「ああ、ごめんごめん!」
香藤は振り返りざま、気安げな笑いを零した。

―――え・・・?

それは思いがけない展開だった。
岩城の心臓がどくん、と跳ねた。
彼らから、ほんの数メートルの距離。
さくらの花びらがひとひら。
岩城の目の前を、すうっと音もなく落ちて行った。
「探したぞ」
落ち着いた男性の声。
「こんな広い場所で、会えなかったらどうするの」
たしなめるような、でもやわらかな女性の声。
「どうするのって、携帯あるじゃん」
これ以上なく親しげで、無意識の甘えを含んだ香藤の声。
「なに言ってるの、もう」

―――ま、まさか・・・!?

岩城は愕然と、目の前の中年夫婦を見つめた。
まさか。
そういうことなのか。
「あら、こちらは・・・?」
香藤の隣りで無言で立ち尽くす岩城の姿に、ようやく気づいたのだろう。
ショートヘアの上品そうな女性が、窺うような表情を見せた。
小さな会釈。
岩城は慌ててぴょこりと頭を下げた。
「ああ、うん」
陽気な笑顔。
香藤はあくまで上機嫌だった。
岩城に一歩近づき、
「親父、お袋、紹介するよ」
そのままごく自然に、恋人の背中に手を廻す。
「・・・おい、香藤っ・・・?」
岩城がさっと香藤を振り仰ぐ。
「うん」
ちいさな頷き。
大丈夫だから、と。
なにも心配しなくていいよ、と。
そう言っている目つきだった。

―――でも。

「岩城さん、これが俺の両親だよ」
満開の桜にも負けない華やかな笑顔で、香藤はさらりと言った。
「で、こちらは岩城京介さん」
そのまま両親に向き直る。
「・・・は、はじめまして」
ひそかに戸惑う視線が交錯した。
「え・・・?」
「はじめまして―――」

―――こんなの、聞いてない。

「岩城・・・です」
逃げるわけにもいかず、岩城はただ深く頭を下げた。
「・・・香藤と申します」
「愚息がいつもお世話に―――」
しごく無難な挨拶の応酬。
香藤の両親は怪訝な顔つきのまま、息子にそっと目をやった。
「ったく、硬いなー」
ぎこちない会話に、香藤が苦笑した。
「岩城さん・・・は、研究室の方でいらっしゃるのかしら」
説明の不十分な息子を咎めるように、香藤の母が遠慮がちに訊いた。
「・・・いえ、ちがいます」
ほかに答えようがない。
即答に、そこで会話が途切れる。
「・・・そうですか・・・」
「ええ・・・」
それ以上、何をどう話していいのかわからず、岩城はちらりと香藤を盗み見た。
「それじゃあ・・・?」
香藤の母親が、小さく首を傾げた。

―――そうだよな。

どう考えても自分は、香藤の同輩には見えない。
かといって指導教員にも、おそらく見えない。
この大学の関係者ですらないのだから、それも当然だ。
そんな自分が今、ここにいる。
盛装して、香藤のすぐ隣りに。
彼の腕は先ほどから、岩城の腰に添えられたまま。
・・・香藤の両親が戸惑うのはあたりまえだった。

―――なにか、言わなくては。

岩城がそう決心したときだった。
終始あっけらかんとした笑顔のまま、
「岩城さんはね」
香藤はさらりと、両親に告げた。
「俺のいちばん大事な人だよ」
「・・・!」
岩城は息を呑んだ。
「俺たち、去年の秋からつきあってるんだ」
声をひそめるでもなく、しれっと。

―――香藤・・・ッ!

あまりにも単純明快な告白だった。
なんの前触れもないカミングアウト。
それはまさに、岩城にとっては青天の霹靂だった。
「・・・っ!?」
岩城の四肢が硬直する。
「・・・っ」
香藤の父親が絶句した。
蒼白の表情は、狼狽を懸命に抑え込もうとしているように見えた
「あなた、何を言って・・・!」
上擦った声をあげて、母親は顔色を変える。
手提げバッグを握りしめる指先が強張っていた。
「洋二・・・ッ」

―――馬鹿・・・っ!

岩城はただ言葉もなく、その場に立ち尽くしていた。
「あ・・・あのっ」
なにか言いたかったが、言葉が見つからない。
どうしよう。
どうすべきなんだろう。
なぜ、どうして。
まるで脳みそが働かない。
肌がぞわつき、喉がつかえる。
岩城はなすすべもなく、動揺する香藤の両親を見つめた。
青天の霹靂だったのは彼らも同じだ。
そう思うと、いたたまれなさに目眩がした。
羞恥と慙愧。
どこか恐怖にも似た喪失感。
「え、岩城さん?」
のん気な香藤が、恋人の顔をひょいと覗き込む。
「あれ、なに・・・?」
沈滞した空気。
肌に痛いほどの沈黙。
その重さにやっと気づいたのか、香藤が両親を振り返る。
「親父・・・?」
「・・・バカッ・・・」
押し殺したひと言。
岩城はそれを言うのが精いっぱいだった。

―――なんで突然、こんなこと・・・!

岩城は唇を戦慄かせて、香藤夫妻を見やった。
凍りついた表情の二人。
重苦しい沈黙と、懐疑の視線。
「・・・」
絶望的な気分で、岩城は空を見上げた。
春の淡い青空。
境界線もあいまいな雲のかたち。

―――どうしたら。

どうすればいい・・・?
周囲の華やいだざわめきが、いきなり遠く感じられた。





+++++





「・・・で?」
地を這うような低い声。
香藤の父親が、緩慢な仕草で腕組みをした。
「あ・・・」
大学の校門から少しばかり歩いた路地の、その奥。
古ぼけた喫茶店だった。
昭和の余韻を色濃く残す、やや薄暗い店内。
雑多な匂いと人いきれ。
煙草の煙がかすかに漂う。
細長く広いフロアは、卒業したばかりの学生たちやその父兄グループで賑わっていた。
「で、って何だよ」
香藤がむっつりと応じた。
苛立ちを隠せないその低い声は、たしかに父親に似ていた。
「あなた・・・」
香藤の母親が、途方に暮れた視線を彷徨わせる。
四人がけのテーブル。
誰も口にしないコーヒー。
重い沈黙。
卒業式を祝うムードなど、とうに消し飛んでいた。
香藤の隣りで、岩城はひそかに唇を噛んだ。





「・・・岩城さん、と仰るそうですが」
香藤の父親が、やがて口火を切った。
真向かいで身体を固くしている岩城を、じわりと見据える。
「・・・はい」
非難を込めた厳しい眼差し。
「何か仰りたいことは」
「・・・」
「うちのバカ息子のたわ言を、否定なさらないのですか」
「え・・・」
岩城はそろそろと顔を上げた。
「この通り、なりは一人前ですが、洋二はまだまだ子供です。後先も考えずに口走ることを、いちいち真に受けていいものかどうか」
「なんだよ、それ!」
「おまえに聞いてない」
「親父!!」
「・・・あの」

―――泣いてはいけない。

わななく唇をぎゅっと引き締めて、岩城は深々と頭を下げた。
「本当に・・・申し訳ありません・・・っ」
「岩城さん!?」
香藤は弾かれたように岩城を振り返った。
「・・・!」
岩城の詫びがよほど思いがけなかったのか、香藤の母親が蒼ざめた。
「それは、あの・・・」
言いかけて、言いよどんで。
「つまり―――」
言いあぐねて、彼女はそのまま口を閉ざした。
「・・・認める、ということですか」
ひとつひとつ、単語を区切るように。
香藤の父親が低く唸った。
「いえ・・・あの」
俯いたまま、岩城は膝の上で握った拳に力を込めた。
「・・・はい」
小さな声はため息のように掠れた。
「・・・っ」
ただ頭を垂れる。
謝罪しか思いつかなかった。
岩城には、他になにも出来ない気がした。
「なんてことだ―――」
こめかみに指を押し当てて、香藤の父が大げさに嘆息した。
「冗談じゃない」
「親父!」
「―――失礼ですが、岩城さん」
「・・・はい」
「洋二とはどこで?」
「あの・・・」
「いいよ、岩城さん」
身体を震わせながら口を開こうとした岩城を、香藤が横から遮った。
「香藤」
「俺が言うから」
決意を秘めたつよい眼差しが、岩城を見つめていた。
「でも・・・」
「ね?」
恋人の指が一瞬、岩城の手に触れる。
肌に馴染んだぬくもり。
岩城の肩が少しふるえた。
それから香藤は、ふたたび父親に向き直った。
「岩城さんとは、俺のバイト先で知り合った」
硬い口調で香藤は続ける。
「例の、夜間警備の仕事。岩城さんは○○化学の研究員なんだ」
「いいから洋二、おまえは黙っていなさい」
「親父!!」
「おまえには聞いていないと言ったはずだ」
「・・・っ!」
青白い火花が散るのでは、と思うほどの剣幕。
睨みあう父子の姿。

―――何か、なにか言わないと・・・!

ここままではいけない。
岩城は焦燥に駆られて、ふたたび口を開いた。
「あの、私は」
ふと思い出して、スーツの内ポケットから名刺入れを取り出す。
「―――ご挨拶が、遅くなりました」
躊躇いがちに、一枚のカードを差し出した。
指先がどうしても震えた。
「・・・」
テーブルに置かれた名刺。
香藤の父親は、それに冷たい一瞥をくれた。
「ご立派な肩書きをお持ちのようですが」
岩城を見る固い表情はぴくりとも動かなかった。
「いえ・・・」
「いいですか、岩城さん」
刺すような嫌悪の視線。
「失礼だが、うちの洋二よりも、かなり年上でいらっしゃるようにお見受けする」
「・・・」
いたたまれずに、岩城は俯いた。
「いい年の社会人として、恥ずかしくないのですか」
突き刺さるような言葉だった。
「貴方にだってわかるはずだ」
「・・・っ」
「アルバイトの学生を職場でどうこう・・・というのは」
「・・・」
「たとえばもし、これが女学生相手だったら、社内でも問題になるのではありませんか―――」
「・・・っ・・・」
握り拳が、膝の上でびくりと震えた。

―――俺はなんて愚かなんだろう。

香藤の父親の指摘は、すべて事実だった。
あたりまえの話だった。
そういうことを今まで、考えたことすらなかった。
恋に浮かれて、なにも見えていなかった。
それが岩城を打ちのめした。
「岩城さん」
ふるえる岩城の手にそっと、香藤の手のひらが重なった。
テーブルの下で交わす、僅かなぬくもり。
ちらりと岩城は、香藤の顔を見上げた。
ごめんなさい、と。
香藤の目が後悔に揺れていた。
「も、申し訳・・・」
「もう謝らないで、岩城さん」
やさしい囁き。
いたわるような眼差し。
「岩城さんのせいじゃないよ」
もう一度、今度ははっきりと。
香藤はそう言って、みたび両親に向き直った。
毅然とした表情に迷いは見えなかった。
片手で、岩城の手を握りしめたまま。
「親父」
「洋二」
「これだけは言っておくけど、岩城さんが悪いんじゃないから」
低い、落ち着いた響きだった。
一種の開き直り、だったのかもしれない。
「岩城さんは悪くない。俺が先に好きになったんだ。岩城さんは俺の気持ちに、応えてくれただけだ」
「そんなことは―――」
「逃げる岩城さんを、強引に掴まえたのは俺だ。俺は女じゃない。未成年でもない。
岩城さんを責めるのはお門ちがいだよ」
「・・・黙っていなさいと言ったろう」
「黙ってられるわけない!!」
険しい表情で、香藤は父親に食ってかかった。
「これは、俺の人生のことだろ?」





藤乃めい
30 March 2008


2015年10月26日、サイト更新。
サイト引越(2012年〜)にともない新URLに再掲載。初公開時の原稿を大幅に加筆・修正しています。
それにしても、秋も深まる今この時期に、桜と卒業式ネタだなんて。季節はずれにも程がありますね(汗)。