「こんにちは。」
「おう、今日は早いんだな。」
ある大手企業の、化学品研究所。
広い敷地内に、三階建ての白い建物がいくつか点在している。
ある日の夜七時頃、ここで警備員のアルバイトをしてる香藤洋二が、表から見れば病院とも見紛うその建物のうちの一棟の、通用口に面した保安室のドアを開けて入ってきた。
先輩警備員と軽口を叩きながら、バッグを肩に担いで保安室の奥のドアを開け、着替えに向った。
「まだ退所してないのが、何人かいるから。わかっちゃいるだろうけど、表玄関閉めてあるから、保安室横から出てくれって言っておいてくれよ。」
茶色の長めの髪を首の後ろで、一纏めにゴムで結びながら、香藤が答えた。
「了解です。じゃ、見回り行って来ます。」





警備員の制服を着て、片手に大きなサーチライトつきの懐中電灯を持ち、香藤は広い研究棟内の廊下を歩き始めた。
一定時間おきに無機質なドアを開け、真っ暗な室内をライトで照らし、再びドアを閉める。
それを、一階から三階まで行い、屋上を点検する。
交代で仮眠を取り、明け方まで保安室で待機。
アルバイトを始めて間もない香藤は、退屈、と言えば退屈だが、割のいい仕事に就けたことを、内心喜んでいた。
ある一室のドアを閉めて、香藤はふと耳を欹て、廊下の奥へ視線を向けた。
男の話し声がする。
廊下の奥は、丸く袋小路のようになっていて、飲み物などの自動販売機が置かれ、喫煙所が設けられていた。
暗闇の先の、その販売機の煌々とした灯りの中に、男のシルエットが見えた。
用心しながらそっと近付いていくと、男が携帯電話をかけていた。
「だから、そんなことは、わかってるって言ってるだろう?」
背中越しのその男の声は、ひどく苛立っているように聞こえた。
一体誰なんだろうと、香藤は首をかしげてその背中を眺めた。
白衣を着ているところを見ると、ここの研究員には違いない。
男は、白衣のポケットに片手を突っ込んだまま、天井を見上げるように後頭部を動かした。
「製品の質を上げるために、必要な実験をしてるんだ!その為に、費用が嵩むのは仕方ないだろう?!いい加減にしてくれよ。・・・わかったよ、明日、俺が直接購買部に行く。それでいいな?」
男が、溜息をつきながら携帯電話を切った。
「まったく、わかっちゃいない・・・。」
「あの・・・。」
香藤の声に、男はびくっとして振り返った。
「あ、ごめんなさい。驚かせるつもりは・・・。」
「ああ、びっくりした。警備員さんか。」
そう言って、男はにこり、と笑った。
それは、時折、見回り中に見かけていた男だった。
香藤は、帽子を取ってぺこり、と頭を下げた。
「どなたかと思って。声が聞こえたので。」
「ああ、そうか。就業時間はとっくに過ぎてるからね。」
男は、ふ、と自動販売機に目を向け、少しそれを眺め、徐に白衣の前をはだけてズボンのポケットに手を突っ込んだ。
小銭を取り出して入れると、香藤に顔を向けた。
「なにがいい?」
「え?」
「どれがいいのかな、と思って。」
香藤はきょとんとして男を見返した。
「奢るよ。って言うか、付き合ってくれるかな?」
「休憩の、ですか?」
香藤がそう答えると、男は銀縁眼鏡の奥の瞳を細めて、ちょっとはにかんだように笑って頷いた。
「じゃ、コーヒー下さい。」
「了解。」
男はコーヒーのボタンを押し、取出し口から缶を出すと香藤に差し出した。
自分の分を買い、壁際に設けられた椅子に腰を下ろした。
「座らないか?それとも、仕事中にまずいかな?」
「いえ、ちょっとなら。それに俺も休憩したかったし。」
隣に座りながら、香藤は缶のプルトップを引き上げた。
「今日も、残業ですか?」
「うん。え、今日も、って?」
「時々、見回り中に会ってます。」
「あ、そうなんだ。ごめん、覚えてない。」
香藤は笑って首を振ると、首を傾げるように見返した。
「俺、香藤洋二っていいます。」
そう言いながら、胸につけた身分証明書をつまんで見せた。
「あ、そうなんだ。俺は、岩城京介。」
そう言って、岩城も胸につけたIDカードを、香藤に見えるように示した。
「大変なんですよね、研究って・・・。」
「そうだな、興味あるの?」
「そりゃ、ここって、すごい化学品の会社だし。」
「香藤君は、アルバイト?」
「はい、そうです。」
香藤は、じっと岩城を見つめていた。
知っている男ではあったが、まともに顔を見たのはこれが初めてのことだった。
「岩城さんて・・・。」
「え?」
「綺麗な顔してるんですね。」
ぶ、と岩城が缶コーヒーを喉につまらせた。
「な、なにを言ってるんだ。大人をからかうもんじゃないよ。」
げほげほと咳き込む岩城に、香藤は慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい、からかったわけじゃないです。」
「え?じゃ、なんで?」
「だって、ほんとに綺麗だから・・・。」
「男が綺麗って言われてもね。」
岩城がそう言って笑った。
香藤も、それに釣られてにっこりとした。
「じゃ、俺はそろそろ戻るよ。付き合ってくれてありがとう。」
「俺も、パトロールしないと怒られますね。」
二人は立ち上がり、岩城はにこっと笑って頷いた。
廊下を行く彼の後姿を見ながら、香藤は手の中の缶に視線を落として微笑んだ。





それから何度か、香藤は残業中の岩城に出会った。
巡回中に研究室のドアを開けると、そこに岩城がいたり、缶コーヒーを飲みながら話をしたり。
打ち解けて話をするようになると、仕事を終えた岩城が保安室に顔を出すようになった。
それは、先輩警備員の芝沼をかなり驚かせた。
「すごいな、お前。あの人と知り合いだったんだ?」
「あの人って?」
「岩城さんだよ。」
首を傾げる香藤に、芝沼が驚いて尋ねた。
「知らないのか?あの人は、ここの主任なんだよ?」
「え・・・?」
「何しろ、T大の大学院で博士号取って、政府の奨学金でアメリカの大学院に留学してたって人だよ?なのに、まったく偉ぶってもいないし、俺達にも敬語で話してくれるから、知らないやつもいるけど。」
「そうなんですか。知らなかった。」
目を剥いて驚く香藤に、芝沼はにこにこして頷いた。
「いい人だよな。なんか、エリートらしくないって言うか、ぽよよん、ってしてるんだ。」
芝沼が嬉しそうにそう言うのを見ながら、香藤はなにやら気分がもやもやとするのに気づいた。
「そうですね。」
そう答えながら、彼から視線を外し、香藤は制帽を被った。
「見回り、行ってきます。」
「おう。頼むぞ。」





「失礼します。」
香藤がノックをしてドアを開けた。
「岩城さん、残業?」
「ああ、香藤か。もうそんな時間なのか。」
「うん。」
香藤が制帽を脱いで小脇に抱えながら、岩城の机に近付いた。
「食事はした?」
「さっき、おにぎりを食べたよ。」
「そんなのばっかりじゃ、身体に悪いんじゃない?」
岩城は肩をすくめながら、笑った。
「仕方ないさ。食べに行く時間もないしね。」
「そっか・・・。」
香藤は少しの間岩城を見つめていたが、にこっと笑うと制帽を被った。
「じゃ、俺見回り続けるから。」
「ああ、ご苦労様。」
廊下へ出て、香藤は岩城の少し痩せたような頬を思い出していた。
「連日残業で、おにぎりじゃ、いつか倒れちゃうよな。」





「はい、岩城さん。」
見回りをして、岩城の部屋に来た香藤は、いきなり彼の机の上に、ぽんと包みを置いた。
「なんだ、これは?」
バンダナに包まれたそれを、岩城はきょとんとして見つめた。
「お弁当。」
「は?」
見上げた香藤の顔が、悪戯そうに笑っていた。
「弁当、って・・・。」
「おにぎりだけじゃ身体に悪いよ、岩城さん。」
「・・・お前が作ったのか?」
その弁当の包みと香藤の顔を交互に見る岩城に、香藤は声を上げて笑った。
「そうだよ?今、おにぎりのほうがまだましだ、とか思ったでしょ?」
「そんなことないよ!そういうつもりじゃなくて。」
「うん。わかってるよ。」
すこし躊躇しながら、岩城はその弁当を両手で包んだ。
「すまん、香藤。ありがとう。」
はにかみながら礼を言う岩城の、思いがけない嬉しそうな顔に、香藤も顔を綻ばせて首を振った。
「いいよ。気にしないで。」
「独りだと、こういうとこまで気が回らないんだ。助かる。」
「え?」
香藤は、その言葉に岩城の顔を見返した。
「あれ?岩城さん、結婚・・・。」
「してないよ。」
「なんで?岩城さんみたいな人だったら、女の人がほっとかないでしょ?」
「そんなことないさ。」
岩城が声を上げて笑った。
「仕事ばっかりしてきたから、気の利いたことも言えないし、デートだって出来ない。そんな男なんて、もてないよ。香藤みたいに格好良かったら、違ってただろうけどね。」
「なに言ってんの?」
「え?」
「岩城さん、自分のこと全然わかってないんだ・・・。」
「え?なに?」
小さく呟いた声は、岩城には聞き取り辛かったようで、見上げる岩城に、香藤は微笑んで首を振った。
そんな香藤の心境を知らず、岩城はにっこりと笑いかけた。
「俺、見回り行ってくるよ。」
「うん、ご苦労様。」
ざわざわと心が騒ぐのを感じながら、香藤は岩城の顔を見つめた。




「こんばんは。」
岩城が保安室の小窓から顔を覗かせた。
「あ、岩城さん、帰るの?」
「ああ、とりあえず、だけどね。」
香藤がドアを開けて岩城を保安室の中へ招き入れた。
「これ、ありがとう。」
岩城がバンダナの包みを差し出した。
「美味かったよ。」
「ほんと?良かった。」
「なんだい、そりゃ?」
芝沼のが首をかしげて見つめると、岩城がにこにことしながら頷いた。
「香藤が弁当を作ってきてくれたんだ。」
「へ〜!お前、俺にそんなことしてくれたこと、ないじゃないか?」
「あっ、あのっ・・・その・・・。」
芝沼はけらけらと笑いながら、慌てる香藤の背を叩いた。
「冗談だって。お前、心配してたもんな、岩城主任のこと。」
「え?そうなんですか?」
「ろくなもの食ってない、って。」
照れて、笑いながら顔を向ける岩城に、香藤は肩をすくめた。
「だって、コンビニのおにぎりとか、パンとか、そんなのしか食べてないみたいだし。」
「うん。いつも、たいていそうだ。」
「それじゃ、栄養偏るし、身体に悪いじゃない。」
「ありがとう。」
にっこりと笑う岩城の、その笑顔にうっかり見とれている自分に気付いて、香藤の心臓がどきり、と跳ねた。
「じゃ、俺はそろそろ帰るよ。」
「うん、気をつけてね。」
岩城が門を出て行くのを、香藤は保安室のドアを開けて見送った。
戻ってきた香藤に、芝沼がにやにやと笑いかけた。
「お前、岩城主任に、ほの字なのか?」
「へっ?!」
「隠すな。顔に書いてあるぞ。」
「いやっ・・・そっ・・・。」
「いいけど、俺は男同士でも気にしないし。でもなー。」
「なっ、なに?」
芝沼が腕を組んで、大げさに眉を寄せた。
「あの人のこと狙ってるの、他にもいるからな。」
「はい〜?」
「あれ?知らないのか?所内の人間だけじゃなくってさ。取引先の中にもいるらしいぞ。所員連中が話してたよ。」
ぽんぽんと肩を叩かれて、香藤は思わず彼の腕を掴んだ。
「それ、マジ?」
「なにが?」
「狙われてるっての。」
「見りゃわかるだろ?岩城主任、すっごい純で、美人だからな。」
「あー・・・。」
香藤の呆然とした顔に、芝沼はぶっ、と吹き出した。
「ライバル多し、だな。ま、がんばれよ。」





2007年5月3日



2013年12月09日、アップロード。
言わずと知れた、『ぽよよん岩城さん』です。弓さんのサイト 【Lovesymbol】 掲載の人気シリーズを、ここに再掲載。オリジナル・ストーリー(第四話まで)を弓さんが、その後をわたしが・・・という変則的な合作ですが、作風の違いも含めて、たのしんでいただければ幸いです。