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まぶしい笑顔と、優しい言葉。
はるかに年下だとは、とても思えない包容力。
決して強引ではなく、でも穏やかに岩城の手をとって導く。
さりげなく、いつも岩城の気持ちを考えてくれる。
堂々と岩城をリードする香藤は、正直、かなり頼もしい。
―――香藤洋二。
天から降って来たような極上の幸せ。
思いがけない幸運に、岩城は目を瞠る。
最近ようやく、好きだ、という自覚も芽生えて来た。
雲の上をふわふわと歩くような高揚感。
これが恋なのか。
これが、人を好きになるってことなのか。
恋・・・自分が、恋をするなんて。
岩城には何もかも、初めてのことばかりだった。
何も知らない自分がもどかしく、ときに空恐ろしい。
人とこんなに深く、関わり合ったことがないから。
―――だから、だからこそ。
岩城は香藤を信じて、どこまでもついて行こうと思う。
なにがあっても従おうと思う。
香藤の望むことなら、なんでも叶えてやりたいから。
他には何もできないから。
香藤が喜ぶことが、岩城の幸せだから―――。




「絶対に絶対に、イブの夜は空けておいてよ?」
「・・・え?」
それでも香藤の申し出は、岩城を少なからず驚かせた。
金曜日の七時すぎ。
もうほとんど人の気配のない夜の研究室。
警備員の制服を着た香藤は、いつもと同じ時刻に、いつもと同じ笑顔で岩城の前に現れた。
「岩城さんと一緒に過ごす、初めてのクリスマスだからね」
とろけそうな笑顔が弾ける。
岩城はただ、ぱちくりと見つめ返した。
「イブって・・・」
「クリスマス・イブ。12月24日のことだよ、岩城さん」
「そのくらい知ってる」
口を尖らせて、岩城は香藤を見上げた。
「だけど・・・」
「俺、がんばるからさ」
香藤の顔は、期待に満ちて輝いていた。
「・・・がんばるって?」
「だってエスコートは俺の役目でしょ?」
「・・・」
「夜景の見えるレストランも予約したし、その後のデートも俺、いろいろ計画してるから」
「計画って・・・」
「だって一生忘れられない、とびっきりロマンチックな思い出にしたいじゃない?」
無敵のにっこり。
浮かれている香藤に、岩城はどう返せばいいのかわからない。
「香藤・・・」
「なあに、岩城さん」
「いや、なんでもない」
戸惑う岩城の様子に、香藤は首をかしげた。
「どうしたの?」
「なんでも・・・」
「クリスマスを、誰か特別な人と過ごしたことある?」
「ない、けど」
「あは、よかった! 嬉しいな」
はちきれそうな笑顔で、香藤は岩城の髪の毛を撫でた。
「岩城さんの初めて、俺が全部もらっちゃう」
「でも・・・」
少しだけ眉をひそめた岩城の表情が浮かないことに、香藤はようやく気づいた。
ゆっくりと、愛撫の手が止まる。
「―――岩城さん、どしたの?」
「あの・・・」
「・・・もしかして、イベントとかって嫌い?」
香藤が恐るおそる聞く。
岩城はびっくりしたように首を横に振った。
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
「じゃあ、どうしたの?」
そっと恋人を抱き寄せて、香藤は岩城の眉間にキスを落とした。
かさり、と。
二人の間で白衣が擦れて音を立てる。
「こういうのイヤ?」
香藤の指先が、岩城の背中をゆっくりと伝った。
「え・・・」
「外でデートとかディナーとか。人目、やっぱ気になる?」
「それは・・・」
岩城はそっと苦笑した。
気にならないと言ったら嘘になるが、当面の問題はそこじゃない。
「俺、強引すぎるのかな」
「違う」
香藤の腕の中で、岩城は困ったように笑った。
「ちがうんだ」
「じゃあ」
「だって、平日だろう」
「―――へ?」
岩城は腕を伸ばして、壁掛けのカレンダーを指差した。
「・・・24日は月曜日だぞ」
「うん、それは」
「年内に片付けたい仕事が山ほどある。仕事納めまでもう日がないから、今がいちばん忙しい時期なんだ」
「うん、それは・・・」
ふと香藤が、顔を曇らせた。
「すまない」
「岩城さん・・・」
岩城は申し訳なさそうに続けた。
「でも毎年、この時期は土日も休めない。24日だって何時に出られるか・・・」
言いかけて、岩城ははっと言葉を飲み込んだ。
「・・・そうだね」
「香藤」
「そうだよね」
寂しそうな香藤の微苦笑。
―――傷つけた・・・!?
岩城の心が、ずきりと痛んだ。




「ごめん。本当にごめん」
「香藤・・・」
「俺、岩城さんの都合を考えてなかった」
「ち、ちがう!」
岩城は首を振ると、香藤の厚い胸板に両腕を廻した。
そうやって逞しい身体を、ぎこちなく抱きしめる。
「すまん・・・」
ぽろりと、こぼれた言葉。
恋人の制服の胸におでこをすり寄せて、岩城は必死で謝った。
「香藤、ごめん」
―――さっきまで、とても楽しそうだったのに。
香藤の落胆ぶりに、岩城のほうがせつない気持ちでいっぱいになる。
もう少し考えてから返事をすればよかった。
香藤は、岩城のためにいろいろ計画してくれたのに。
それをあっさりと、自分の都合ばかり優先して断ってしまった。
―――なんて考えなしなんだ、俺は。
どうして香藤の気持ちを汲んでやれなかったのか。
せめて、ありがとうと言えればよかった。
せっかくのクリスマス計画を却下されたのに、それでも香藤は岩城を責めも怒りもしない。
それがいっそういじらしくて、申し訳ない。
「すまん。俺が悪かった」
小さく繰り返して、岩城はそろそろと腕を伸ばした。
「岩城さん・・・?」
ふるえる手のひらで、香藤の顔を包み込む。
やさしい甘い茶色の瞳。
香藤は岩城をまっすぐに見据えていた。
―――愛おしい、という情動に突き動かされて。
岩城はそのまま香藤の頬に唇を寄せた。




ついばむようなキスを、一度、二度。
そんなことを自分からするのは初めてで、岩城は震えていた。
つたない愛情表現。
「好きだ、香藤・・・」
それでも吐息のような告白が、自然にこぼれ落ちた。
好きだ、と。
悲しませたくないのだ、と。
そう言わずにはいられなかった。
「・・・岩城さん!」
息を呑んだ香藤は、次の瞬間、力いっぱい岩城を抱きしめた。
「・・・んっ」
きつい抱擁と、情熱的なくちづけ。
背中を軽く仰け反らせて、岩城はぎゅっと瞳を閉じた。
―――ああ、香藤・・・!
身体の芯を駆け抜ける、官能の予感めいた衝撃。
「・・・ん・・・かとっ・・・」
せわしなく追い上げられて、息が乱れた。
ちょっとの刺激で、すぐに反応してしまう自分が恥ずかしかった。
―――研究室で、こんな・・・!
鼓動が走り出して、止まらない。
「すっごい熱いよ、岩城さんの肌・・・」
火照るうなじに舌を這わせて、香藤が唸るように言った。
まさぐる大きな手。
あっという間に岩城の身体をもみくちゃにする。
白衣の裾が押し広げられ、香藤の指が侵入して来た。
「だ・・・だめっ・・・!」
必死で両腕を突っ張って、岩城は抱擁から逃れた。
「・・・はっ・・・」
「岩城さん・・・っ」
胸をあえがせながら、手の甲で濡れた唇を拭う。
「・・・まだ、仕事中っ・・・なのに」
ほうっと深呼吸をして、香藤が照れ笑いを返した。
「誘ったのは、岩城さんだよ?」
「・・・ばっ」
「あんな風に抱きつかれて、好きだって言われたらさ」
乱れた茶色の髪をかきあげて、香藤はウィンクしてみせた。
「男なら、応えなくちゃって思うって」
「・・・!」
「情熱的だったね、岩城さん」
岩城は憤然として、真っ赤な顔を逸らせた。
「ひとが、マジメに・・・っ」
「うん、わかるよ」
着衣の乱れを直しながら、香藤がにっこり笑った。
額にほんの少しだけ、汗が滲んでいる。
「俺の気持ち、察してくれたんだよね。それだけで十分、嬉しいよ」
さらりと言って、香藤は落ちていた制帽をぽんと頭に乗せた。
「じゃ、巡回、行って来るね」
「香藤・・・」
ドアに手をかけて、香藤はくるりと振り返った。
「無理強いはしないよ。でも―――」
「うん?」
「レストランの予約はそのままにしておく」
やさしい笑顔に、岩城はもじもじと俯いた。
「もし時間ができたらでいいから、一緒に食事して?」
「うん・・・」
すまない、ともう一度。
ためらいがちに繰り返すと、香藤は明るい笑顔を返した。
「いいよ、気にしないで。俺のわがままだから」
「でも・・・」
「いいから。じゃあ、またね」
「香藤・・・」
「もう帰るでしょ、岩城さん。俺、バイト終わったら行くから」
小さな投げキスを残して、香藤は去っていった。




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金曜日の夜。
帰宅後の岩城は忙しい。
スーツを脱いでクリーニングに出す準備をした後、深夜の大掃除が始まるからだ。
―――クリスマス・イブ、かあ。
月曜日の予定は、自分でもまだわからない。
けれど、まずは目先の週末が、岩城にとっては最優先事項だった。
ソファを整え、クッションを並べ直す。
読みさしの本を棚に戻し、出しっぱなしのマグカップを洗う。
テーブルの上をきれいに拭い、キッチンシンクを磨く。
心の中で隣人に詫びながら、せっせと掃除機をかける。
ふだんから小奇麗にしているほうだから、あっという間に済んでしまうのだが。
それでも丁寧に、心をこめて部屋を片づける。




「と、それから―――」
独りごちながら、岩城はパタパタと寝室に入った。
シーツと枕カバーを剥がして、洗い立てのリネンと取り替える。
真っ白なシーツをそっと整える。
ふと、手が止まった。
週に一度の、秘め事の支度。
実際、恥ずかしいなんてものじゃない。
いたたまれなくて、作業の途中で逃げ出したくなるほど。
―――香藤が来る。
恋人とすごす週末。
この寝室に誰かが入ってくるのが、あたりまえになるなんて。
今でも、自分でも信じられない。
おまけにうっかり香藤の裸体を思い出して、岩城は赤面した。
香藤の熱い肌。
押し殺した吐息。
ベッドで囁かれる甘い睦言。
若い恋人の情熱的なセックス。
めくるめく記憶に逆上せそうになって、岩城はぶんぶんと首を振った。
―――何を考えてるんだ、俺は・・・!
ベッドメイクもそこそこに、岩城は寝室を飛び出した。




シャワーを浴びるついでに、風呂場も念入りに磨いた。
香藤の置いていったボディソープ。
ちょっと甘い香りのする入浴剤。
ここにもいつの間にか、香藤は馴染んでいる。
「ふう・・・」
風呂あがり、パジャマ姿で岩城はソファに沈み込んだ。
心地よい疲労感。
かすかな緊張感。
身体は休息を求めているのに、神経は昂ぶったままだ。
そして常に、香藤の存在を感じている。
まもなく始まる恋人との逢瀬。
ときめきながら、それが怖くもあって―――。
「・・・香藤・・・」
囁いた自分の声の甘さに、岩城はぞくりと全身を震わせた。




香藤のシフトが明けるのが、午前五時。
まだ薄暗い住宅街を走り抜けて、香藤はここにやってくる。
先週も、先々週も、その前もそうだった。
夜勤明けの疲れなど、彼には関係ないようだった。
眩しい笑顔で、まっすぐに岩城の腕の中に飛び込んでくる。
「かと・・・」
かすれ声で、岩城は恋人の名前を繰り返した。
とろり、とわずかに眠気が混じる。
―――眠ってしまいそうだ。
ここでうたた寝をしたら、香藤に怒られるだろうか?
『寝るならちゃんと、ベッドでね』
先週、そう言われたばかりだ。
香藤はまるで、聞きわけのない子供をなだめる親のようなもの言いをする。
『風邪を引いても知らないよ?』
岩城はもぞもぞと起き上がって、厚手のセーターを羽織った。
つけっぱなしのエアコン。
部屋はほんわりと暖かい。
―――ベッド、きれいにしたばかりだから。
真っさらのシーツをしわくちゃにしたくない。
ころんとソファに寝転がりながら、岩城は恋人への言い訳を考えた。
睡魔がじわりと、岩城の身体を蝕み始める。
―――眠い。
早く、早く。
眠気に身体の自由を奪われながら、岩城は思った。
早く、眠りについてしまいたい。
早く、香藤が来るといい。
―――どっちなんだろう。
一人だけど、独りではない不思議な感覚。
しんと静まり返った、夜のマンション。
恋人のことだけを考えていていい時間。
―――幸せなのかな、これ。
ふわふわした眠気。
瞼が重たくなって、岩城はそのまま意識を手放した。




藤乃めい
15 January 2008



2013年12月23日、サイト引越にともない新URLに再掲載。当時の原稿を大幅に加筆・修正しています。
なお、原題『pennies from heaven』を意訳すると、『天から降って来たような極上の幸せ』(今回の文中から引用)というような意味になります。あるいは棚からぼた餅(笑)。ペニーというのは元々イギリスの貨幣単位ですね。決して、決してマ○ナム様ではありませんので、どうぞ誤解なきよう。