とある木曜日、午後六時すぎ。
某大手化学薬品メーカーの総合研究所。
西側第一棟の正面エントランス前を、岩城京介はあたふたと駆け抜けた。
「お先に!」
案内カウンターの受付嬢が目を丸くして、その長身の後ろ姿を見送った。
「お疲れさま・・・って、あらら?」
重そうな書類カバンを抱え、背広の裾を翻して。
バイオケミカル事業部の名物主任が、小走りに去っていく。
「まさか、あれ、岩城主任!?」
彼女は目をぱちくりさせて、同僚に声をかけた。
「うっそぉ・・・?」
二人は慌てて、壁のデジタル時計に視線を走らせる。
「こんな早い時間に退社なんて、珍しいんじゃない?」
「何があったのかしらね?」
彼女たちは首を傾げた。





「間に合わないか・・・?」
岩城は顔をしかめて、正門の前でタクシーを拾った。
「駅まで、大至急お願いします!」
息を切らせてそう言うと、シートに深く身体をうずめた。
駅への一本道は、どうも渋滞気味。
こういうときに限って、いちいち赤信号に引っかかる。
手慰みに、岩城はフレームレスの眼鏡をとってごしごしと拭いた。
「また、遅刻だな」
香藤、ごめん。
小さくそう呟いて、岩城はため息をついた。





岩城京介、37歳。
バイオケミストリーのとある分野では、世界屈指の研究者。
T大大学院時代には最年少で博士号を取って、学界で話題になった。
公費で留学した後、国立病院付属の研究機関に勤務。
数年前、この研究所に鳴り物入りで転職してきた。
まさに、エリート中のエリートである。
錚々たるキャリアに加えて、はっとするほどの美貌の持ち主。
だが当の本人は、そうしたことに無頓着だった。
ファンを自認する社員も多いが、岩城はそれすら知らないだろう。
独身の岩城をめぐる恋のさやあては、これまで数知れず。
すべて、本人のあずかり知らぬことだったが。





「ここで、いいですから」
帰宅ラッシュ時の駅はざわめきに満ちていた。
岩城はタクシーを降りて、足早に改札口脇の書店に向かった。
人ごみと喧騒を掻き分け、すり抜け、目指す相手を必死で探す。
―――香藤は、どこに・・・?
待ち合わせの時間はとうに過ぎていた。
「岩城さん!!」
岩城が焦り始めた途端、その声は降って来た。
「香藤!」
見慣れた眩しい笑顔が近づいてくる。
岩城はほっとして、ようやく足を止めた。
「すまん、遅くなって・・・」
「いいよ、全然」
にっこりと微笑する若い男。
銀ラメを織り込んだシャツに、ヒップハングの黒デニムを穿いている。
長身をことさら強調する、編み上げのへヴィデューティー・ブーツ。
明るい栗色の髪を後ろにまとめて、耳にはピアスが幾つか。
その華やかな存在感に、周囲の視線が集中した。
「そんなに待ってないから、気にしないで」
岩城もまた、そんな彼を陶然と見上げた。
「でも先週も、遅刻したのに・・・」
「いいってば。ほら、汗かいてる」
香藤は尻のポケットから、赤いバンダナを取り出した。
「慌てて、走って来たんでしょう」
嬉しそうに笑いながら、岩城の額の汗をそっと拭う。
甘い囁きに、岩城は照れて俯いた。
「いいから、香藤」
そろそろと腕をあげ、香藤の手首を捉える。
「人前で、こんなこと・・・」
「だって岩城さん、可愛いんだもん」
「可愛いって言うな」
岩城が口を尖らせた。
「嬉しいよ、岩城さん」
「何がだ?」
「仕事、忙しいのに。一生懸命、来てくれたんだよね」
とろけそうな笑顔で、香藤が岩城を見つめる。
「二度目のデート、だもんね」
「デ、デート!?」
「あれ、違うの?」
ひょいと眉毛をあげて、香藤が聞き返した。
「俺に早く、会いたかったでしょ?」
眼差しの甘さに気づいて、岩城はもじもじと俯いた。
「・・・ば、馬鹿・・・」
あはは、と高らかに笑って。
香藤はするりと、岩城の書類カバンを引き取った。
「じゃ、行こっか」
無敵のにっこりに、岩城は言葉もなく頷いた。



+++++



香藤洋二、22歳。
都内の大学で電気工学を専攻する大学生。
岩城の勤める化学品研究所で、警備員のアルバイトをしている。
夕刻から早朝までのシフトが、週に三回。
残業の多い岩城とは、自然と顔なじみになった。
休憩のついでにぽつぽつと言葉を交わすうちに、徐々に距離が縮まっていった。
つまりは相性がよかったのだろう。
そのうちお互いに打ち解けて、歳の離れた友人のようなつきあいになった。





岩城にとっては、香藤のすべてが新鮮な刺激だった。
派手な外見とは裏腹の、真面目でやさしい性格。
岩城の健康を気遣う、思いがけない細やかさ。
香藤はいつも心地よいぬくもりを与えてくれた。
まったくの異世界。
だけど、違和感は覚えない。
知らず知らず、岩城は、香藤の笑顔を好ましく思うようになった。
―――そして、香藤も。
いつのまにか強く、激しく、岩城に惹かれていった。
奇跡のような純情と、目を奪うほどの美貌。
はるか目上であるはずなのに、岩城にはどこか手を貸したくなる危うさがあった。
それを香藤は、可愛い、と思った。
胸に抱いて、大事に守ってやりたくなる。
キスしたい。
抱きしめたい。
身体を繋げたい。
そこまで思い至って、香藤は岩城への恋情を自覚した。
迷いがまったくなかった、とは言わない。
そんな馬鹿な、と自問自答してもみた。
だが、すべて無駄な抵抗だった。
香藤は心の欲するままに、まっすぐに岩城だけを見つめるようになった。
誰かを愛おしく思うのは、理屈ではないから―――。



+++++



「そうだなあ・・・」
某高級デパートの三階。
メンズ・カジュアルファッションのフロアの一角で、香藤が足を止めた。
アップビートの音楽が流れる、ショッピングモール風のスペース。
後ろをついて来た岩城は、きょろきょろと周囲を見渡した。
「こんな場所があったんだな」
いつも来ている店なのに、と小さく呟く。
「服はいつもここで買うって言ったのは、岩城さんだよ?」
「そうだけど」
「ああ、そっか」
岩城のためらいを読み取って、香藤はにっこり笑った。
「スーツとかワイシャツは、フロアが違うもんね。このフロアには来たことないんだ?」
「・・・うん」
こんな若者向けの服装には、縁がないから。
そう言おうとして、岩城はあわてて言葉を呑み込んだ。
―――香藤との年齢差は、身に沁みている。
わざわざここで、強調することはない。
「じゃあ、見てみよっか」
香藤はいそいそと、カラフルな服を物色し始めた。
水を得た魚のように、ディスプレイ棚をすいすいとチェックしていく。
「これはどうかな?」
「うん?」
「うーん。お洒落だけど、岩城さんのカラーじゃないかもね」
「・・・そうかな」
「こっちのほうが、いいか・・・」
真剣そのものの表情で、香藤がうなる。
どう反応していいか分からずに、岩城は黙って頷いた。





まず一緒にショッピングして、それから食事。
美味しいものを食べてから、一緒に帰ろうね。
ちゃんと家まで送るから、岩城さんは心配しないでいいよ。





楽しそうにそう提案したのは、もちろん香藤だ。
―――俺なんかと一緒にいて、楽しいんだろうか。
あらためて、岩城は思う。
遊びに疎い岩城には、なにしろ否も応もなかった。
若い恋人に導かれるままに、後をついていくだけ。
香藤の隣りで、岩城はドキドキしながら周囲を見渡した。
―――他人には、自分たちはどう見えているのだろう?
友人同士には見えないと思う。
親子や兄弟にも、間違えられることはないだろう。
しいて言えば同僚・・・かもしれないが、それも、あり得ないような気がした。
―――つきあってる、だなんて。
そう考えるだけで、岩城は逆上せそうになる。
自分自身ですら、ろくすっぽ信じられないのだから。
他人にわかるはずはないと思う。
思うくせに、落ち着かない。
今までほとんど、研究所でしか香藤と顔を合わせることがなかった。
だから、特に考えたことすらなかったが。
―――香藤は目立つ。
若く華やかな香藤は、とにかく目を引いた。
まるで芸能人のように、どこにいても注目の的だ。
男性も女性も、彼の眩しい笑顔に釘づけになる。
特に若い女の子は、香藤への憧憬を隠さない。
・・・隣りにいる岩城への、訝しげな視線も。
だから、一緒に外出するたびに、岩城は周りの視線を意識した。
気にしすぎだと、香藤は鷹揚に笑い飛ばすが。
人目に慣れない岩城にとっては、それは大問題だった。
店員の曖昧な笑顔が気になって、香藤との会話に集中できない。





「・・・ねえ、岩城さんってば!」
肩を掴まれて、岩城は飛び上がった。
「ご、ごめん!」
「なに、びっくりしてるの」
可笑しそうに、香藤が岩城の顔を覗き込む。
「上の空だよ、岩城さん」
「い、いや・・・っ」
「仕事、気になることでもあるの?」
気遣われて、岩城はふるふると首を振った。
―――香藤はやさしい。
時々いたたまれないほどにやさしくて、岩城は胸がいっぱいになる。
「違うんだ、香藤。・・・すまん」
「無理してない、岩城さん?」
「してないよ」
「なら、いいけど」
ふわりと微笑して、香藤は手にしたシャツを幾つか見せた。
「こういうの、どうかな」
綺麗な発色のポロシャツ。
涼しげなブルー系ストライプのコットンシャツ。
シンプルなデザインの、すっきり上品なものばかり。
「え・・・?」
意外そうな岩城の顔に、香藤のほうが首を傾げた。
「もしかして気に入らない?」
「え?」
「どっちも、岩城さんに似合うと思うけど」
「そ、そうじゃなくて・・・っ」
しどろもどろになった岩城に、香藤はウィンクを飛ばした。
「あー、わかった!」
「うん?」
「俺が着てるみたいな服、岩城さんに勧めると思ってた?」
「・・・!!」
岩城は目を丸くして、いたずらっ子みたいな顔の香藤を見返した。
「ど、どうしてっ・・・」
言いかけて、はっとして言葉を飲み込む。
「あははー!」
真っ赤になった岩城の顔を見て、香藤が笑い転げた。
「可愛いね、岩城さん!」
「・・・笑いすぎだ、おまえ」
「だって・・・!」
大笑いの拍子に、香藤の髪がほどけて揺れた。
さらりと一筋、栗色の髪が額にふりこぼれる。
身体を起こしながら、香藤が無造作にそれをかきあげた。
―――その一連の仕草が、あまりに決まっていて。
岩城は呆けたように、恋人に見入った。
「・・・岩城さんってば」
ふと眉をひそめて、香藤が囁いた。
「そんな顔して見ないでよ」
「・・・え!?」
「俺のことカッコいいって、いま思ったでしょ?」
苦笑しながら、香藤はそっと岩城の背中を撫でた。
「バ、バカ・・・ッ」
「ダメだよ、外でそんな可愛い顔しちゃ」
したたるような甘いささやき。
頬が一気に紅潮するのを感じて、岩城は俯いた。
「この場で俺、岩城さんを押し倒したくなっちゃうからね」
「香藤・・・!」
驚いて顔をあげた岩城に、香藤はにっこり笑った。
「そ、そんな・・・っ」
「困った顔も可愛いな」
真っ直ぐに岩城だけを見つめて、香藤が微笑む。
なぜだか胸が苦しくなって、岩城はそっと顔を逸らせた。
周囲の視線とか、思惑とか。
―――もう、どうでもよくなっていた。




藤乃めい
24 July 2007



2013年12月09日、サイト引越にともない新URLに再掲載。初稿を若干手直ししています。
そういえば、もともとは弓ちゃんのお化けサイト『Lovesymbol』の20万ヒット記念として書いたのでした・・・いつの話や(笑)。
ところでこのシリーズ、書き始めたのが2007年だというのに、なぜか「2009年の小説」に分類されています(汗)。うむむ。