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ベッドの中で、ぽつぽつと話しながら睦みあう。
とろりと怠惰な土曜日。

―――浸透?

恋人の汗の匂い。
若い肌にこもる熱。
何もかもが近い。
そして甘い。
しずかに、香藤が岩城の生活に染み込んでゆく。
「かとう・・・」
「うん?」
「・・・いや」
岩城は今まで、こんなふうに流れる時間を知らなかった。
誰かとふれあう喜び。
求められる幸せ。
ねっとりと絡みつく余韻。
「どしたの?」
「なんでもない」
「おかしいの」
「・・・うん」
甘えるのも、甘やかされるのも苦手だったはずなのに。
「かわいいね、岩城さん」
囁かれて、くすぐったく感じる自分がいる。
それはもう、否定しようがなかった。

―――セックス。

それがすべてを変えてしまった。
裸で抱き合う相手が、自分にいるということ。
そんなこと、岩城は望んだことすらなかった。
香藤に身体を開く。
それは自分のすべてを晒す、ということだ。
羞恥心をねじ伏せ、身体も心も、恋人に差し出す。
なにもかも明け渡す、そんな感覚。

―――侵蝕?

香藤にすべてを許した。
そうしてもいいと、岩城が自分で決めたのだ。
流された、とは思っていない。
たしかに香藤は強引だったけれど。
「すき・・・」
「んん?」
「なんでもない」
「・・・眠いね・・・」
「ああ」
気だるいまどろみ。
香藤の匂いがした。
それが心地よいと、今の岩城は感じている。

―――こんなことがあるなんて。

覚悟して何もかも与えたつもりだった岩城が、見返りに得たものは、想像をはるかに超えていた。
香藤のもたらす幸福感。
距離ゼロから生まれる関係。
はじめての、大人の恋だった。

―――なにもかも。

すべて、香藤のものになったと思っていた。
それが間違いだったことに、岩城が気づいたのは何時だったろう。
香藤は岩城からなにかを奪ったのではない。
むしろ、愛をくれたのだ。
てらいのない真っ直ぐな情熱を注ぐ恋人。
岩城に新しい世界を見せてくれる。
それに気づいて、岩城は震えた。

―――恋愛。

ただその人が、腕の中にいること。
岩城の名前をやさしく呼んでくれること。
それが嬉しい。
そんな贅沢があることを、香藤とのつきあいの中で覚えた。




「岩城さんの部屋、いつもきれいだよね」
のんびりと室内を見回して、香藤が欠伸をした。
「・・・シーツ、替えただけだぞ」
岩城は照れて、もぞもぞと香藤に背中を向けた。
恋人の腕は、細い腰を抱いたまま。
「岩城さん―――」
なだらかな下腹部を、香藤の指が這い回った。
さらり、と。
柔らかな毛をくすぐって、足のつけ根をゆっくりと辿る。
「ねえ、もう一回・・・」
「・・・こら」
肌がざわつく。
いたずらな指。
そっと、今はおとなしい岩城のペニスに触れた。
「やめろって」
岩城はささやいた。
毛布の中を覗き込むようにして、その手を捕まえる。
二人の指が絡みあう。
かぷり、と。
香藤が岩城のうなじに、後ろから食いついた。
「ひゃ!?」
愛撫に未だ慣れない肌に、甘噛みの感触。
肌が一気に粟立った。
「・・・んっ・・・」
熱い吐息と濡れた舌が、岩城の官能を再び呼び起こす。
「香藤・・・っ?」
あん、と。
舌足らずの悲鳴が上がる。
岩城は思わず、半身を軽くひねった。
感じてしまいそうになりながら、中途半端に逃げを打つ。
「あ・・・っ」
その拍子に、白い尻が香藤のペニスに擦りつけられる。
偶然の媚態。
「すっごい色っぽいよ、岩城さん」
意図されていないからこそ、岩城の痴態は恋人を煽る。
どこまでも、際限なく。
「・・・なにっ・・・?」
岩城が目をみはる。
香藤はごくりと唾を呑んだ。
「誘ったのは、岩城さんだからね」
唸るような低い声。
若い瞳にきらめく情欲。
それに気づいて、岩城は首をかしげた。
「え―――」
脚が絡められ、腰が縫いとめられる。
香藤の身体がゆっくりと重なってくる。
「かと・・・?」
長身の体躯の、なめらかな弾力。
ずっしりとした重み。
めくるめく喜悦の予感と、わずかな恐怖心。
「好きだよ、岩城さん」
深いキスに、あえなく呼吸を奪われて。
「・・・うん・・・」
岩城はおずおずと、香藤の背中に腕を廻した。
ふたたび愛されるために。
熱い吐息。
熱すぎる抱擁。
喘ぎがだんだん、忙しなくなる。
求められて抗う術を、岩城は知らなかった―――。




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次に岩城が目覚めたときには、とうに正午を回っていた。
「なんだかな・・・」
寝乱れたシーツ。
閉ざされたままのカーテン。
空のペットボトルが、ベッドサイドに転がっていた。

―――また、こんな。

岩城は顔を赤らめた。
ひどく淫靡な、自堕落な時間を過ごした気がした。
隣りでこんこんと眠る香藤。
その安らかな寝顔を見ながら、岩城は思う。

―――信じられない。

こんなことが自分の人生に起こるなんて。
降ってわいたような恋人との生活。
奇跡かもしれない。
奇跡だとしか、思えない。

―――みんな夢、だったら・・・?

望んだことすらなかったけど、でも、これがもし夢ならば。
「香藤・・・」
今だけでもいい。
もう少しだけ、醒めないでほしい。
岩城は心の底からそう願った。




香藤と知り合う前まで、週末は何をしていたのだろう。
ときどき岩城は、わからなくなった。
文献を読んだり、研究室に足を運んだり。
依頼されて地方に講演に行ったり、論文を書いたり。
後輩の相談にも乗ったし、ときには誘われて、どこかの飲み会に顔を出すこともあった。
地道に、堅実に、研究者としてごく普通の生活を送っていたはずだ。
それが当然だと思っていたし、満足してもいた。

―――でも、思い出せない。

何もかも変わってしまった。
記憶を失ったわけでもないのに、わからない。
ほんの数ヶ月前までの自分の思考回路が、頼りないほどに思い出せないのだ。
感覚的に、あまりに遠い昔のようで。




「香藤・・・」
研究への熱意が失せたとは、思っていない。
好きで選んだ道だ。
使命感も探究心も、損なわれてはいないと信じている。

―――それでも。

今はここにいたい。
香藤のそばに。
その逞しい腕の中に。
せつないほどにそう思う。

―――好き、だから。

最近の岩城はようやく、その感情を自覚できるようになった。
いとしいと感じること。
欲しいと思うこと。
すべて、年若い恋人が教えてくれた。
「かとう・・・」
ため息をついて、岩城は香藤の髪をなでた。
やわらかな茶色の髪が、汗で少しだけ湿っていた。
穏やかな寝息。
安心して眠る、少年のような無防備な姿。
鍛え上げられた肉体とのコントラストが、ひどく魅力的な。

―――とても大切な、宝物のように。

ごく自然に、彼の存在を愛する自分がいること。
それに気づいて、岩城は目を瞠った。

―――恋愛なんて、永遠にわからないと思っていた。

現に今でも、知らないことばかりだ。
香藤の情熱についていくのがやっとで、ときに目眩がする。
歳ばかり重ねて、人間の機微に疎いと自覚していた。

―――それでも。

いつの間にか、『愛おしい』が腑に落ちる自分がいた。
香藤のそばにいたい。
できることなら、ずっと香藤を失いたくない。
若い恋人がいつまで一緒にいてくれるのか、それはわからない。
やがて別離のときが来ると、肝に銘じてはいる。
それを考えるだけで、胸がキリキリ痛むけれど。

―――知らなかった。

岩城の心の内にひそんでいた熱情。
芽生えたばかりの独占欲。
初めて知った狂おしい感情は、岩城を翻弄した。
惧れを知らず、まっすぐに香藤に向かって流れていく。
制御できない想いに、戸惑いながら。
岩城はそれでも、全身で恋を享受していた。




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「・・・ライブハウス?」
箸を中空に浮かせたまま、岩城が首をかしげた。
「うん、今晩なんだけど」
きょとん、と。
岩城が不思議そうな顔をする。
香藤はくすりと笑った。




「はい、岩城さん」
もう午後三時に近かった。
ランチと呼ぶには遅すぎる食事。
香藤のつくった卵とレタスの炒飯を、岩城はありがたく受け取った。
「うまそうだな」
「いっぱい食べてね」
香藤が屈託のない笑顔を向ける。
「で、さっきの・・・」
「ああ、うん」
「今晩とか、何とか」
「そう。クリスマス・ライブなんだ。岩城さんにも来て欲しいな」
「・・・それは、コンサートってことか?」
「そうだよ」
さらりと言われて、岩城は目をぱちくりさせた。
本気で驚いているらしい。
「おまえが、歌を、歌うのか?」
「それはヒミツ。見てのお楽しみだよ」
からかうように、香藤がウィンクを寄越す。
茶色の髪がはらはらとこぼれた。
「岩城さんがイヤじゃなければ、だけど」
「・・・すごい特技を持ってるんだな」
感心したように、岩城が言った。
ほかにどう表現していいのか、わからないのだろう。
若干ためらうような響きだった。
「特技っていうか、趣味みたいなもん?」
照れくさそうに、香藤は頭をかいた。
「高校でバンド始めて、なんだか今までダラダラ続いちゃったんだよね。腐れ縁みたいな仲間だけど、みんないい奴なんだ」
「・・・そうか」
岩城は神妙に頷いた。
どこか、ぎこちない笑顔。
「何でもできるんだな、おまえは」
「あは、そんなことないよ!」
香藤はぶんぶんと手を振った。
「大学入ってからずっと、ライブやるためにバイトしてるようなもんだけどね」
「歌手に、なりたいのか・・・?」
「ないない、それはない」
岩城の問いかけが、予想外だったのだろう。
香藤は大げさに肩をすくめて見せた。
「単なる趣味。みんな普通に就職するよ」
「そうなのか・・・」
岩城は子供のように素直に頷いた。
「ね、一緒に来てくれる?」
「でも・・・」
「でも?」
「俺なんかが行ったら、場違いじゃないか?」
至極まじめな顔をして岩城が尋ねた。
反論しようとして、香藤はちょっと言葉に詰まる。




岩城と一緒にいないときの香藤。
今の、今まで。
彼が普段どういう生活をしているのか、岩城は考えたこともなかった。

―――ライブハウスとか、バンドとか。

岩城にとっては異次元の概念だ。
まったく縁がなかったので、どういう場所なのか見当もつかない。
ただ、若者が集まるという、漠然としたイメージがあるだけで。
「別世界だな・・・」
感嘆よりも、躊躇が先だった。

―――こんなに違う。

年齢差よりも胸に響くギャップ。
戸惑いよりも、惧れ。
困惑は隠しおおせるものではなかった。




岩城の表情に不安を読みとって、
「そんなことないってば!」
香藤はあくまで明るく笑った。
「はい、お茶」
食後の湯のみ茶碗を差し出す。
「・・・ありがとう」
岩城はちいさく頷いた。
「大丈夫だって、岩城さん」
「そう、かな」
「うん。心配しないで」
「でも・・・」
「いや?」
「・・・そういうわけじゃ・・・」
ようやく顔を上げた岩城が、香藤をまっすぐに見た。
かすかな逡巡で瞳がゆれている。
「香藤・・・」
「ああいう場所って、もの凄くいろんな人がいるもんだから。気にすることはないと思うよ」
「・・・そうか」
「音楽は、岩城さんの趣味じゃないかもしれないけど」
「うん・・・」
岩城はそっと茶碗を置いた。
「ごちそうさま。美味かった」
「どういたしまして」
嬉しそうな恋人にようやく笑顔を返して、岩城はゆらりと立ち上がった。
「・・・岩城さん?」
「出かけるんだろう?」
頬を少しだけ膨らませて、岩城が言った。
「支度をして来る」
そのまますたすたと、クローゼットのある寝室に向かった。





藤乃めい
14 February 2008



2014年11月8日、サイト更新。
サイト引越にともない新URLに再掲載。当時の原稿を大幅に加筆・修正しています。