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「じゃ、岩城さん。ここで待っててね」
「ああ―――」
岩城は戸惑いがちに頷いた。
「ステージはちょっと遠いけど、ここなら落ち着いていられるから」
壁際の小さなテーブル席。
あたりにまだ人はほとんどいない。
「そんな顔、しないの」
「・・・うん」
「大丈夫だから。ね?」
さらりと一瞬、香藤が岩城の手を握りしめた。
「マスターには岩城さんのこと、言ってある」
香藤はくるりと半身をめぐらせて、向かいの壁際のバーカウンターを指し示した。
髪の毛を後ろで結わえた中背の男性がひとり。
こちらに背を向けたまま、黙々とグラスを並べていた。
「困ったことがあったら、彼に聞けばいいから」
「香藤・・・」
「終わったら、迎えに来るよ」
香藤はにっこり笑った。
「うん」
「じゃね」
あとは足早に、岩城をおいて去っていく。
「はあ・・・」
きょろきょろと周囲を見回して、岩城はそっと腰を下ろした。




窓ひとつない、市街地の雑居ビルの地下だった。
冷たいコンクリートの床。
だだっ広い店内は、むき出しの蛍光灯に照らされていた。
少しずつ、人が増えていく。
アメリカの下町風のバーに、賑やかな音楽。
脈絡のない喧騒が、四方の壁にこだまする。
誰も岩城を気にも留めない。
「・・・別世界だな」
岩城は嘆息した。
前方には、板張りのステージが設(しつら)えてあった。
思っていたよりもずっと本格的な舞台。
赤と緑の毒々しい照明が、その一角を照らしていた。
キーボードとドラム。
雑然と置かれた機械と、とぐろを巻く無数のコード。
どの機材が何をするためのものか、岩城には見当もつかない。
「映画のセットみたいだ・・・」
どうも現実感がなかった。
―――これが、香藤の棲む世界?
「知らなかった・・・」
あまりにも異質で、岩城は眩暈を感じた。




香藤が置いていったオレンジジュース。
安物のグラスに口をつけようとした、その途端。
パッと、いきなり照明が消えた。
暗転。
爆発音のような轟音が響く。
「―――!?」
岩城は慌てて、ステージに視線を向けた。
「わ・・・っ」
原色のシャワーのような、さんざめくスポットライト。
耳をつんざく爆音。
けたたましい観客の歓声。
興奮をはらんだ、悪酔いしそうな緊張感。
岩城は思わず、息を呑んだ。
「ひぇ・・・っ!」
頭蓋骨に直に叩きつけるような、低音のリズム。
ぐるぐる回る照明。
そのすべてが、非現実的な浮遊感を誘った。
いつの間にかライブハウスの前半分はテーブルや椅子が片づけられ、広い空間が作られていた。
そこに群がる、若い女性たち。
いったい何人いるのか、岩城には見当もつかない。

『キャア―――ッ!!』

黄色い悲鳴が、ひときわ甲高く響いた。
「え・・・!?」
周囲の視線を辿って、岩城は目をこらした。
眩しい、強い光線。
鈍く光る銀のマイクスタンド。
そしてそこに、香藤がいた。
ライムライトの中心に。
ステージの真ん中で、ギターを抱えて微笑んでいた。

『ヨージッ!!』

どきん、と岩城の鼓動が跳ね上がった。
「うわ―――」
若い恋人の圧倒的な、華やかな存在感。
「かとう・・・」
岩城は思わず、ため息のように呟いた。
声がふるえた。
ステージに立つ香藤洋二。
彼が白い歯を見せて挨拶すると、客席から派手な嬌声が上がる。
ふと、香藤の視線が泳いだ。
その瞳が岩城を捉えて微笑した―――そんな気がして。
「・・・え・・・?」
息が止まるかと思った。
岩城はそのまま、ステージ上の恋人に釘づけになった。
どきん、どきん、どきん。
心臓の音が、邪魔なくらいうるさい。

『じゃあ、最初の曲は―――』

マイク越しの香藤の声。
ハウリングのせいか、なかなか聞き取れない。
もどかしくて、岩城は思わず腰を浮かせた。
一番うしろの席なので、幸い誰も咎めない。
「香藤・・・」
耳には確かに、甘い香藤の歌声。
茶色の髪が踊り、汗がはじけ飛んだ。
力のみなぎる長躯が、ライトを浴びて躍動する。
「すごい・・・」
ぽかんと、口を半ば開けたまま。
岩城はただ呆然と、香藤の姿を見つめていた。




+++++




どのくらい経ったのだろう。
激しい嵐のような音楽は、いつの間にか止んでいた。
狂ったようにぐるぐる回っていたライトも、今はおとなしい。
人いきれと、陽気なざわめき。
甘ったるいBGM。
むせ返るアルコールのにおい。
「ふぇ・・・」
岩城はため息を吐くと、ぺしゃりと椅子に座り込んだ。
力が入らない。
極度の緊張と、まさかの陶酔。
途方もない疲労感。
心の片隅には、ほんのわずかな痛み。
頭がガンガンして、思考が停止したまま―――。




「あ、いたいた!」
放心状態の岩城は、その声をぼんやりと聞いた。
「ねえ、あの!」
「イワキサンですよね!?」
いきなり肩を掴まれて、岩城は飛び上がった。
「・・・へ!?」




二人の若い男が、そこにいた。
岩城の顔を遠慮もなく覗き込んでいる。
「え・・・?」
自分の名前を知っているからには、香藤の知り合いなのだろう。
そう見当をつけて、岩城は神妙に頷いた。
全身が覚えずこわばった。
「どちらさま・・・?」
「あれれー、俺たちのこと、わかんないかな」
親しげな、無遠慮な口調。
さっさと隣りの席に座り込みながら、ひとりが笑った。
男性アイドルのような整った顔立ち。
香藤と同年代か、少し若く見えた。
「今の今まで、香藤と一緒にあそこにいたんだけど?」
背の高いもうひとりの男が、立ったまま顎をしゃくってステージを指した。
「え・・・っ」
岩城は困って、二人を見つめ返した。
「あの・・・」
「愛しのダーリンしか、目に入ってなかったってか?」
からからと二人が笑いだす。
「ダ・・・ッ」
いきなりのボディブロウに、岩城は肩をすくませた。
「あ、あの―――」
冷や汗をかきながら、岩城が言い募る。
「ああ、スミマセン。俺、キーボードの小野塚って言います」
着席した優男が、人懐こい笑顔を向けた。
クセがあるが、不思議と育ちのよさを窺わせる。
「おのづか、さん・・・」
「そう。んで、このデッカイのがドラムやってる宮坂」
「どもー」
宮坂は壁に凭れたまま、ひょいと会釈してみせた。
こちらはスポーツ選手のように体格がいい。
大人びて見えるが、笑顔は年相応に無邪気で、岩城は内心ほっとする。
「みやさかさん、ですか」
岩城はちいさく頭を下げた。
―――そうだった。
高校時代からの仲間だと、香藤が言っていた。
香藤の友だち。
そう理解した途端に、別の意味で身がすくんだ。
「あ・・・あの、はじめまして」
自分のことを、香藤はどう説明しているのか。
それがわからない以上、下手なことは言えない。
「あの・・・」
「香藤ですけど、ね?」
うすい笑みを浮かべて、小野塚と名乗った男が口をひらいた。
「ヤツは今バックステージで、常連の女の子たちに捕まっちゃってるんすよ。
こっちをスゲー気にしてたんで、俺たちが代わりに様子を見に来たってわけで」
小野塚の説明に、宮坂が嘆息した。
「あいつマジ、もてるよなー」
「・・・はあ」
どう反応していいのか解らず、岩城は曖昧に頷いた。
「・・・女の子・・・」
両手を膝の上に乗せて、困ったように俯く。
「あのー、岩城さん?」
途方に暮れた岩城の顔つきに、宮坂が首を傾げた。
「もしかして、香藤が心配なんだ?」
「え・・・?」
「あのさ、マジでただのファンサービスだよ。
ライブのチケット売ってくれる子たちなんで、大事にしとかなきゃっつーか」
慰めるように、宮坂がにかっと笑った。
「・・・チケット、ですか」
「そう。追っかけに手を出すほど、香藤はバカじゃないね」
「・・・」
「だから、大丈夫ですって」
後を引き取って、小野塚が頷いた。
「香藤は今、岩城さんにゾッコンだから」
「―――!!」
頬を染めて、岩城は絶句した。




「・・・あ・・・あの、それって・・・っ」
岩城の声が震えた。
動揺を隠すべくもなく、耳まで真っ赤になりながら、しどろもどろに言葉を探す。
そんな岩城をまじまじと見つめながら、
「へえー」
小野塚は腕を組んで、感心したように呟いた。
「・・・何でしょう?」
眼鏡のフレームを押し上げて、岩城がおずおずと見返した。
「こりゃ、驚いた」
「へ?」
「岩城さん、なんか前と感じが変わりましたよね」
「前・・・ですか?」
岩城にとっては、二人とも初対面の相手だ。
心当たりがないので、首を傾げるしかない。
「あの、どこかで・・・?」
「ああ、すみません」
小野塚がそれに気づいて、笑顔で謝った。
「ずいぶん前に俺たち、香藤と一緒にいる岩城さんを見かけてるんですよ。な?」
話を振られた宮坂が、うんうんと頷いた。
「ああ、香藤にあっさり、置いてけぼり食らったときなー」
「置いてけぼり・・・?」
ますます訳がわからない。
岩城は当惑して、そっと俯いた。
「そんなことが・・・」
「あんときは岩城さん、普通におっさんスーツだったけどな」
―――いつの話だろう。
仕事の帰りに、香藤と待ち合わせたとき・・・?
岩城は必死に記憶をたぐり寄せようとした。
「なんて言うか、ね―――」
にんまりと、不敵に笑って。
小野塚は値踏みするような、意味ありげな視線を岩城に投げた。
「あ、あの・・・?」
「今は妙にこう、色気があるっていうか」
「へ・・・っ!?」
「間近で見ると、なんか前と印象が違う。全然ちがう」
「ちがうって・・・」
居心地の悪さに、岩城はもぞもぞした。
「香藤にたーっぷり、開発されちゃったんだね、って感じ?」
「・・・!!」
岩城は瞠目した。
全身が、小刻みに震えだす。
「あ・・・っ」
小野塚も宮坂もいたずらっ子っぽい表情を見せている。
そこに悪意は感じられない。
ただひたすら、岩城の初心な反応を楽しんでいるようではあるが。
「だって岩城さん、香藤とやることやってんだよね?」
しれっと、小野塚が言った。
「―――ッ」
「あいつ、手ぇ早いからなー」
「セックスうまいでしょ、香藤?」
「!?」
答えられるわけがない。
誤魔化すこともできずに、岩城はぎゅっと拳を握りしめた。
「あ・・・あのっ」
「そういうカッコしてると実際、悪くないよね」
のんびりと宮坂が言う。
「香藤の趣味、ぶっちゃけわかんねーって思ってたけど、今はなくもないなー、みたいな?」
「そうそう」
「モーホーとか、冗談ダロって感じだったけどなー」
宮坂が腰を屈めて、気障にウィンクをしてみせた。
「ね、岩城さん?」
「はい・・・?」
おそるおそる、岩城は顔を上げた。
「いけてるよ、アンタ。あるなしで言ったら、俺、アリかも」
「・・・?」
ぽかんとした岩城の表情に、小野塚が思いきり噴き出した。
「ダメダメ、宮坂。おまえ全然、通じてねーぞ!」





藤乃めい
22 February 2008


2014年11月20日、サイト更新。
サイト引越にともない新URLに再掲載。当時の原稿を大幅に加筆・修正しています。

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