Fly me to the moon 02: You know you make me so happy




+++



平常心。
平常心。
平常心。



俺は目を閉じて、一心不乱にそう念じた。
深呼吸して、スタジオのドアを開ける。



「・・・ざいまーす」
「はよーございまーす」
「うわあっ!?」
いきなり戸口で転びそうになった俺を、保坂くんの腕が支えた。
「弓ちゃん、もう。気をつけなよ。何を焦って・・・」
「だって、そこに段差が―――」
口を尖らせた俺を、保坂くんが呆れたように見返した。
「前からあるでしょ?」
「ぐっ・・・」
可愛くないな、こういうときは。
「こら、放せ」
俺はむくれて、保坂くんの腕の中でもがいた。
「おはようございまーす」
先にスタジオ入りしてた新人らしい女の子と、あとは顔見知りの役者が二人、三人。
俺たちを見て、それぞれ立ち上がって挨拶した。
「おはよう、早いですねー」
「おう、しばらくだな」
・・・そう、平常心。
これはいつもの、仕事風景なんだから。



・・・げ。
保坂くんに抱えられてジタバタしてる俺を見て、国府が寄ってきた。
・・・こいつも今日、一緒だったのか。
このシチュエーションで、いちばん会いたくない相手かもしれない。
すっかり、眉間にしわが寄ってる。
「よお」
クールな片笑みの保坂くん。
いっこうに、俺を抱く腕を緩めないままで。
「條一郎、おい」
「おはようございます、黒川さん。・・・何、してんですか」
質問の矛先は、もちろん保坂くんだ。
「別に」
さらりとそう言って、保坂くんはゆっくりと見せつけるように俺を解放した。
「久しぶりだな、国府」
保坂くんの言葉に微妙な棘を感じるのは、気のせいだろうか。
・・・なんだか、気まずい空気。
「ごほん!」
俺は派手に咳払いして、控え室のいつもの席についた。
―――つこうと、した。
ドサリ、と腰を下ろした瞬間。
「・・・っつうっ・・・!」



―――忘れてたなんて、俺のバカ・・・!



痛みが尻から一気に駆け上って、背筋を伝う感じだった。
「・・・じょっ・・・いち・・・」
俺は思わず、しがみつく腕を捜した。
人前でマズイだろ、と思うんだけど、非常事態なのでどうしようもない。
「弓ちゃん」
ツカツカと近づいてきた保坂くんが、俺をすくい上げるようにして立たせた。
「大丈夫?」
耳元で小さく囁きながら、ゆっくりと背中をさすってくれる。
「うん・・・」
優しい、大きな手。
この手に触れられるのは、とても気持ちがいい。
自分の年齢とか、性別とか、立場とか、そういうものを全部忘れて。
うっかり頼って、甘えてしまいたくなる―――そんな感じの。



俺たちはそろそろと歩いて、部屋の隅に移動した。
さりげなく腰に廻ってた保坂くんの腕が、するりと離れていく。
壁にもたれかかって、俺はほうっと息をついた。
・・・周囲の視線を感じるけど、気がつかないふり。
平常心だ、俺。
「やれやれ・・・」
今日一日、こんなんで仕事できるんだろうか。
「黒川さん、さぁ」
国府が、ものすごく不愉快そうな低い声を出した。
横目でちらりと、保坂くんを睨みつけながら。
俺の脇に寄って、探るような視線を向ける。
「なんだ?」
―――なんか、意味深な目つき。
いや、保坂くんといる俺を見るときの国府は、いつも剣呑だけどさ。
「それ・・・」
視線が泳ぐ。
俺の顔・・・じゃなくて。
もっと下、首筋のあたりを見てるのか。
「なんだよ?」
俺は引きつり笑いで、やつを見返した。



「・・・ざいまーす」
バタンとドアが開いて、カザが悠々と入ってきた。
ざっと控え室を見回して会釈するだけの、傲慢不遜なそっけなさ。
―――まったく、相変わらずだよなあ。
「よお」
俺は苦笑しながら、軽く手を挙げた。
「あれ、黒川さん」
うっすらと微笑を見せて、カザがそそくさと近づいてきた。
こいつが案外すれてなくて可愛い性格だって、知ってるからだろうけど。
こういう風になつかれるのは、悪くない気分だ。
他のベテラン連中にも、こういう素直なとこ、見せてやればいいのにな。
そしたらこいつも、人生ちょっとは楽になるだろうに―――。



「黒川さん、大胆。それってキスマークっすよね?」
まさかの不意打ちだった。
カザは目を眇めて、ちょっと首を傾げてから。
邪気のない顔で、あっさり言ってのけた。
ご丁寧にも、俺の首筋をしっかり指差して。
「・・・どえ!?」
俺は飛び上がって、咄嗟に襟元をかき合わせた。
「やっ・・・キ、キスマークって・・・・っ」
・・・前言撤回。
やっぱりちっとも、かわいくない!
水を打ったように―――控え室が、しんと静まり返る。
ギャラリーの沈黙が、痛い。
いろいろと痛い。



「っな、カザおまえ、なに言って・・・っ」
我に返って、俺は慌てふためいた。
「やっぱり・・・」
じっと俺をねめつける国府の顔が、ふいに歪む。
カザはきょとんとした顔つきで、ジタバタする俺を見ていた。
・・・爆弾落とした自覚、ゼロ。
本当に相変わらずだ。
国府は心なしか肩を震わせて、すっごい形相で俺を見た。
怒り・・・っていうより、驚愕か。
それから、俺のすぐ後ろに立ってる保坂くんを睨みつけた。
「保坂さん、これってまさか・・・!」
拳を握りしめて、低い唸り声を漏らす。
何なんだよ、この反応は?
「おまえ、なんか誤解して・・・っ」
ここがどこだか、わかってるのか?
―――なんだか三角関係の修羅場みたいで、俺は一気に逃げ出したくなった。



ふっと、余裕の笑みを見せて。
「どういう誤解、なのかねえ」
保坂くんは腕を組み直し、ちろり、と国府を見下ろした。
そう―――わざと長身を誇示するような、やらしい視線で。
・・・あ、なんか、嫌な予感が・・・。
「これ、ね」
秘めごとみたいに呟いて、保坂くんは指先で俺の首筋をなぞった。
「ひぁ・・・っ!」
ゾクリと、全身が震えた。
条件反射みたいに、俺の声が裏返る。
ヤバいヤバい。
ダメなんだって・・・!
なんだか知らないけど、昨夜以来、俺はものすごく敏感だから。
指一本でも、この男に触れられるとおかしくなるから。
「バカ條一郎・・・!」
顔が真っ赤になるのがわかる。
「これが、どうしたって?」
憎ったらしいほどのクールさで、保坂くんは顎をしゃくった。
「お子様には、わからないかもしれないな」
国府の挑戦的な視線を、歯牙にもかけないって感じで。
「・・・弓ちゃん、教えてあげたら?」
「・・・!!」
ここ、仕事場!
なのに、こいつら何してるんだよ。
国府の眉が、キッとつり上がった。
歯軋りしそうな剣幕で、じいっと保坂くんと対峙してる。
ゴクリ、とギャラリーの誰かが喉を鳴らした。
―――に、逃げたい・・・。



「あれ。ひょっとして国府さんって、もしかして―――」
唐突に、カザが口を開いた。
その場の緊迫感を無視した、のんびりした声で。
空気が読めないにもほどがあるけど・・・ここまで来ると、ある意味、大物だよな。
・・・って、感心してる場合じゃないか。
「何だよ、風間?」
国府が低く唸った。
「保坂さんと黒川さんのこと、知らなかったんすか」
意外だと言わんばかりに目を瞠って、カザが言った。
「・・・!」
天然爆弾、再び炸裂。
今度は、俺も国府も絶句した。
「今さら、何を驚いて―――」
「おいカザ・・・っ」
「はい?」
真面目くさったその顔を見て、俺は一気に脱力した。
・・・こいつホントに、わかってない。
「・・・・あはは!」
ひと呼吸おいて、保坂くんが声をあげて笑った。
「こりゃ、やられたな」
しれっとして、保坂くんは俺の顔を覗き込んだ。
「今さらだってさ。どうする、弓ちゃん?」
「ば・・・っ」
「・・・はは、黒川くんのその顔!」
カザの後ろで、共演者のひとりがいきなり笑い出した。
「確かに、かなり今さらだよなあ」
可笑しそうに、別の役者が応じる。
「バレてないと、思ってたのかー」
その場に充満していた緊張感が解けたのが嬉しいみたいに、肩を揺すって笑う。
―――なんだなんだ、この流れ。
新人の女の子まで、ぷっと噴き出した。
「ちょっと・・・それ、誤解だから・・・!」
俺は憤然と抗議した。
・・・今さらって、どういうことだよ!?
なんでここで、みんな和やかに頷いてるんだよ?
冗談じゃない。
昨夜だぞ、俺たちがどうにかなっちゃったのは。
それまではごく普通だった。
何年も普通に、親友兼ライバル、やってたんだぞ。
それなのに。
こいつらは―――ずっと前から?
俺と保坂くんがそういう関係だと、思ってたってことか・・・!



「何か言えよ、條一郎・・・!」
俺は猛然と振り返って、保坂くんを見上げた。
・・・んだが。
援護を求める相手を間違えたことを、すぐに悟った。
「・・・んん、何を?」
壁にもたれて、悠然と腕を組んだ姿勢のまま。
心もち上半身を折り曲げて、保坂くんが俺を見返した。
・・・とろけるような、ってやつだろうか。
受け止める俺のほうが恥ずかしくなるような、甘い視線。
「ば・・・っ」
これは、恥ずかしすぎる。
やめさせようとして、俺は保坂くんの目配せに気づいた。
切れ長のシャープな視線は、笑ってない。
―――チラリと、切れ長の瞳が国府のいる方角を示す。
「・・・え?」
あいつをけん制するために、わざとバレバレの態度をとってるって、言いたいのか。
カザのデマを否定する気は、ないらしい。
・・・それ、俺の迷惑、考えてないだろ。
「もう・・・」
降参の気分で、俺はちょっと天井を仰いだ。



今さら。
今さら。
今さら。



ショッキングな言葉が、頭の中をぐるぐる巡っていた。
・・・目眩がしそうだ。
そりゃあ、BLの仕事ならいくらでもしたさ。
男相手に喘いだことも、喘がせたことも、何度だってある。
―――でも、それことこれとは、訳がちがうじゃないか。
「うー・・・」
実生活でもそうだと、思われてたなんて。
それも―――相手が保坂くんってことは、つまり。
俺が女役・・・って思われてたってことだよなあ。
・・・俺、普通の男なんだけど。
ふつうに彼女がいたりいなかったり、セックスしたりしなかったり、してたんだけど。
ごくごく普通の男を、今まで30数年間、何の問題もなくやってたはずだ。
今じゃ立派なオッサンで、出来損ないの親父。
それなのに、なんてこった。
「あんまりだ・・・」
嘆息して、俺は頭をガシガシかいた。



+++



「お疲れー」
「ごくろうさまでしたー」
「じゃあ、また!」



その日の収録を、俺は何とか無事にこなした。
精神的にはえらく混乱してたかもしれないが、そこは、プロだからね。
死ぬほど恥ずかしい誤解があろうと、他人の勘ぐるような視線が痛かろうと。
―――どれほど、腰がだるくても。
その程度で、仕事の質を下げるわけにはいかない。
目には見えなくても、マイクの向うには、たくさんのファンがいるんだから。
俺たちを応援して、俺たちを支えてくれてる人たちが、日本中に。
彼女たちを失望させるわけには、いかないんだから・・・!



「弓ちゃん、どうするの。うちに帰る?」
「ん・・・」



俺は再び、保坂くんと一緒にタクシーに乗っていた。
ちなみに、本日の交通費はみんなやつ持ちだ。
「辛そうだね。横になりなよ」
保坂くんはそう言って、俺の肩を引き寄せた。
「うん・・・」
俺は素直に頷いて、ズルズルと身体を伸ばした。
ちょっと半身ぎみに、保坂くんの膝に頭をつける。
運転手の視線が気にならないと言ったら、うそになるけど。
―――もう本当に、腰がしんどかったから。
「このほうが楽?」
やさしく俺の髪の毛をすきながら、保坂くんが真上から聞いた。
「ん、まあ」
俺は目を閉じたまま、生返事をした。



舗装の悪い道で、車がジャンプするたびに、俺は無意識に眉をしかめていたらしい。
「・・・弓ちゃん」
保坂くんが、そっと話しかけてきた。
「なに?」
「・・・本当に大丈夫?」
気遣わしげな口調に、俺は目を開けた。
まっすぐ見下ろす瞳が、珍しく自信なさげだ。
「気にするなって」
苦笑しながら、俺は片腕を伸ばして彼の首に巻きつけた。
なにしろ、タクシーの狭い車内。
身体はけっこう不自由なんだけど。
保坂くんはそれでも身体を折って、顔を近づけてきた。



「・・・痛いって言うかさ・・・」
ほとんど息だけの掠れ声で、俺は言った。
至近距離のまなざしが、少しだけ歪む。
保坂くんの耳に直接注ぎ込むような感じで、俺は続けた。
「違和感っていうか・・・異物感っていうか」
言いながら、頬に血が上るのがわかった。
「・・・そういう感じだから」
ものすごく、恥ずかしいんだけど。
でもちゃんと言わないと、保坂くんが心配するばかりだから。
「それって・・・」
ほとんど唇が触れそうな、そんな距離で。
保坂くんが、ちょっと目をみはった。
「もしかして―――」
それから、いたずらっ子みたいに微笑して。
大きな手のひらが、あやしげに俺の腰を伝った。
するりと股間に忍び込み、ジーンズの縫い目を辿って、俺の後ろに到達する。
「おい・・・」
まるでそっと扉を叩くみたいに、保坂くんの指がトントンとそこをノックした。
「んっ」
痛いわけじゃ、ないのに。
俺は条件反射みたいに身体を震わせて、腰を捩った。
「條一郎・・・」
もがくこともできずに、俺は保坂くんを見上げた。
「ここに、さ」
とびきりセクシーな微笑で。
「・・・まだ俺が、入ってるみたい?」
保坂くんはそう囁いて、じっと俺を見つめた。
「ばっ・・・」
うろたえた俺を簡単に封じ込めて、もう一度尋ねる。
「ねえ」
俺が逆らえないのを知ってて、甘えた声を出してみせる。



なんてやつだ。
なんてやつだ。
なんてやつだ。



俺は憮然としながら、保坂くんを睨み上げた。
「誰の、せいだよ・・・」
吐き出すように、俺は言った。
―――もう、あきらめの心境で。
そう、あきらめるしかない。
こんな男に惚れた俺って、ホント、かわいそうだよな。



「弓ちゃん、好きだよ」
ひそやかな囁き。
保坂くんは腰をかがめて、俺の額にキスを落とした。
いいのか、おい。
ここ、タクシーの中なんだけど。
・・・って、これも今さら、か。
それから唇と舌先でゆっくり、俺の顔をなぞった。
眉と、鼻と、頬と。
愛撫っていうより―――なんか、犬がじゃれつくみたいな感じ。
しっとりと唇が重なった。
ついばむようなキス。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
「んん・・・っ」
子供をあやすみたいな、やさしいキス。
・・・上からキスが降ってきて。
女みたいに大事に大事にされちゃって。
―――ひょっとして、これからずっと。



慣れていいのか、俺。
今朝そう自問した、その答えはもう出てる気がした。
だって、気持ちがいい。
保坂くんのそばは居心地がいい。
―――それで、いいじゃないか。
「條一郎・・・」
俺の声も、信じられないくらい甘く掠れた―――。



けっこう幸せかもしれない。
俺はそう思った。
條一郎の膝。
硬い、張りつめた筋肉の感触。
ジーンズ越しのわずかなぬくもり。
黙って俺の頭をなでる、大きな手。
すべてが俺に、安心をくれる。



こういうのは、嫌じゃない。
こういうふうに、全身を預けられる相手がいるのは、気分がいい。
何もかも許してしまえる―――俺の恋人。
・・・そうか。
セックスして、泣いて喚いて。
自分のいちばん恥ずかしいところを、曝け出したからこそ。
今こうやって、穏やかに、すべてを委ねてしまえるんだ。
相手の気持ちが、信じられるんだ。
ここまで自分をありのままに出したことなんて、人生で初めてかもしれない。
だから、保坂くんは特別なのか―――。
俺をすっぽり包み込む、男の度量。
きっと、そういうことなんだろう。



ふと、女房のことを思い出した。
ほろ苦い破綻の記憶。
俺に保坂くんみたいな、度量の大きさがあったら。
俺が、どっしり構えてなんでも受け止めてやれるほどの豊かな
男だったら。
彼女はもっと、俺を信じてくれたのかもしれない。
幸せにしてやれたのかも、しれない。
―――まあ。
今じゃもう、意味のない仮定だけど。



「條一郎・・・」
「うん?」
おまえはすごいな、って。
そう言おうとしたけど、ホントに言葉にしたかどうか、わからない。
なぜだかものすごく、満たされた気分だった。
・・・幸せ、だと思う。
俺は保坂くんの手を探り当てて、指を絡めた。
くすり、と笑う気配。
繋いだ手に、ぎゅっと力がこもる。
「寝てていいよ」
静かな声が、降って来た。
「ん・・・」
保坂くんの膝の上で、小さく頷いて。
そのまま俺は、すうっと睡魔に引き込まれていった。





ましゅまろんどん
26 August 2006



・・・というわけで、黒川さんたちの初夜&その後のドタバタはこれでおしまい。最後までおつきあいくださいまして、本当にありがとうございました。
2013年2月5日、サイト引越につき再掲載。