるとすれば、彼はそれを具現していた。

―――芸能人かな、やっぱし。

「頑張れ、がんばれー!」
突然、耳元で甲高い大声が響いた。
俺は我に帰り、あわてて周囲を見渡した。
「そこ、白いラインより前に出ないでくださーい!」

―――仕事中に何やってんだ、俺!

一月も半ばをすぎた、寒い寒い日曜日。
すっきりした冬晴れの湘南の空を見上げて、俺はひとつ深呼吸した。
防砂林のすき間から、烏帽子岩が真正面に見える。
ここは国道134号線。
もっと正確に言うと、大磯から江の島までを海岸沿いに往復する湘南国際マラソンのコースの、15キロ地点。
イベント屋のバイトをしている俺は今日、ここでルート整理を手伝っていた。
要するに、見物客がコースにはみ出してランナーたちの走行の妨げにならないように見張る役目だ。

―――まあ、そんなに混雑してないから楽勝だけど。

このあたりは正月の箱根大学駅伝と同じコースだ。
といっても、あのテレビ中継で見るようなひしめく人出は、ここにはない。
地元の住民が、出走する家族や友人を応援に来ている程度で、のんびりした雰囲気だった。
「ファイト! がんばれー」
トップで駆け抜けた招待選手が通過してから、およそ30分。
フルマラソンに挑む一般ランナーたちが、白い息を弾ませながら、次々とコースに現れていた。
参加者はゆうに一万人を超えるというから、なかなかの規模である。
「パパ、パパー!」
手を振りながら、大声を張り上げる少女がいた。
思わずといった様子でコースに迷い込む。
父親とおぼしき走者が微笑んで頷くのを見届けてから、俺は少女に声をかけた。
「ダメだよ、白い線まで下がってねー」
慌てて後ずさりする少女に、素直でかわいいね、と思う余裕があったのも、周囲の雰囲気が和やかだったからだろう。

―――あんまりギチギチに規制してもね。

目の前を通り過ぎるランナーの数は、気づけばどんどん増えてきた。
派手なコスチュームの仮装ランナーもいれば、まるで有名人のように沿道の声援に笑顔で応えるランナーもいる。
中には立ち止まって、友人との記念撮影に興じる走者もいた。
誰もが、楽しそうだ。

と、そのとき。
「ほら、あれ!!」
「来たよー!」
「うわ、ホントだ!!」
興奮した叫び声。
ざわめきがウェーブのように沿道を伝わって、俺のいるあたりに届いた。

―――な、なんだ?

思わず俺は、コースに身を乗り出した。
最初に見えたのは、明るい茶色の髪。
頭の天辺にはサングラスが乗っかっていて、朝日を弾いてキラキラ光っている。
その下には、お馴染みの甘いルックス。

―――ああ、なるほど。

俳優の香藤洋二だった。
「きゃあー!」
黄色い悲鳴が上がる。
香藤はゲストランナーのひとりで、今回いちばんの話題の種。
もともと運動神経のよさ、というよりも鍛え上げられた体躯で有名なタレントなので、主催者側から声がかかったのだろう。
『年男にして、マラソン初挑戦!』
・・・という触れ込みで、マスコミでも騒がれていた。

―――36歳、かあ。

23歳の俺から見たら、十分にオッサンだ。
だけど、長いストライドで悠然と近づいてくる香藤洋二は、悔しいくらい格好良かった。
精悍な顔つきと、額に流れるひと筋の汗。
隆々と盛り上がった筋肉がなめらかに上下する、その動きまでもが絵になった。
着ているのは、スポンサーのロゴの入った派手なTシャツと、迷彩柄のハーフパンツ。
ウェアとしてはごく平凡なのに、それでも彼はめちゃくちゃに目立った。

―――あれが芸能人オーラってやつ?

「カッコよすぎ・・・!」
俺の周囲にいる見物客たちが、悲鳴ともため息ともつかない声を上げる。
「香藤くん、ファイトォー!!」
それに応えて、香藤がひょいと左手を上げる。
こぼれた笑顔に反応して、歓声がさらにトーンを上げた。
アイドルのコンサート並みの盛り上がりだ。
俺は半ばあきれ、半ば感嘆して、目の前を颯爽と走り過ぎる香藤洋二を見送った。

その時ひゅるりと、つむじ風。
冬の陽光に枯れ葉が舞った、その刹那。
左サイドを眺めていた香藤の横顔が、いきなり表情を変えた。
驚愕、とでも言ったらいいのか。
瞬きをして振り返ると、唐突に足を止めた。
「キャアー!!」
信じられないことに、香藤洋二はくるりと方向を変えると、猛然と俺に向かって走り寄って来た。

―――ええっ!?

逆走する香藤を、観客が呆然と見ていた。
俺はおろおろと周囲を見回す。
「―――きさんっ」
息の上がった、まるで切羽詰まったようなかすれ声が、彼の口から洩れた。
俺に向かって、ではなくて。
俺の左後ろにいた、あの黒づくめの男に向かって。

男は無言のまま、わずかに身じろぎした。
黒い―――多分、薄手の革製の―――手袋が、まるで磁石に引き寄せられるように、すうっと延ばされた。
しなやかな指先が、優美なラインを描く。
その手を押し頂くように、恭しく。
香藤洋二ががっしりと両手で受け止めた。
「来て、くれたんだ」
それは、思いがけない甘いささやき。
隠しきれない喜びにあふれていた。
周囲の喧騒などまったく耳に届いていないのだろう。
彼はまっすぐに、その男だけを見つめていた。

―――ああ、そういうことか。

黒いコートの男は、岩城京介だってわけだ。
言わずと知れた、香藤洋二の同性のパートナー。
同じく俳優だが、最近は芸能プロダクション経営に乗り出したらしく、多忙を極めているとか。
香藤があれだけ驚いたところを見ると、お忍びで応援に駆けつけたのかもしれない。
「いいから・・・」
岩城京介が何か言ったが、俺には聞き取れなかった。
あたりの観客はもちろん興味津々だ。
固唾を呑んで、二人の様子を見守っている。
そうしている間にもどんどん、他のランナーたちが通り過ぎて行った。

―――足を止めたランナーに注意すべきなのか?

俺がこっそり悩み始めた途端、香藤がにっこりと頷いた。
岩城の手を取ったまま、周囲の視線におどけるように舌を出し、それから手の甲で額の汗をぬぐう。
その一連の動作がまた、嫌味なくらい決まっていた。
「・・・じゃね!」
ほんの一瞬、岩城の手に―――手袋に―――キスを落とすと、香藤は俺の方向にウィンクをよこした。
あとは一目散に、軽やかなステップで走り出す。

―――なんだよ、あれ・・・!

俺の心臓は、どういうわけかバクバクいってた。
なんなんだ、あの気障な仕草は。
どういう意味だろう。
見逃してくれ、か・・・あるいはサンクス?
「キャアー!」
「頑張って、香藤くん!」
あっけに取られていたまわりの観客も、一気に我に返ったようだった。
再び起こった歓声は、ひときわボルテージが上がっていた。
香藤洋二はもう二度と振り返らなかった。
ぐんぐんスピードを上げて去っていく。
その背中を、誰もが呆けて見送ったような気がする。

―――大胆っていうか、なんていうか。

香藤洋二が身にまとう煌めきに、その半端じゃない熱に、俺は圧倒された気分だった。

ふと、気づくと。
岩城京介の姿も、いつの間にかそこから消えていた。
「なんか凄いもの、見ちゃったよねー!?」
「カッコよかった・・・!」
「うんうん、びっくり! ラブラブじゃん!」
興奮した女性たちの声が、背後から聞こえた。

―――凄いっていうか。

ゲイとかホモとかって、巷では揶揄されてるけど。
実際に目にしてみると、けっこう普通に見えた。
普通の、恋人どうし。
そう感じたこと自体が衝撃だった。

―――いや、だから、男同士だし!

普通じゃない。
普通じゃないはずだ。
でも香藤洋二は、堂々としていた。
堂々っていうか・・・ナチュラル?
ごく自然に、そこに岩城京介が居たことを素直に喜んでいた。
あたりまえの、恋する男として。

二人の関係が騒がれ始めたのは、俺が中学生の頃だ。
当時は、ものすごいスキャンダルだった。
あれから何年だろう。
けっこう長く続いてるはずなのに、まだまだ熱愛中ってわけだ。

―――なんか、ヤバいでしょ。

周囲の視線をものともしない二人の姿に、あてられたっていうか。
俺はどぎまぎしていた。
おかしなもんだ。
香藤洋二がちらりと見せた、誇らしげな、この上もなく嬉しそうな笑顔。
それが、脳裏に焼きついていた。
それだけまっすぐに、全力で愛する相手がいるってことが、少しだけ羨ましかった。

思わず天を仰ぐ。
そこには青い青い、清々しく澄んだ湘南の空が広がっていた。





藤乃めい
27 January 2011

岩城さん、お誕生日おめでとう♪
ブログネタのノリのまんま、貴方を我が故郷に呼んじゃいました(笑)。
我田引水、どうぞご容赦を・・・!


2013年11月27日、サイト引越により再掲載。初稿(もともとはブログで発表)を若干修正・加筆しました。
ちなみに自前の壁紙に写っているのが、実際の国道134号線です。