「無理してない、岩城さん?」
「え?」
きょとんとした眼差しで、岩城は香藤を見上げた。
レジで手渡された洒落た紙バッグの中には、香藤の見立てた服が何枚か。
岩城はそれを宝物のように押し頂いた。
「なんでそう思うんだ?」
「だって岩城さん、全部買っちゃうんだもん」
ほんの少しだけ申し訳なさそうに、香藤が笑った。
「どれか一枚でも、気に入ってくれればいいなって思ったけど」
「・・・嫌だったら買わないぞ?」
「うん、それはわかるよ。気に入ってくれたのは嬉しいんだ」
「なら・・・」
「でもまさか、みんな買っちゃうなんて―――」
けっこう高いのに、と香藤が続ける。
―――ああ、そうか。
「気にしなくていい」
ゆっくり首を横に振って、岩城は微笑した。
―――安かった、とは言わないが。
岩城にとって、それは痛いというほどの出費ではなかった。
まだ学生の香藤とは、どうしても金銭感覚が違う。
「いいんだ、本当に」
「そう?」
「ああ。・・・それに」
かすかに頬を染めて、岩城は続けた。
「おまえが選んだものは、全部欲しかったんだ」
―――香藤が自分のために何かしてくれる。
それだけで岩城は、夢のように幸せだった。
面映くて、でも胸が躍るほど嬉しくて。
香藤の気持ちに応えるためなら、岩城は何でもするだろう。
「岩城さん・・・っ」
小さくの彼の名前を呼んで、香藤は天を仰いだ。
「自覚がないのは、わかるけど!」
「は?」
「勘弁してよー・・・」
香藤の微苦笑に、岩城は小首を傾げた。



+++++



恋愛は苦手だ。
いや、苦手というより、これまであまり縁のないものだった。
岩城にとって、女性の心は永遠の謎だ。
若い女性は特に、立ち入りがたい未知の領域だった。
きれいで脆くて、感情の揺れ幅があまりにも大きくて、果てしなく複雑な存在に見えた。
嫌いなのではない。
だが恋人が欲しいとか、結婚したいとか、本気で考えたことはなかった。
―――いつか嫁さんをもらって、子供ができて。
平凡な家庭を築く日が来るのだろう。
漠然とそう思ってはいたが、それは願望と呼ぶには希薄だった。
今ならわかる。
周囲の人間がそうしているから、自分もそうなるのだろうと。
それが「普通」なのだと、なんとなく思い込んでいた。




学生時代、ゼミの後輩に告白されたことがある。
長い髪を後ろでまとめた、可愛らしい女性だった。
しばらくつきあって、同じ研究課題に打ち込み、同じ夢を見た。
岩城はぼんやりと、彼女と結婚するのかもしれない、と思った。
それは悪くない想像だった。
―――少なくても、岩城にとっては。
だがその彼女も、いつしか去って行ってしまった。
なぜ別れなくてはいけないのか、岩城には最後までわからなかった。
女性の涙に狼狽したのは、後にも先にもこの時だけだ。
わずかな心の痛みと、一抹の後悔。
今ではもう、それすらおぼろげな記憶だったけれど。




瓢箪から駒のような出会い。
『好きだよ、岩城さん』
香藤は正面から、まっすぐにそう宣言した。
同性の、それも一回り以上も年若い相手からの、思いもかけない告白。
予測もしなかった事態に、岩城は呆然としたものだ。
―――どうしたらいいのか。
からかわれているだけかもしれない。
でももし、香藤が本気だったら・・・?
考えがまとまらないうちに、キスを奪われた。
肉感的で濡れた、香藤の唇。
くすぐるような舌の動き。
誰かとあんなふうに至近距離で触れ合ったのは、何年ぶりだったのだろう。
パニックを起こして、あとはほとんど覚えていない。




抱きたいと言われて、身体が震えた。
女の子みたいに抱き寄せられて、顔が火照った。
香藤の逞しい体躯に触れるだけで、息が詰まりそうになった。
―――怖い、怖い、怖い。
体験しいたことのない恐怖。
逃げ出したいのに、どこかに隠れてしまいたいのに。
それでも岩城は、暖かい抱擁から逃げなかった。
足が竦んで、逃げられなかったのだ。
でも、今ならわかる。
ただ硬直していたから―――だけではなくて。
自分が信じられない、と繰り返しつつ。
香藤の甘いささやきに、熱い瞳に、陶然とする岩城がいた。
本気で嫌だと思ったことは、一度もなかった。
歯の根が合わないほど震え、緊張していても。
香藤の真摯な言葉だけは、それでも、嘘ではないと思えた。
香藤は常にまっすぐに、全身でぶつかって来たから。
―――この男を失いたくない。
自分の中で何かが目覚めるのを、否定できなかった―――。



+++++



「はい、これ穿いてみて?」
ユーズド加工のデニムと、ルーズフィットのチノパンツ。
試着室の前で手渡されて、岩城はじっと香藤を見つめた。
「岩城さん?」
「あ、いや・・・」
「気に入らない? それとも、疲れちゃったかな」
香藤が、少し心配そうに首をかしげる。
「いや、そうじゃなくて」
「うん?」
「こんなの、俺、穿いたこと・・・」
困って笑う岩城の肩を、香藤はぎゅっと抱き寄せた。
ほんの一瞬だけの抱擁。
「・・・かとっ」
驚いた岩城が、恐る恐る周囲を見渡す。
「もう、たまんないなあ」
身体を離しながら、香藤はため息をついた。
「岩城さん、マジ、可愛すぎ!」
「だから、それはやめろって・・・!」
「はいはい、わかりました」
甘い笑顔で聞き流して、香藤は試着室のカーテンを開けた。
「ほら。きっと似合うから、着てごらん」




「―――か、香藤?」
躊躇いながら、岩城は試着室から顔だけ覗かせた。
「うん、見せて?」
香藤はそそくさと歩み寄って、カーテンを半分ほど開けた。
「・・・!!」
「え?」
香藤が絶句して、その場に立ち尽くした。
「うっわー・・・」
呆けたように、岩城の全身を眺めまわす。
「ど、どうした・・・」
うろたえた岩城が、視線を彷徨わせた途端。
香藤は靴をはいたまま、ズカズカと狭い試着室に飛び込んだ。
「おいっ!?」
「しっ」
仰天した岩城を引き寄せ、後ろ手で乱暴にカーテンを閉める。
「黙ってて、岩城さん・・・!」
声を押し殺した、火を噴くような囁き。
あっという間もなく、岩城の抗議は香藤のキスに飲み込まれた。
「・・・んんっ・・・」
深いキス。
荒々しい抱擁に、岩城の視界がぼうっとかすんだ。
「ん・・・っ」
ふさがれた唇の端から、小さな濡れた息が漏れる。
「な、何・・・っ」
バタバタと岩城はもがいた。
なんとか拘束から逃れると、苦しげな息をついた。
「―――いきなり、なんでっ」
「・・・ごめん」
狭い空間で身体をぴったり寄せ合って、香藤が耳元に囁いた。
鼓動が重なり、吐息が重なる。
「我慢できなかった」
「だから、なんで・・・?」
黒目がちの澄んだ瞳が不安げに揺れた。
香藤は岩城の髪をかきあげて、その額にキスを落とした。
「スタイルがいいのは、知ってたつもりだけど」
「・・・は?」
「ジーンズがこんなに似合うなんて、ホント、反則だよ」
「え?」
岩城はまじまじと、至近距離の香藤を見返した。
恋人の言わんとしていることが理解できず、困って首を傾げる。
「ほら、ここ―――ね」
香藤はそっと腕を伸ばし、岩城の腰を撫で下ろした。
愛おしむように、丸いヒップのラインをゆっくりとなぞる。
「岩城さん、すっごい色っぽい」
「・・・!!」
「こんなの、他の男に見せたくないよ」
香藤の指が、そろりと岩城の背筋を這い上がる。
岩城は息を呑んで、あやしげに動く香藤の手を振り払った。
「バカ・・・ッ」
真っ赤な顔で、ぜいぜいと香藤を睨みつける。
「ごめんごめん」
香藤は肩をすくめて、ぺろりと舌を出した。
それから滲むような笑顔で、岩城の頬を撫でる。
「好きだよ、岩城さん」
「香藤・・・」
今度は、やさしいキス。
―――こんなところで、と思いながら。
それでも岩城は、香藤に抗えない。
香藤の腕の中でじっと大人しく抱かれたまま。
岩城はため息をついて、静かに目を閉じた。



+++++



街灯もまばらな夜の住宅街。
岩城のマンションへの道を、ふたりはゆっくりと歩いた。
当然のように、香藤が岩城の腰に腕を廻す。
誰もいないので、岩城もあえて何も言わない。
―――こういうもの、なんだろうか。
岩城はあらためて思いを巡らせる。
香藤はこうやって、岩城に触れるのがとにかく好きだ。
髪の毛に、頬に、肩に、腰に。
ほんのわずかでも機会があれば、岩城の手を握ろうとする。
最初のうち、岩城はいちいち飛び上がって驚いていた。
『だって恋人同士なんだよ?』
大まじめにそう言われて、その度に言葉に詰まる。
『でも・・・』
『岩城さんは、俺に触りたいと思わないの?』
『・・・!!』
―――わからない。
香藤はむずかしいことばかり聞く。
でも、香藤はとてもやさしい。
香藤は俺の知らないことをたくさん知っている。
だからときどき、香藤はこわい。
香藤は俺を好きだという。
そのたびに、俺は黙って頷く。
香藤は俺を抱く。
俺は香藤に抱かれる。
そのたびに香藤が、いや、俺は―――。




岩城はじっと、自分に寄り添う若い男を見上げた。
「なあに、岩城さん?」
「なんでもない」
とろけるような眼差しに、岩城はどぎまぎと目を逸らした。
「まだ恥ずかしい?」
からかうように、香藤が耳元で訊ねる。
「そ、そんなこと・・・」
岩城が言葉に詰まると、香藤は相好を崩した。
「もう、ホントに可愛いんだから!」
頬にかすめるようなキス。
「・・・!」
岩城は絶句して、香藤を見つめた。




香藤と身体の関係を持って以来、岩城の人生は激変した。
つきあい始めて、二週間。
岩城の心と身体を目いっぱい占領する、たったひとりの人間。
寝ても醒めても、若い恋人の存在が忘れられない。
香藤のことを考えて、考えすぎて、眠れない夜すらある。
今の自分と、香藤と出会うまでの自分。
・・・とても、同じ人間だとは思えない。




―――これまでに三度、セックスをした。
男同士で恋愛するということ自体、岩城の理解を超えていた。
いい悪いの話ではなく、文字通りの想定外。
にもかかわらず、熱い奔流になすすべもなく呑み込まれ、抗うことすら出来ずに一線を越えていた。
呆然自失で目覚めたときには、すべてが終わっていた。
『信じられない・・・』
岩城がなにより驚愕したのは、それが嫌ではなかった、という事実だった。
大人のキスを教えられて、胸が高鳴る自分がいた。
男なのに男に抱かれることも、禁忌だとは思えなかった。
『好きだよ、岩城さん』
そのひと言で、心が解けた。
香藤の望むものなら、何でも与えてやりたい。
彼の熱情を受け止めてやれるのが、嬉しいとすら思う。
今こうやって一緒にいても、とても信じられない。




はじめてのセックスは、まさに怒涛の初体験だった。
性体験の乏しい岩城にとっては、何もかもが未知の領域。
手足をどう動かせばいいのかすら、わからなかった。
恋人の顔を見るのも恥ずかしかった。
『大丈夫だから。怖がらないで』
若い香藤はあくまで優しく、辛抱強かった。
岩城の戸惑いを理解し、決して無理強いはしなかった。
やさしかったと、今は思う。
―――それでも岩城にとっては、一大決心だったのだ。
抱きたい、と熱くささやく香藤に頷いただけで、膝がカクカクと震えた。
まるで女の子のように、大事に大事に触れられて、面映ゆさのあまり目眩がした。
すべてが初めてのことで、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
羞恥と恐怖。
衝撃と疼痛。
体験したことのない高揚感。
何が何だか分からなくなって、怖くて恋人にしがみついた。
香藤の名前を呼びながら、ついていくのに必死だった。
助けて欲しい、と。
自分に痛みと悦びを同時に与えている張本人に懇願した。
―――そうして、いつの間にか。
岩城は恋人の腕の中で気を失っていた。

二度目のセックスは初体験の翌日だった。
日曜日の真昼間から、自堕落に部屋に閉じこもって。
ゆっくり時間をかけて愛され、解され、貪り尽くされて、身も心もとろとろに融けた。
意識が朦朧とするほどの深い快楽。
むせ返るような香藤の汗の匂い。
体液の混ざり合う感覚。
岩城は悶え、全身を震わせてむせび泣いた。
―――世界観が変わるほどの体験。
翌朝、ふつうに出勤できた自分が不思議なくらいだった。

三度目のセックスは、つい先週のことだ。
我慢できない、と囁く香藤に、シャワーを浴びることさえ許されなかった。
嵐のように乱暴な愛撫と、熱い睦言。
後ろからのせわしない挿入に驚き、悲鳴を上げたところまでは覚えている。
ぐちゃぐちゃに愛されて、何度も貫かれて。
あとはもう、まったく記憶がない―――。





藤乃めい
16 August 2007



2013年12月14日、サイト引越にともない新URLに再掲載。当時の原稿をいくらか加筆・修正しています。