December Love 01




「はぁ!?」
保坂は、徳利を持った手を止めた。
向かいの席で胡座をかいている黒川を、まじまじと見つめる。
「・・・答えろよ」
ふてくされたように俯き、お好み焼きを箸でつつきながら。
「答えろってば」
黒川は憮然とした声で、その言葉を繰り返した。
一呼吸おいて、保坂は笑い声を上げた。
「あは、あはは! ・・・もうホント、最高! 弓ちゃん、可愛すぎだよ」
「保坂くん・・・」
珍しくも腹をかかえて笑う保坂を、黒川は睨んだ。
「・・・もしかしなくても、俺のこと、バカにしてるね?」
窺うように、上目遣いに保坂に視線を投げる。
「そんなことないよ」
心外だと言いたげに、保坂は形のいい眉をしかめた。
その声はまだ、からかうような響きを残してはいたけれど。
「・・・ねえ、弓ちゃん」
思いがけないほど甘い、呼びかけ。
黒川の肩がピクリと揺れた。
「あのさ、じゃあ聞くけど」
さらりと、保坂が言った。
「・・・弓ちゃんは、どっちがいいの?」
虚をつかれ、黒川は顔を上げて保坂を見つめた。
切れ長のまっすぐな瞳が、黒川をじっと見返した。
「ど、どっちって・・・」
黒川は顔を赤くして、もじもじと俯いた。
「・・・俺に男を抱いた経験があるのと、ないのと、どっちがいいわけ?」
「バ、バカ!! そんなでかい声で・・・!」
黒川があわてて、周囲のテーブルを見回した。
店内の喧騒は相変わらずで、誰も隅のテーブルの二人に注意など払ってはいなかったけれど。
きょろきょろと視線を泳がせる黒川に、保坂がくすりと笑った。
「・・・弓ちゃんが自分で、聞いたんだよ?」
「ちょっと・・・保坂くん・・・」
「経験もないやつに押し倒されて、痛い思いをするのはいやだもんね?」
「あのねえ・・・」
黒川は小さくため息をついた。
「俺は、そんなこと言ってないだろ?」
「・・・ま、いいけどね」
保坂がニヤリと笑った。
「そんなに心配なら、教えてあげるけど。俺は経験、豊富だよ?」
「ええっ!?」
素っ頓狂な声をあげて、黒川は思わず腰を浮かせた。
「う、ウソだろ・・・!?」
まん丸な目をして、まじまじと保坂を見つめる。
驚愕した声は、ほんの少し震えていた。
「あはは、弓ちゃん、その顔・・・!」
黒川の反応を見て、保坂は嬉しそうに笑った。
「鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔、してるよ・・・?」
くすぐるような囁き。
保坂の会心の笑みに、ようやくそれが冗談だと気づいて。
黒川は顔を真っ赤にして、下を向いた。
「・・・意地悪だな、保坂くんは。先輩をからかうなんて」
「からかってなんか、ないよ」
楽しそうに、歌うように、保坂が続けた。
「俺―――ほら、BLの仕事では攻める役ばっかりだからさ。もう何十人、抱いてると思う?」
うつむいた黒川のつむじを、保坂は指先で軽く弾いた。
「・・・弓ちゃんを抱いたことだって、あるじゃない」
「ええっ」
「どのCDだったかな。可愛い声で喘いでくれちゃって、俺どうしようかと思ったもんなあ・・・」
「な、何を・・・!」
ますますうろたえて、黒川は下を向いた。
まるで長い髪で、紅潮した頬を隠そうとするように。
「・・・ねえ、弓ちゃん」
女を口説くような、甘い吐息まじりの囁きが、黒川の耳のそばで響いた。
「俺を懐に入れて、くれるんでしょ・・・?」
黒川は反射的に、首をすくめた。
「さっきのアレは、そういう意味だよね」
「保坂くん・・・」
困ったように、つぶやきながら。
黒川は少し顔を上げた。
さまよう視線が、保坂の切れ長のまなざしとぶつかる。
熱い感情を秘めた、思いがけないほど真剣な視線。
「・・・いいんだよね。もう、待たなくて?」
獲物をようやく絡め取った、牡の声だった。
黒川の背筋に、ゾクリと何かが走った。
ほうっとひとつ、深呼吸をして。
黒川は、握りしめていた箸をゆっくりテーブルに置いた。
火照る頬を持て余しながら、こぼれる髪の毛をかき上げる。
その一挙手一投足を、保坂が見ていた。
痛いほどの視線。
それを感じながら、黒川は苦笑した。
「・・・おまえその目つき、恐すぎるよ?」
あきらめたように、照れくさそうに。
「そんながっついた顔してたら、女の子はビビるっての」
「弓ちゃん・・・」
床に片手をついて、黒川はゆらりと立ち上がった。
保坂の視線は確かめない。
「・・・言ったろ? いつだって俺をお持ち帰りできるのは、おまえだけじゃないか」
知ってるくせに。
黒川はボソリと呟いた。
それからちらりと、横目で保坂を見下ろして。
黒川はゆっくりと、座敷の出口に向かって歩き出した。



☆ ☆ ☆



エレベーターの振動音。
ゆっくりと上層階に向かう箱の窓から、都心の夜景が見渡せた。
額をガラスに擦りつけるようにして。
黒川は、だんだん眼下に遠ざかる光をじっと眺めていた。
身の置きどころのない、ぎこちない沈黙。
「弓ちゃん・・・」
カツン、と靴の音。
一歩近づいた保坂の気配に、黒川はハッと振り返った。
「うん・・・?」
次の瞬間、黒川は保坂の逞しい胸の中にいた。
「ちょっと、ほさ・・・!」
抱き寄せる腕の力強さ。
ほのかに漂う、スパイシーな香水の匂い。
皮膚でリアルに感じる保坂の男くさい存在感に、黒川の肩が震えた。
保坂の指が、黒川の顎をついと掬い上げた。
「好きだよ、弓ちゃん」
低いささやき声。
わずかに身をよじらせた黒川の抵抗を封じ込めて。
長い指先が、そろりと黒川の唇をなぞった。
「おい・・・」
震える吐息が、その指先にかかる。
「ホント、ずいぶん焦らしてくれたよね・・・」
ため息のようにささやいて、保坂は黒川にくちづけた。
唇を合わせるだけのキスを、角度を変えて、何度も繰り返す。
それから、熱い舌が黒川の咥内に侵入した。
「・・・んくっ・・・」
黒川の戸惑いを吸い取るように、舌をからめて深くくちづける。
頬の内側を、歯列をなぞる舌の動きを、必死で追いかけながら。
黒川は眉を寄せ、いつの間にか力の入らない腕で、保坂にすがりついていた。
深く、浅く。
吐息を奪うような、執拗なキス。
「あふ・・・っ」
息苦しさに、思わず黒川が保坂の抱擁から抜け出したのと。
ガタン、と音を立ててエレベーターの扉が開いたのは、ほぼ同時だった。
「ほっ・・・さかく・・・っ」
ゼエゼエと荒い息をついて、胸を押さえながら。
黒川は潤む瞳で、保坂を睨みつけた。
「なあに、弓ちゃん?」
しらっと応える保坂のほうは、息を乱してもいなかった。
黒川を促して、エレベーターから出る。
「・・・この、スケベ野郎・・・」
憎まれ口をたたく黒川を、保坂は眼を細めて見つめた。
「なーに言ってんだかねえ」
自宅のドアの前で鍵を取り出し、小声でつぶやく。
「この程度のキスで、腰砕けになっちゃうなんて―――」
赤い顔の黒川を、ちろりと見下ろした。
「・・・弓ちゃんって、意外とウブなんだ」
耳元でそうささやきながら、空いている片手で黒川の尻をするりと撫でる。
まるでそれが当然であるかのように、尻たぶをぎゅっと掴んだ。
「可愛いよ」
脚のつけ根に、骨ばった男の指の感触。
「!!」
仰天した黒川に、保坂はニッと笑ってみせた。
手中に収めた獲物に舌舐めずりする、猛獣の顔つきで。
黒川は、全身を震わせて立ちすくんだ。



☆ ☆ ☆



「ちょ、ちょ、ちょっと、待て! 待ってくれ、頼むから!」
いつもの甘いバリトンの美声はどこへやら。
裏返ったかすれ声を上げながら、黒川はリビングに飛び込んだ。
「どう、どう・・・! 落ち着こうよ、ね、保坂くん・・・!」
保坂の見せた獰猛さに、震え上がって。
緊迫した雰囲気を追い払うように、黒川は必死で笑顔を浮かべた。
「え・・・あっ・・・おわっ!!」
勢いよく後ずさりして、そのまま大きなソファに尻餅をつく。
遅れて部屋に入ってきた保坂は、気障なしぐさで髪をかきあげた。
呆れたように、ため息をついて。
「・・・落ち着いたほうがいいのは、弓ちゃんだよ?」
保坂は後ろ手で、ドアを閉めた。
バタン、という音がだだっ広い部屋に響く。
その音に、黒川が胴震いした。
「あの・・・」
痛いほど緊張した、黒川の声。
それにまったく気づかないふりをして。
部屋の主は、涼しい顔のままゆっくりソファに歩み寄った。
「その・・・保坂くん・・・」
途方に暮れた表情で、黒川は長年の友人を見上げた。
「うん?」
先をうながしながら、保坂はドサリとソファに腰をおろした。
黒川の隣りの、いつもの場所に。
お互いの吐息が聞こえるほどの近さ。
だけど、目に見えない境界線が引かれた距離感。
「・・・ねえ、弓ちゃん」
ソファの背にもたれて、天井に視線を泳がせながら。
保坂が苦笑まじりに言った。
「そこまでビビられるとさ、俺、自信なくすんだけど・・・」
「は?」
「念のために聞くけど。俺の思い違いじゃ、ないんだよね?」
「え・・・」
視線を合わせないまま、保坂が続けた。
「俺さあ・・・自分でもよく我慢したって感心するくらい、長いこと待ってたから。焦らされて焦らされて、ホントに何度無理やり押し倒そうと思ったか、わかんないくらい」
「な、何を・・・!?」
「・・・だーかーら。さっきあんなこと言われて、もうとてもじゃないけど、余裕ないわけ。弓ちゃんも男なら、わかるでしょ?」
「・・・ほ、保坂くん・・・」
黒川の声がざらりと掠れた。
余裕がないと言うわりには穏やかな口調で、組んだ後ろ手に頭を預けたまま。
保坂は静かに言葉を継いだ。
「弓ちゃんを、そりゃあ抱きたいけど・・・でも俺は欲張りだからね。身体だけじゃなくて、心も欲しい。これだけ待ったんだ。今さら、妥協はしたくない」
保坂はチラリと、黒川を見た。
「・・・だから、弓ちゃん。自分で決めて? 俺の早とちりだって言うんなら、今すぐここを出て行って」
保坂がのっそりと片腕を挙げた。
緩慢なしぐさで、ドアを指し示す。
「・・・出てって。俺の理性が、ぶっ飛ぶ前に」
それっきり、保坂は目を閉じて黙り込んだ。
黒川はほうっとひとつ、深呼吸をした。
それから、くすりと笑う。
「・・・バカヤロウ」
「へ?」
ひょいと瞳を見開いた保坂の膝頭を、ポンと叩く。
「なに今さらカッコつけてんだよ。さっきは堂々と、俺のケツ撫で回したくせに」
よいしょ、と呑気な声をかけて、黒川はソファから立ち上がった。
「じゃあな」
そのままスタスタ歩き出す。
「えっ・・・弓ちゃん・・・!?」
後姿に思わず声をかけた保坂を、黒川はゆっくり振り返った。
にんまり、したり顔。
悠然と、ソファから腰を浮かしかけた長身の男を見下ろす。
「バッカ條一郎、情けない声出してんじゃないよ・・・!」
カラカラとひとしきり笑ってから。
黒川は髪をかきあげて、くるりと身体の向きを変えた。
リビングの奥の白いドアに、それとなく視線を走らせる。
それに気づいて、保坂が少し目を瞠った。
「弓ちゃん・・・」
「風呂、借りるぞ」
そう言い捨てて、黒川はドアの向こうに姿を消した。




ましゅまろんどん
10 March 2006



黒川さんがついに條一朗への思いを認めた直後から、このお話はスタートします。本編でお二人が両想いになった今ではなかなか想像が難しいのですが、それ以前の、仲良しだけどビミョーな距離感のある関係を思い起こしながら読んでいただければ。
2012年11月24日、サイト引越につき再掲載。