まばゆく輝く白雲の合い間に、青い空が覗いていた。
じわりと滲んだように見える太陽。
穏やかなそよ風。
日差しの強さは、すでに初夏を思わせた。
街路樹が鮮やかに芽吹き、時おり桜の花びらが舞う。

―――いつの間にか、もう春なんだな。

岩城はふと足を止めた。
『××工業大学 第××回卒業式』
達筆にしたためられた立看板に、赤いリボン。
懐かしい風景に出会った気がして、岩城は微笑した。





都心では珍しいほどの広さを誇る、緑ゆたかなキャンパス。
その中央には桜並木が通っていた。
今を盛りと咲き乱れる桜が、風にくすぐられてほろほろと散っている。
花びらがひとひら、ふたひら。
まるで吸い寄せられるように、岩城の胸元に貼りついた。

―――なんか、いいな。

季節がめぐり、花が咲く。
今まで、それを意識したことがあっただろうか。
岩城はゆっくりと構内案内板に近寄った。
「・・・あれか」
高名な卒業生の名を冠した講堂。
その中から、くぐもったマイク越しの音声が漏れ聞こえていた。
「ふうん・・・」
あらためて周囲を見渡す。
広々としたキャンパスは、普段なら学生の雑踏でにぎわうのだろう。
春休み中の今、あまり人は多くない。
少し離れたところにベンチがあり、若者たちが数人たむろしていた。
慣れないリクルート・スーツに着られた格好の青年たちもちらほら。
そうした学生たちに混じって、父兄らしい親世代の客も見える。
「時間はちょうどだな」
汗ばむような春の陽気。
腕時計をちらりと確認する。

―――香藤。

岩城は少し道を戻り、校門そばの木陰に佇んだ。





卒業式に来て欲しい。
恋人の願いに、岩城は少し躊躇った。

―――いいんだろうか。

香藤の門出の日を祝いたくないわけじゃない。
晴れ姿を見てみたいとも思う。
その反面、尻込みする気持ちも強かった。

―――本当に、いいんだろうか。

はるかに年下の恋人。
同性の恋人。
世間の好奇の視線には、これまでもたびたび遭遇して来た。
「気にしないの」
けろりと香藤はいうが、そう簡単に開き直れるものではない。
人目は気になる。
そもそも父兄でも友人でもない岩城が、卒業式に参列していいものなのか。
それすら判らなかった。
学生たちの晴れがましい席で、はからずも自分だけ浮いてしまうのではないか。

―――やっぱり、俺なんか。

部外者。
どこかそう思ってしまう岩城がいた。
卑屈になるわけではないが、場違いだとは思う。
「そんなことないってば!」
そんな岩城の懸念を、香藤は笑い飛ばす。
「考えすぎだよ、岩城さん」
いつも自信たっぷりで、信念のぶれない恋人。
そんな香藤を信じないわけではない。

―――ただ、な。

「気になるものは、しょうがないじゃないか・・・」
岩城は呟く。
年齢差が年齢差だ。
まして、男同士なんだぞ。
今さらながら、心の裡でそう思った。
ぐるぐると答えの出ない葛藤。
「だから何?」
香藤はどこ吹く風だが、岩城はそうもいかない。
おまえみたいに強くはないんだ。
何度、そう思ったことだろう。
うらやましくもあり、危いようにも思える。

―――香藤洋二。

だがそれが、岩城の選んだ男なのだ。
この男を信じようと決めたのも、岩城自身。
そこから逃げたくはない。

―――だから、俺は。

「おまえには申し訳ないが・・・」
卒業式そのものへの出席は遠慮する。
学生とその保護者のためのセレモニーなのだから、俺の出る幕ではないと思う。
岩城は悩んだ末にそう決めた。
「そっか・・・」
がっかりする香藤に、岩城は言葉を続けた。
「ただ―――」
香藤の大学には行く。
卒業式の終了時刻に間に合うように。
「ほんと!?」
「ああ」
おまえに会いに行くよ、と。
岩城は笑顔で言った。
香藤の巣立つ姿をこの目で見届けたい。
「―――岩城さん!」
香藤は跳び上がってよろこんだ。
「ホントに本当!?」
「ああ」
「嬉しいよ、岩城さん」
とろけるような笑みを見せて、恋人が手を重ねる。
「ありがとう」
「そんな・・・」
岩城のほうが照れて俯いた。
「じゃあさ」
「うん?」
「卒業式の後で食事しよう」
せっかくだからうんとお洒落して、いつもは行かないような素敵なレストランに行こう。
「ね?」
「香藤・・・」
「特別な日の、特別なデートだよ」
弾む声でそういう香藤を、岩城はじっと見つめた。
恋人の笑顔が眩しかった。

―――ありがとう。

香藤はあえて、岩城の気後れを不問にしてくれた。
岩城はそう感じた。
臆病な岩城を、内心では歯がゆく思っているのかもしれないが、そんなことはおくびにも出さない。
岩城を愛しみ、ありのままを肯定してくれる。
岩城の惧れを嗤うことなく、辛抱づよく待ってくれる。
岩城の心が追いつくのを。

―――大きい。

あらためて岩城はそう思った。
香藤のために、自分は何ができるのか。
ただついてゆくだけでなく、もっと。
もっと何かあるはずだ、と。
焦燥にも似た思いに囚われ、岩城はふと気づく。

―――そうか。

こんなふうに考えたことは今までなかった。
香藤の情熱を受け止めるだけで精一杯だった。
恋人のために、なにかしたいと思うこと。
願わくば恋人の笑顔を見たいと、つねに願うこと。
それが香藤のいう恋なのだ、と。
今さらながらに岩城は気づいた。

―――応えたい。

香藤のくれる真摯な気持ちに。
彼の愛情に相応しい自分でありたい。
心から、そう思った。
世間知らずで不器用な岩城には、簡単なことではない。
香藤のようなパーフェクトな恋人に簡単になれるとは、さすがに思ってはいない。
が、それでも。
もっと進化しなくてはいけないと、岩城は思った。
怖がっていてはいけない。
愛されるばかりではいけない。
香藤のために。
ふたりのために。




+++++




予定時刻を10分ほど過ぎていた。
なんの前触れもなく、講堂の大きな扉が開いた。
「あ・・・」
卒業生たちがぞろぞろと一斉に現れた。
明るいざわめきがキャンパスに広がる。
ほとんどが、濃紺か黒のスーツ姿だった。
電気工学部なので当然かもしれないが、男子学生が圧倒的に多い。
ちらほらと女性の姿もあるが、こちらもスーツばかりに見えた。
一足遅れて、父兄とおぼしき集団が出てきた。
列が徐々に乱れ、散り散りになっていく。
華やかな、幸せな光景だった。
「そういえば・・・」
岩城はふと思い出す。

―――俺の大学卒業のときは、ずいぶん親に怒られたな。

古い記憶が甦ってきて、岩城は苦笑した。
学部を終了する際、岩城は両親に卒業式の日時を知らせなかった。
そこに深い意図はない。
しいて言えば、感覚の差だった。
はるか新潟からわざわざ上京するほどの事ではないと、端から思い込んでいたのだ。
とうに大学院進学が決まっていたせいで、学び舎から巣立つ、という意識が希薄だったからかもしれない。
『息子が東大を主席で卒業するというのに、見たくない親があるものか!』
後になってさんざん恨み言を聞かされたものだ―――。





「・・・えっと」
香藤の姿を探しながら、岩城はネクタイに手をやった。
無意識に、結び目のかたちを整える。
もう何度目かわからない。
ふだんの岩城ならまず身に着けない、遊びのある洒落た柄ネクタイ。
つややかな光沢のある細いストライプ地のスーツ。
上等な英国製の生地は、日本のサラリーマンが普段づかい出来るような代物ではない。
海外での学会につきもののパーティー用に、これも特別に誂えたものだ。
香藤のいう 『目いっぱいのお洒落』 に相当する服装となると、これしかなかった。

―――がんばりすぎ、だろうか。

ふと岩城は不安になる。
「派手すぎないよな、これ・・・?」
ぼんやりとそう思ったとき。
ひときわ目立つ、賑やかな卒業生の集団が目についた。
「あ・・・」
その中心にいる背の高い人影。
岩城がその姿をみとめた瞬間、
「岩城さん!」
香藤も木陰にいる岩城に気づき、満面の笑みで駆け寄って来た。
「香藤」
「ホントに岩城さんだ!」
一歩さがって、照れたように香藤は呟いた。
「来てくれてありがとう」
「いや」
岩城の声はやや掠れていた。
「・・・なんか、凄い」
ひそやかに感嘆の言葉が漏れる。
「何のことだ?」
岩城が首をかしげると、香藤が苦笑した。
「岩城さんのことだよ、決まってるじゃない」
「なにが?」
「だって―――カッコいいよ」
うっとりと香藤が続ける。
「めっちゃくちゃいいスーツだよね、これ。初めて見る」
「あ、ああ・・・」
「こんなに格好いい岩城さん、見たことない」
香藤の言葉はほとんど囁きに近かった。
「大人の色気って、こういうことかあ・・・」
陶然と見つめる香藤。
その視線の熱さに、岩城はいたたまれなくなる。
「・・・なに言ってるんだ」
人前だぞ。
かろうじて岩城はそう言った。
頬が火照り、言葉がかすかに震えた。

―――まったく、もう。

香藤のまなざしは心臓に悪い。
嘆息しつつ、
「おまえこそ」
岩城はそっと、恋人の姿を見つめた。
「ああ、うん」
モデルのようなすらりとした体躯。
華やかな存在感。

―――おまえのほうが、よほど人目を引くだろう。

そう思ったが、さすがに口には出さなかった。
若い恋人は思い出したように、渋いストライプのネクタイを掴んでみせた。
「これ似合うでしょ?」
岩城が卒業祝いに贈った、イタリア製のシルクタイ。
「ああ」
目尻に小さな皺を寄せて、岩城は頷いた。
初めて見る、すっきりしたスーツ姿の香藤。
少し着慣れていないように見えるが、それでも若者らしくスマートだった。
本当に、何を着ても似合う男だ。
そう思ったが、岩城は言葉にしなかった。
「スーツ着てる俺、かっこいい?」
「・・・バカ」
腰に手をあててポーズを取る香藤に、岩城は笑い声を上げた。
「卒業、おめでとう」
「・・・うん、ありがと」
はらりと、桜の花びらが舞った。
手にした卒業証書のケースをくるくると手のひらで転がして、香藤ははにかんだ。
「珍しいな」
「なに?」
「おまえが照れるなんて」
「あはは、だってさー」
風になびくさらさらの茶髪。
無造作にそれをかき上げて、香藤が微笑した。
「俺の大学に岩城さんがいるって、なんか変な感じなんだもん」
「自分で呼んでおいて、なに言ってんだ」
「うん。来てくれて、嬉しいよ」
釣られて岩城も頬を染めた。
「友だちはいいのか?」
岩城は視線で、香藤の背後を示した。
香藤が一緒にいた卒業生グループは、五、六人ほどだろうか。
キャンパスの真ん中で賑やかな輪をつくっていた。
お互いに写真を撮り合い、通りすがる別の学生たちに声をかけ、ときおり大きな歓声が沸き上がる。
いかにも陽気な、幸せな一団に見えた。
「ああ、うん」
彼らを振り返って、香藤が頷く。
「どうせ夜に謝恩会があるから、その時みんなに会えるし」
「そうか」
岩城は頷いて、もう一度腕の時計をチェックした。
「それじゃあ―――」





「洋二、ここにいたのか」
そのとき。
ふいに渋い声が聞こえて、岩城は瞠目した。





藤乃めい
30 March 2008


2015年10月11日、サイト更新。
サイト引越(2012年〜)にともない新URLに再掲載。初公開時の原稿を大幅に加筆・修正しています。
ちなみに本日、「ゆすらうめ異聞」を開設して満10年となりました。
これまでの皆様のご支援に心から感謝しています。