+++++




岩城の住むマンション。
ドアの鍵を開けて、岩城は振り返った。
「寄っていくか?」
小さな問いかけに、香藤が首を横に振った。
「ううん。すごく嬉しいけど、やめとくよ」
「なんで・・・?」
「だって、岩城さん」
ほのかに笑って、香藤は岩城の腰を抱き寄せた。
「俺、今こんなだもん」
「・・・!」
押しつけられた香藤の股間。
そこは、布越しにもわかるほど硬く滾っていた。
「ね?」
「・・・かと・・・」
「この状態で部屋にあがったら、俺、確実に岩城さんを押し倒しちゃう。きっと朝まで止まらないよ」
栗色の髪をさらりとかきあげて、香藤が苦笑した。
「岩城さん、あした仕事に行けなくなったら困るでしょ?」
「・・・馬鹿」
かろうじて、岩城はそう呟いた。
―――本当に若い。
そう思ったが、言葉にしなかった。
それからそろそろと、香藤のクロッチに指を這わせる。
ふわりと無意識に。
「なんで、こんなになるんだろうな」
「岩城さん・・・」
今の岩城は、香藤のペニスにあまり恐怖心を感じない。
初めはそれを見るのも触れるのも、怖くてたまらなかった。
香藤の欲求。
その生々しさに、うろたえなかったと言ったら嘘になる。
性的なことすべてに、まるで免疫がなかったから。
―――慣れ・・・?
だとしたら、それは香藤のせいだと思う。
キスも抱擁も、それ以上のことも。
何もかも香藤に教えられた。
岩城は少しずつ、そういうつき合いを覚えつつある。
―――それでも。
香藤がこれほどまでに自分を欲しているのが、不思議だった。
「ダメだって、岩城さん」
香藤は笑って岩城の手を引き剥がした。
「そういうの、誘ってるのと同じだって言ったでしょ」
「・・・うん」
「触りたいと思ってくれるのは、嬉しいけどね」
「ばっ・・・」
「それとも俺に、送り狼になって欲しいの?」
ウィンクつきでそう囁かれて、岩城はぷるぷると首を振った。
「こわい?」
「・・・少し」
「俺のこと、好きなのに?」
「・・・うん」
「じゃあ、お触りはナシ」
「かとう―――」
「心配しなくても、これはなくならないから」
「なに、言ってんだ」
香藤の軽口に岩城もほんわりと笑った。
静かにドアを開けて、半身を室内にすべり込ませる。
帰ると言ったはずの香藤も、後から続いた。
冷えきった、薄暗い玄関先。
狭い空間で、もう一度ゆるりと、香藤は岩城を抱き寄せた。
「土曜日には、たっぷりあげるから」
「あ・・・」
首筋に、熱い吐息。
「それまで我慢して」
耳元でささやかれて、岩城はぞくりと首をすくめた。
「香藤―――」
「ねえ、岩城さん」
部屋の電気をつけた岩城の肩越しに、香藤が低く呼んだ。
「なんだ」
「キスしてくれる?」
「・・・え」
玄関先でにっこりと、香藤が微笑した。
岩城がたまらなく魅力的だと思う、眩しい笑顔。
「おやすみのキス、岩城さんからして」
甘えるような響き。
岩城は頬を染めて、香藤を見返した。
ぎゅっと唇を噛んでから、そろそろと顔を近づける。
「・・・目を、閉じろ」
躊躇いがちにそう言うと、香藤がくすりと笑って頷いた。
「はい。これでいい?」
岩城は少し背伸びをして、香藤の肩に両手を乗せる。
呼吸が近い。
おそるおそる、岩城は香藤にキスをした。
教えられたとおりに、ゆっくりと唇を押しつける。
「ん・・・」
香藤がうっすらと唇を開けた。
吸い込まれるように、岩城はその咥内に舌を差し入れる。
思いがけない深いキス。
「・・・ふっ・・・」
温かい舌に舌を絡める。
たどたどしく、口腔内の感触を確かめる。
「んんっ」
息苦しくなって、岩城はそっと口を離した。
「上手だね、岩城さん」
濡れた唇を手の甲で拭いながら、香藤が微笑した。
「バカ」
嬉しそうな恋人の表情。
その反応に照れて、岩城は俯いた。
「・・・おやすみなさい、岩城さん」
とろけそうに甘い声。
香藤はドアノブに手をかけて、にっこり笑った。
「明日また、オフィスでね」
「ああ」
明日の夕方には、再び香藤に会える。
週末はきっと、また一緒に過ごすのだろう。
「おやすみ、香藤」
途方もなく満ち足りた気分で、岩城はそっと返事をした。




+++++




とある金曜日、午前八時すぎ。
某大手化学薬品メーカーの総合研究所。
西側第一棟の三階には、総務部と資材管理部があった。




「おはよー」
「おはよう、早いね」
開け放たれた給湯室のドア越しに、明るい声が響いた。
紺色の制服姿の女子社員が数人。
「今コーヒー、淹れますよぉ」
湯沸しポットに水を入れながら、若い女性が振り返った。
「あ、ありがとー」
「片岡部長の分も、よろしくね」
「岩城主任のお茶は・・・まだ早いかな」
壁掛け時計を見ながら、もうひとりの社員が呟いた。
「あ、もう来てたよ?」
「今朝は特別に早かったみたい」
「へえ、珍しいねー」
食器棚からマグカップをいくつか取り出しながら、別の社員が笑った。
「先週も思ったけど、このひと月くらい、変じゃないですか?」
「なにが?」
年若い社員が、声をひそめて続けた。
「岩城主任」
「そう? どのへんが?」
「だって金曜日になると、何だかそわそわしてません?」
「そうだっけ」
「絶対、変ですよー」
「あ、わかるわかる。窓の外、ボーっと見てたりするよね」
「うんうん、そういえばそうかも!」
四人の女性たちは目を輝かせて視線を交わした。
「仕事中にケータイ眺めて、切なげにため息とかついちゃったりしてさぁ」
「えーっ」
「あ、それ私も思った。メールの着信音で飛び上がるよね」
「絶対に、アヤシイと思うんです!」
大真面目な顔つきで、彼女は頷いた。
「そっかあ」
「言われてみれば最近、ご機嫌いいかも・・・」
「単に金曜日だから、じゃないの?」
少し年かさの女性が、たしなめるように言う。
「うーん、違うと思うなー」
「もうじきクリスマスだし・・・」
「ねえ、それってもしかして!?」
別の社員が、思い出したように首を傾げた。
「・・・主任のネクタイ」
「ネクタイ?」
「最近、やたらお洒落ですよね」
「あー!」
「今までの超無難路線と、全然テイストがちがう気がして・・・」
女性たちの声がいっそう低くなった。
「それはやっぱり、そういうこと?」
「誰か、別のひとが選んでるって言いたいの?」
「・・・昨日、定時ダッシュだったよね」
「あんな主任、初めて見た・・・」
「まさか・・・!」
一瞬の沈黙の後。
「―――彼女ができたってこと?」
「やだー!」
「うっそぉ、あのカタブツに限って!?」
「恋人がいるなんて、聞いてないよー!?」
四人はいっせいに叫んで、まじまじと顔を見合わせた。
小さな機械音がして、電子ポットが沸騰を知らせた。




「うわあ、ショックかもー!!」
若い社員が、大げさに頭を抱えて首を振った。
「社内の人間だったら、余計にイヤだぁ・・・!」
「なあに、あなた岩城主任を狙ってたの?」
「狙うとかじゃなくって、」
制服のベストのボタンをいじりながら、別の女性が嘆息した。
「夢見たっていいじゃないですか・・・」
「ふつう、行っちゃうでしょー?」
他の女性も一斉に口をそろえて頷く。
「だって、あの岩城主任ですよ? あわよくばって思わない人なんかいる?」
「そりゃあ、ねー」
「超エリートであの美形で、背が高くって、年収2000万クラスですよぉ?」
「マジメで嘘つかなそうだしね?」
「うんうん、浮気とか絶対に出来ないタイプ」
「わかるわかるー」
「旦那様として、あれ以上の優良物件はちょっとナイ!」
うふふ、と若い女性が笑った。
「おまけにどっか抜けてて、可愛いんですよね」
「可愛いって・・・ずいぶん年上でしょうに」
「そんなの、関係ないですよぉ。守ってあげたいって感じ?」
時計にもう一度目をやって、ひとりが立ち上がった。
「やだ、もう時間じゃない!」
「あの岩城主任がねえ・・・うーん」
悔しそうな呟き。
「レベル高すぎるんで、諦めてたんだけど・・・」
「どこの女よ、攫ってったの!」
ため息をついた若い社員を尻目に、もうひとりが肩をすくめた。
「あーあ、やられたって感じだなあ」
「さて、仕事しごと!」
「はいはい」
湯呑みやマグカップをトレイに並べ、女性たちはわらわらと給湯室を後にした。




+++++




「・・・うわ!」
小さな電子音が響いて、メールの受信を知らせた。
岩城は椅子の上で跳ね上がり、慌てて白衣のポケットを探る。
―――午後五時ちょっと過ぎ。
こんな時間にメールを寄越して来るのは、勿論ひとりしかいない。
近くにいる同僚の気配を伺いながら、岩城はそっと携帯電話を取り出した。

『今着いた。あと一時間くらいしたら巡回に行くね。愛してるよ』

さりげない香藤の言葉を、岩城はまじまじと見つめた。
二度、三度。
そっとメッセージを読み返す。
文末に添えられた顔文字は、浮き立つような笑顔。
それから、ピコピコ点滅する赤いハートマーク。
―――いつ頃からだろう。
香藤はシフトが入っている日、保安室に到着するとメールをくれるようになった。
どう返信をしたらいいのか、何をいえば喜んでもらえるのか。
岩城は今でもよくわからない。
最初はただ戸惑っていたが、いつの間にか香藤のメールを心待ちにする自分に気づいた。

『了解。じゃあ後で』

携帯メールが苦手な岩城の返事は、そっけないひと言。
ほかに何を書けばいいのか、思いつかないのだ。
愛情を形にするのが上手い香藤からすれば、さぞかし物足りないだろう。
それでも、返信を打つ岩城の指が少し震えた。




年下の恋人はとにかくマメだった。
岩城からの、たった一行のメールでも大喜びし、その三倍の長さのメッセージを返してくれる。
あふれるほどの愛を、惜しみなく岩城に注いでくれる。
なぜ、そんなに好いてくれるのか。
いつまで、こんなに優しくしてくれるのだろう。
ときどき岩城はわけもなく不安になる。
―――これは、何かの間違いなんじゃないか。
なぜ、岩城なのか。
男同士で、しかも15も歳が離れているのに。
うっかり相手を間違えているだけだったら・・・?
いや、すべては夢なのかもしれない。
何もかも、あまりに岩城に都合が良すぎる―――。
そう告げると、
『なに言ってるの』
香藤は笑って、岩城をぎゅっと抱きしめてくれる。
―――岩城さんが好きなんだよ。
他の誰かじゃない。
今の岩城さんそのままがいいんだ。
そんな暖かい言葉で岩城を包み込み、安心させてくれる。
―――かなわない。
おそらくこの男は、ものすごくもてるのだろう。
香藤自身は何も言わないが、晩熟(おくて)で鈍い岩城にもそのくらい想像はついた。
これだけ魅力的な男なのだ。
周囲が放っておくわけがない。
豊富な恋愛経験があるらしいというのは、見ていればわかる。
あたりまえだと、そう思う反面。
ツキン、と胸の奥が小さく痛んだ。
なぜ痛いのか、わからない。
―――馬鹿みたいだな。
携帯電話を握りしめて、岩城はそっと苦笑した。





藤乃めい
15 January 2008



2013年12月18日、サイト引越にともない新URLに再掲載。当時の原稿を大幅に加筆・修正しています。