第五章 (4)




許す、許さないは理性の問題だ。
だが、嫌悪感をどれほど理性でねじ伏せても、生理的な反応が消えるわけじゃない。
俺は今さらながら、それを実感した。
―――すまない、香藤。
おまえとの約束を、守れそうにない。
脳裏に、葛藤する香藤の顔が浮かんだ。
宮坂くんを許すことに、いちばん悩んだのはあいつだ。
さんざん苦しんで、自問自答を繰り返し、その果てに辿り着いたあいつなりの結論。
赦す、という選択。
それを俺は、尊重してやりたかったが―――。



「・・・俺に触るな!!」
寝台に乗り上げ、強引にのしかかってくるニコ。
その欲望に滾った瞳を真正面から見据えて、俺は叫んだ。
「震えてる、くせに・・・」
興奮にざらついた低い声。
唾棄するほど忌まわしい、彼の荒い吐息。
「そこを、どけ!」
激しい怒りに襲われて、俺は渾身の力でニコの腕を振り払った。
視線を逸らさず、ゆっくり寝台の隅に身体をずらした。
ここからなら、ドアまで走るくらいはできるだろう。
「挑発したのは、あんたのほうだ―――」
口の端を歪めて、ニコが嗤った。
それはもう、いつも誠実なクラウディオの側近の顔ではなかった。
自制心を失った若い男。
その荒い息。
『あまり、刺激しないでやってください』
アンジェロの警告が、今頃になって俺の脳裏に甦る。
―――もう、遅い。
息を潜めて、俺はジリジリと腰を浮かせた。



そのとき、唐突に。
「どうした、キョウスケ。何を大声で喚いて―――」
クラウディオの声が、部屋の外から響いた。
はっとニコが息を呑んだ。
ドアが勢いよく開け放たれ、乱れ髪のクラウディオが大股で入ってくる。
「クラウディオ!」
「・・・首領・・・!」
「キョウ・・・!?」
寝台の上に膝をついたままのニコを見とめて、クラウディオは絶句した。
「な・・・っ!」
一瞬見開かれ、そして眇められる薄茶色の瞳。
背筋が凍るような、冷たい沈黙。
「クラウディオ・・・」
俺は堪らずに、そっと恋人を呼んだ。
安堵感に、身体が一気に弛緩する。
クラウディオはちらりと俺を見ると、小さく眉をひそめた。
「無事か、キョウスケ」
はだけかけた、汚れたシャツを一瞥し、視線をすぐにニコに戻す。
「・・・ああ」
室内の空気が凍りついた。
―――俺の返事が、聞こえたのか聞こえなかったのか。
「ニコ、そこで何をしている」
地を這うように低い声で、クラウディオが尋ねた。
憤怒を押し殺した、表情の一切見えない顔。
鞭で打たれたかのように、ニコは全身を震わせた。
「あの・・・」
ぎこちなく寝台の脇に降り立ち、窺うような視線を向ける。
「俺の寝台で何をしていたか、聞いている」
抑揚のない声が、重ねて聞いた。
「それが誰か、知らないわけじゃないだろう」
顎でしゃくるようにして、クラウディオは俺を指した。
怒りで凄みを増した美貌が、容赦なくニコを追い詰める。
「キョウスケに、何をした・・・?」
「・・・っ」
ひとつも答えられずに、ニコは唇を噛んで顔を伏せた。
ぴんと張りつめた緊張感。
クラウディオの逆鱗を目の辺りにして、俺は言葉もなかった。



「首領、どうかなさった―――」
開いたままのドアから、ひょいとアンジェロが顔を覗かせた。
ぐらり、と船が揺れる。
「・・・!!」
よろめきかけたアンジェロは、室内の異様な緊迫感に気づいて、さっと表情を曇らせた。
そこに黙って立ちながら、俺たち三人を交互に見やる。
全身から憎悪の炎を立ち上(のぼ)らせているクラウディオ。
射すくめられて動けないニコ。
そして、なすすべもなく息を殺している俺。
・・・それだけで、彼は事情をすべて察したらしかった。
「アンジェロ」
視線は未だ、ニコからはずさないまま。
クラウディオはゆっくりと、左手をアンジェロに差し出した。
その仕草に、アンジェロが血相を変えた。
「首領、それは・・・っ」
絞り出すような懇願。
アンジェロの動揺した表情を見るのは、初めてだった。
突っ立ったままのニコの全身に、悪寒が走るのがわかった。
―――クラウディオは、何をしようとしている?
俺は固唾を呑んで、恐ろしいほどに無表情の恋人を見た。



「・・・アンジェロッ」
今度は少し強い口調で、クラウディオが呼んだ。
ゆっくりと顔をめぐらせ、躊躇するアンジェロをねめつける。
「・・・っ・・・」
苦しそうに顔を歪め、アンジェロはちらり、とニコに視線を走らせた。
―――それから、のろのろと。
まるでスローモーションのような緩慢さで、腰の剣に手をかけた。
「・・・!!」
優美な鞘に収まった長剣が、するりと抜かれた。
「・・・どうぞ」
アンジェロは慎重に、その柄(つか)をクラウディオに握らせた。
その時になって、俺は初めて、クラウディオが丸腰であることに気がついた。
「・・・クラウディオ!」
彼の意図をようやく察して、俺は寝台から飛び降りた。
「だめだ、クラウディオ!」
先刻からびくりとも動かないクラウディオ。
その太い腕を、俺はがっちりと捉えた。
「・・・キョウスケ」
眉間にわずかに皺を寄せて、恋人が俺をじっと見つめた。
俺の名前を呼ぶ、その冷たい響き。
いつも俺を抱き寄せる優しい腕は、鋼のように硬いまま。
「おまえは何も考えなくていい。下がっていろ、キョウスケ」
「嫌だ・・・っ」
俺は首を振って、クラウディオの瞳をまっすぐ見据えた。
「こんなことくらいで、仲間を手にかける気か?」
しんと静まり返った室内に、俺の声だけが虚しく響いた。
「こんなこと・・・?」
「俺は何も、されてない。こぼれたスープを、彼が拭こうとしただけだ」
「・・・何もされてない、だと?」
ピクリ、と眉を上げて。
クラウディオは憤然と、食い入るように俺を見返した。
「俺はおまえの悲鳴を聞いた。さっき、あれほど怯えた顔をしていたくせに、何もないだと!?」
「・・・それはっ・・・」
燃えるような激情を秘めた瞳に追求されて、俺は言葉に詰まった。
―――俺の記憶が、過剰な拒否反応を呼び起こしたのだと。
それが逆に、ニコを挑発してしまったのだと。
そう説明して、わかってもらえるものなら・・・!
「汚い手でおまえに触れようとした下衆を、なぜ庇おうとする?」
クラウディオの声には、かすかな苛立ちが感じられた。
「・・・庇ってるわけじゃない」
俺はつとめて静かに、そう言った。
どうか頭を冷やしてくれ、そう心で祈りながら。
「俺はまだ何もされていない。―――どうしても罰するなら、他にも方法はあるだろう?」
決して、クラウディオが激怒のために自失しているだけではないのは、わかっていたけれど。
「だめだ、キョウスケ」
断固とした口調で、クラウディオが首を振った。
「おまえが優しいのはわかる」
俺の頬を片手でするりと撫で、宥めるようなやさしい声で俺を悟す。
「だが、船上の綱紀を乱すわけにはいかない。首領の女に手を出したら、どうなるのか―――」
ちらり、とニコを見る眼差しは、ぞっとするほど冷たかった。
「やつも、よく知っているはずだ」
そう言い切ったクラウディオは、もう俺を見なかった。



「下がれ、キョウスケ」
長剣を握ったクラウディオの左手が、すっと弧を描く。
ギシリ、と木の床が軋んだ。
からかうように、帆船がゆらりと揺れる。
「・・・首領っ・・・!」
顔面蒼白のニコが、一歩後ずさるのと。
「だめだ、クラウディオ!!」
耐え切れずに、俺が絶叫するのと。
剣の閃光がきらめくのと、ほぼ同時だった。



「・・・!」
しゃりん、と刃の音がした。
「・・・うぐっ・・・!!」
歯を食いしばったニコが、獣のような呻き声をあげた。
ゆらり、とその長身が傾ぐ。
「ひい・・・っ」
真っ白いシーツに、点々と鮮血が飛び散った。
目を逸らすこともできずに、俺はそれを凝視した。
「ニコ・・・ッ!!」
アンジェロの叫びは、ほとんど上ずった悲鳴に聞こえた。
「・・・んく・・・っ」
片手で、もう一方の腕を抱えるようにしながら。
左右によろめいて、ニコはがっくりと床に膝をついた。
「・・・ニコッ」
「―――キョウスケに触れたのは」
憎悪を滲ませた低い声で、クラウディオが口を開いた。
「その指だろう?」
感情の見えない酷薄なまなざしで、彼は寝台の足元にちらりと視線を落とした。
―――そこに、何があるのか。
考えたくなくて、俺はぎゅっと身体を強張らせた。
「も、申し訳・・・っ」
ニコはうな垂れ、掠れた声で謝罪の言葉を口にした。
「・・・他にも、あるのか」
唸るような問いかけ。
「次はどこを、そぎ落としてやろうか・・・?」
憐憫の欠片もない言葉。
ニコに駆け寄ろうとしたアンジェロが、その場で立ち竦んだ。
「言ってみろ、ニコ」
うっすらと微笑すら浮かべて、クラウディオが一歩近づいた。
「ひ・・・っ」
今度こそ全身をぶるぶると震わせて、ニコが必死で首を振った。
ぎこちなく身体を折り、額を床に擦りつける。
「どうぞ、お許しを・・・っ」
哀れなニコの悲鳴を、クラウディオは黙殺した。
じわりと、手負いの獲物を追いつめるように。
彼はもう一歩、恐怖で動けないニコに近づいた―――。



「・・・クラウディオ!」
それ以上はもう、見るに耐えずに。
俺は後ろから、全身でクラウディオに抱きついた。
「もう、いいだろう・・・っ」
羽交い絞めにする要領で、彼の背中に額を擦りつける。
「キョウスケ・・・?」
ふとその声に、かすかな戸惑いを滲ませて。
クラウディオはゆっくりと、深呼吸した。
「・・・頼む。頼むから、クラウディオ」
暖かい大きな背中に、俺は必死で語りかけた。
「もう、やめてくれ。俺はこんなことを、望んではいない・・・」
逞しい恋人の腕を、俺は満身の力で抱き寄せた。
―――諦めたように、全身の緊張を解いて。
「・・・放せ、キョウスケ」
静かに、クラウディオが言った。
「ほら、キョウスケ。わかったから、放せ―――」
ぐずる子供を宥めるような、甘いトーンで俺を呼ぶ。
俺はそろそろと、彼を抱きしめる力を抜いた。
するりとクラウディオが身体を反転させて、至近距離で俺を見つめた。
「たいがいおまえは、甘すぎる」
ぐい、と俺を抱き寄せながら、クラウディオは小さく苦笑した。
自分自身の甘さを呪う、そんな表情だった。
「・・・アンジェロ」
左手に握ったままの剣を、ゆっくりと側近に差し出す。
それに気づいたアンジェロが、恭しく首領の長剣を受け取った。
―――刃先には、濡れた赤。
目眩がしそうで、俺はそっと目を閉じた。
「アンジェロ」
クラウディオに抱かれたまま、俺は彼の側近に呼びかけた。
「・・・エレナ姫?」
「ニコを連れて下がれ。・・・早く、手当てを」
アンジェロは黙って頷いた。
俺の出した命令に、クラウディオは何も言わなかった。





2 December 2006
藤乃めい(ましゅまろんどん)




2013年1月24日、サイト引越により新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。