+++++
「・・・岩城さん?」
「―――っ!」
唐突に名前を呼ばれて、岩城は飛び上がった。
「そんなに驚かなくっても」
香藤がそこに立っていた。
裸の腰にタオルを巻いただけの、しどけない姿で。
「ご、ごめっ・・・」
岩城はあわてて目を逸らせた。
「ちょっと、考えごとをしてて」
「ぼーっとしてたね」
恋人のシングルベッドから岩城はパッと立ち上がり、腰をずらした。
そうしないと、香藤の座るスペースがないからだ。
「疲れた?」
「いや・・・」
岩城は苦笑して、風呂あがりの香藤を見上げた。
「・・・かとう」
「なあに、岩城さん」
―――若くて強靭な、褐色の身体。
すっきりしなやかな少年の面影。
それを残しながら、そこには成熟しつつある男の色香が混在していた。
この年代の青年だけが持ち得る、瑞々しい魅力。
岩城にはそれがまぶしい。
「なんでも、ない・・・」
ふと恥ずかしくなって、下を向いた。
何を言えばいいのかわからない。
「香藤・・・」
言葉に詰まって、ふたたび顔を上げる。
―――いつも、驚嘆する。
こんな男は見たことがない。
香藤は特別だ。
これほどまでに生き生きした、太陽のような―――。
「岩城さん?」
「うん・・・」
女の子が放っておかないのも当然だろう。
岩城の視線がかすかに泳いだ。
―――とても綺麗な女の子たちだった。
若くて、華やか。
弾けるような笑顔と、甲高い声。
あかるい自信に満ちていた。
きらきらした瞳で、香藤たちを見つめていた。
香藤と同年代の女の子。
それを思い返して、岩城は胸の痛みを自覚した。
「・・・岩城さんってば!」
香藤が眉を寄せて、困ったような声を出した。
「そんな顔で見ないでよ」
「・・・え?」
ぼんやりとしていたのか。
岩城は慌てて、目をぱちくりさせた。
くすり、と香藤が笑った。
指先がそっと岩城の髪に触れる。
「もう、ホントに」
「え・・・」
「俺のこと」
「ん?」
「今、カッコいいって思ってたでしょ?」
「・・・そっ・・・」
途端に、岩城は真っ赤になった。
「・・・ばっ・・・」
「・・・困ったなあ」
くしゃり、と苦笑に顔を歪めながら。
「そういうつもりで、うちに誘ったわけじゃないんだけど―――」
香藤はゆっくりと、岩城の隣りに腰を下ろした。
ギイ、と。
安物のベッドが軋んだ。
身体の熱が伝わる。
「・・・岩城さん・・・」
熱い、甘いささやき。
香藤が顔を寄せる。
キスの予感。
恋人に唇を塞がれそうになった、その瞬間。
岩城は反射的に、さっと顔を背けた。
「・・・え!?」
思いがけず、恋人にキスを拒まれて。
香藤は呆然と、岩城の横顔を見つめた。
「―――岩城さん!?」
「あ・・・?」
当の岩城も、大きく目を見開いていた。
―――どうして、こんなこと。
求められて避けたのは、これが初めてだった。
自分の行動に戸惑っている、というふうに。
ぱちぱちと瞬きして、岩城はそろりと香藤を見た。
「ど、ど、どうしたの!?」
それは悲鳴に近かった。
まさかの拒絶。
香藤は血相を変えて、岩城の顔を覗き込んだ。
「な、なんで!?」
「あ、あの・・・」
香藤の手が岩城の両肩にかかる。
岩城の身体はきゅうっと強張っていた。
「もしかして怒ってるの、岩城さん・・・!?」
岩城がそっと身をずらす。
まるで香藤の手から逃れるように。
「ねえ・・・!?」
ふるふると、岩城が首を横に振る。
「・・・な・・・っでも・・・」
「ちが・・・」
岩城がもう一度、首を振った。
「ちがうんだ」
意地を張る子供のようなぎこちない仕草。
白い項が、ほんのりと朱に染まっていた。
「岩城さん―――」
岩城の目は潤んでいた。
ほうっと、香藤が大きく息を吐いた。
「ほら・・・」
甘くやわらかく囁いた。
「おいで」
安心させるように、ゆっくりと。
香藤の腕が伸びる。
「ね・・・?」
裸の胸に、香藤は岩城を抱き寄せた。
驚かせないように、ふわりと掬いあげるように。
「・・・かと・・・?」
鼓動が聞こえる。
ぬくもりが伝わる。
「岩城さん・・・」
うん、と。
岩城がちいさく頷くのがわかった。
しなやかな上肢に、恋人を拒絶する気配はない。
香藤はひそかに、安堵の吐息をつく。
「ねえ」
しばらく間を置いてから、香藤はそっと口を開いた。
「俺、なんかした?」
「・・・」
「ライブ、楽しくなかった?」
香藤に横抱きにされたまま、岩城は駄々っ子のように首を振った。
「可愛いんだけど」
くすりと笑って、香藤が言葉を続ける。
「それじゃわからないよ、岩城さん」
「・・・」
岩城は恋人と視線を合わせようとしない。
「じゃあ、なんだろう」
「・・・んでも・・・」
「小野塚たちに、からかわれたこと?」
「・・・ちがう」
岩城は口を尖らせて、若い恋人をやっと見上げた。
「うーん」
「・・・」
「まさか俺のこと、嫌いになっちゃったかな・・・?」
子供をあやすような、楽しそうな口調。
「・・・ばか」
拗ねた表情で、岩城がにらみ返した。
「不機嫌な岩城さんって、初めて見るよ―――」
香藤はそう言って、岩城の身体をそっと引き離した。
「え・・・」
壊れものを扱うように、ゆっくりと。
それでも迷いなく、恋人をベッドに横たえる。
「嫌じゃないね?」
抵抗も見せずに、岩城はそのままシーツに沈んだ。
ベッドの感触は堅い。
狭いシングルサイズのベッド。
岩城はじっと香藤を見上げた。
「ねえ、教えて?」
ギシリ、と。
ふたたびスプリングが軋んだ。
「・・・香藤・・・」
「うん?」
つややかな漆黒の瞳が、香藤を映してゆらゆらと揺れる。
「なんで―――」
ためらう恋人の眼差しに、香藤は首をかしげた。
「どうしたの」
岩城がのろのろと口を開く。
「・・・なんで」
「うん?」
「・・・おまえは、俺がいいんだ?」
「はあっ!?」
香藤は思わず、素っ頓狂な声を上げた。
岩城の髪をすく手を止めて、恋人をまじまじと見下ろす。
「なに言ってんの、岩城さん!」
「だって、その・・・」
岩城は真剣だった。
「楽しくないだろう・・・?」
「・・・へ?」
「俺は・・・おまえの音楽もわからないし、ああいう仲間にも入れない」
かすれた低い声が震えた。
「岩城さん・・・」
「・・・と、年だから・・・しょうがないかもしれないけど、でも―――」
岩城の表情は、まったく真摯そのものだった。
「俺は・・・」
言葉に詰まって、岩城は細く息を吐いた。
「俺なんか―――」
「岩城さん」
「・・・あんなに・・・お、女の子にもてるおまえなら、俺なんかが―――」
後は、言葉にならなかった。
岩城の目がかすかに潤む。
泣くまいと必死に堪えているのか、全身が小さく震えていた。
「かと・・・」
紅い唇はそれでも、恋人を呼ぶ。
その声はかすかに戦慄いていたけれど。
「岩城さん―――」
香藤は一瞬目を閉じた。
深くふかく、息を吐く。
それからようやく、微苦笑を返した。
「・・・やっぱ小野塚たちに、なんか言われたんだね?」
「それは違う」
「じゃあ俺に、怒ってるんだ」
「ちがう、香藤・・・」
「違わないでしょ」
香藤は微笑んで、岩城の唇をつついた。
「・・・?」
「ここ、こんな尖がってる」
「・・・そっ・・・」
「拗ねてるんだよ、岩城さん」
きっぱりそう断言されて、岩城は絶句した。
「嬉しいよ、俺。それって嫉妬だよね?」
「・・・嫉妬・・・?」
思いがけない単語。
岩城は呆けたように繰り返した。
―――嫉妬・・・?
「俺は・・・」
「ここ」
香藤はそう言って、岩城の胸元をちょんと指差した。
「もやもやするんでしょ?」
「ちが・・・」
「違うの?」
「あの」
「違わないでしょ?」
「そ・・・」
たたみ掛けられて、岩城は頬を真っ赤に染めた。
「・・・かと・・・」
途方に暮れて、恋人を呼ぶ。
香藤はほのかに笑って、岩城の頬を撫でた。
「小野塚や女の子たちが、俺のそばにいるのがイヤだった?」
「そんな―――」
岩城は照れて、ふいと顔を背けた。
その火照った頬に、香藤は愛おしげに指を這わせる。
黒髪がひと筋、しんなりと絡んだ。
「言って、岩城さん」
「・・・あ・・・」
「ちゃんと言ってくれないと、わからないよ?」
促されて、岩城はおずおずと恋人を見上げた。
「・・・俺は、ただ・・・」
「うん?」
どう説明すればいいのかわからず、岩城は口ごもった。
「俺の知らない、おまえが・・・」
―――そうだ。
岩城はようやく、答えを探り当てつつあった。
「おれは・・・」
なにも知らないことが怖かった。
香藤との年齢差も、嗜好の違いも。
今まで、さほど気にしたことはなかった。
つい先月まで別世界の住人だったのだから、それは当然だと思っていた。
―――だから。
考えたこともなかったのだ。
自分が関わる隙のない時間を、恋人が持っているということ。
香藤には香藤の世界があるということ。
それを共有する仲間が、香藤には大勢いるということ。
―――俺の知っている香藤。
それは、恋人の人生の一部だということ。
―――俺の知らない香藤。
あたりまえじゃないか。
考えるまでもないことじゃないか。
そう思えば思うほど、胸が騒いだ。
心が痛んだ。
―――俺の知らない香藤。
それに、これほどの疎外感を味わうなんて。
「・・・バカみたいだな、俺は」
自嘲気味に、岩城は小さく笑った。
「それを、妬いてるって言うんだよ」
にっこり笑って、香藤が頷いた。
「・・・え?」
「好きな人のことを、自分より知ってる人間がいるのが嫌なんだよね。ちがう?」
「あ・・・」
「自分がいちばん傍にいて、いちばん解っていたいって思うんでしょ?」
「・・・っ」
「そういうのを、独占欲って言うの」
とろけそうに甘い香藤の声。
「嫉妬だよ、岩城さん」
ふふ、と。
嬉しそうに香藤が笑った。
「嫉妬・・・」
岩城はぼんやりとくり返した。
「独占欲?」
「うん、そう」
そろりと上半身を倒して、香藤が岩城に重なった。
キスがゆっくり落ちてくる。
「ん―――」
岩城は目を閉じて、香藤の体重を受け止めた。
「かわいい」
「かと・・・」
「かわいいよ、岩城さん」
啄ばむようなくちづけが、繰り返される。
「好きだ」
キスの合い間に、香藤がうっとりと囁いた。
「好きだよ」
「かと・・・」
「俺が好きなのは、岩城さんだけだよ」
「・・・うん・・・」
まぶしげに瞬きをして、岩城は香藤を見上げた。
「お・・・」
「うん?」
「お、俺も―――」
耳まで真っ赤に染めて、しどろもどろになりながら。
それでも岩城は、その言葉を口にした。
「岩城さん・・・?」
「・・・すっ・・・好き・・・」
好きだ。
香藤が好きだ。
こんなに好きだなんて、知らなかった。
―――できることなら、誰ともおまえを共有したくない。
「香藤・・・」
好きだ。
もう一度そう言う代わりに、岩城は香藤の背中に腕を廻した。
藤乃めい
2 March 2008
2015年01月08日、サイト更新。
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。本年も「ゆすらうめ異聞」をよろしくお願いいたします。
サイト引越にともない新URLに再掲載。初公開時の原稿を大幅に加筆・修正しています。