さしも知らじな  序章





一期一会。
俺が専門学校で教わったことの中で、唯一覚えてるのはそれだ。
一瞬のひらめき。
天の啓示。
無作為の美しさ。
シャッターチャンスって、そういうもの。
何か意外なものにふと目を奪われる、その瞬間。
まるで稲妻に撃ち抜かれるようにひらめきが降りてきて、俺は夢中でシャッターを切る。
息もつけない高揚感。
切り取られた日常が、鮮やかな非日常になる。
俺は被写体と、同じ空気を分かち合う。
見る者と見られる者がその瞬間、レンズを通じて交感する。
繋がる点と点―――それはある意味、セックスの醍醐味にも似ていて。



だから俺は、今日もカメラを携えて街に出る。
ふいの出会いは、どこに落ちているかわからないから。



☆ ☆ ☆



俺の名前は、香藤洋二。
東京在住の31歳、独身。
職業、カメラマン。
鳴かず飛ばずだけど、一応これでもプロだ。
雑誌のコラムのカットや、広告写真。
ま、頼まれれば何でもやる。
もっとも、カメラで食っていけるかいけないか、ギリギリのラインだから。
自称プロって言うほうが、現実的かもしれない。
恋人は―――ついこの間、一年半つきあった可愛いOLに愛想をつかされた。
甲斐性がなくて、将来が見えないってさ。
貴方を好きだけど、好きだけじゃやっていけないからって。
大人しくて従順だと思ってた彼女の、予想外のきつい言葉。
情けないことに、俺はぐうの音も出なかった。
そうだろうな、と思っちまったから。
―――俺はいつも、何かを探してる。
どこかで俺を待ってるはずの、運命を探してる・・・。



☆ ☆ ☆



その出逢いは、例によって思いもかけない形でやって来た。
黄昏の京都のはずれ、野宮(ののみや)神社。
観光客の雑踏も、街の喧騒も届かない、ひっそりした神社の境内。



俺はそこでもう半日近く、ぶらぶらと過ごしていた。
あるかもしれない、天恵の出逢いを求めて。
と言っても、特に当てがあったわけじゃない。
晩秋の嵯峨野。
それも、源氏物語のゆかり深い野宮神社。
こんな場所なら、憂い顔の美女のひとりでも、いるかもしれないと思った程度だ。
もちろん、普段はこんな無駄な時間の潰し方はしないけど。
仕事で、一年振りに京都に来たついでだ。
・・・まあ、仕事と言っても。
売れてない俺に、大した依頼が来るわけじゃない。
最近の仕事じゃ、旅行会社のパンフレットに使う、秋の京都の写真とか。
結婚式場の広告ポスター用の、そつなく綺麗なイメージ写真とか。
そんな、お小遣い稼ぎとも言えないような、ちまちました仕事ばかり引き受けてるな。
それでも、仕事は仕事だ。
とりあえず東京の安アパートの家賃は払えてるわけだから、文句は言えない。



「あれ・・・」
そこだけなぜか、ぽっかりと真空になってるような空間。
そこで俺は、彼を見つけた。
夕暮れ間近、暮れなずむ竹林。
黒い鳥居に悄然ともたれかかる男の横顔。
彼を見た瞬間、俺の鼓動がどくんと跳ね上がった。
それはもう、理屈じゃなくて。
これだ、とわけもなく確信した。
そう思ったらもう、目を逸らすこともできなくて。
無意識にシャッター音をオフにして、息を殺して、俺はカメラを構えていた。



目立たない服装の黒髪の男。
気づかないうちに、いつの間にか、そこにぽつんと佇んでいた。
歳のころは、30代半ばと言ったところか。
距離があるので、面差しははっきりとはわからなかった。
すらりと背が高く、驚くほどスタイルがいい。
青ざめたような肌の白さと、少々腰の線が細いのを除けば、それでも、普通の男性のはずだった。
特筆すべきことなんて、何もない―――。
それなのに、俺はどうしても目が離せなかった。



秋の嵯峨野に風が吹く。
辺りの竹林がさわさわと揺れる。
そのたびに、男のくせのない黒髪が、さやさやと揺れて額をくすぐった。
男がそれを煩がって、無造作に髪をかきあげる。
皮のジャケットからちらりと覗く、白い手首。
彼にはごつすぎる気のする、リストウォッチ。
なぜかいけないものを垣間見たようで、俺はゴクリと喉を鳴らした。



―――ずっとそこに、いてくれ。
頼むから、俺に気づかないでくれ。
そう祈りながら、俺は憑かれたようにシャッターを押し続けた。
鳥居の男のツイードのズボンの下には、おそらくしなやかな肢体。
地味な色合いのシャツの襟が、風にかすかにはためく。
男が時折、腕時計に目をやる。
ため息をついて、しばし天を仰ぐ。
そのすっきりした鼻梁。
顎から首筋への、意外なほどなめらかなライン。
鋭角的な肩の厚みを裏切る、背中から腰への優美なカーブ。
何と言うか、かもし出す雰囲気が違った。



「モデルってことは、ないよな・・・」
小さく呟きながら、俺は思いがけない被写体に夢中だった。
綺麗に伸びた、長い手足。
しなやかな―――いや、おそらくしなやかに違いない肢体。
男性の身体を、これほど魅惑的だと思ったのは初めてだった。
「なんでこんなに、綺麗なんだ・・・?」
思いに沈む横顔がどうしようもなく無防備で、俺は他人事ながらハラハラした。
晩秋の冷たい風が吹く。
カサリ、と落ち葉が乾いた音を立てる。
その度に、男はわずかに顎を引いて、辺りに視線を走らせた。
「・・・待ち人、か」
人目を避けて、こんなところで逢引きをする男。
待っても待っても、現れない相手。
きっとあの男は、やるせない表情を浮かべているはずだ。
この距離では、残念ながらそこまでは見えなかったが。
「フラッシュ焚くわけに、いかないもんなあ・・・」
俺はそっと嘆息した。



まったりした宵闇が、濃くなった。
男の横顔が、少しずつ紗がかかるようにぼやけていく。
もうすぐ、何も見えなくなる。
もっと近づきたい。
もっと近づいて、その顔を、瞳を見てみたい。
俺は湧き上がる焦燥感で、おかしくなりそうだった。
―――実際には俺は、根が生えたように。
一歩たりとも、その場を動くことすらできなかったけど。
「ちくしょう・・・!」
わずかでも足を踏み出したら、彼はきっと俺に気づいてしまう。
気づいて、俊敏な若鹿のように、去っていってしまうだろう。
そう考えると、足が竦んだ。



とろりとした夜闇が迫っていた。
もう肉眼では、ほとんど何も見えない。
ぼんやりとした松明の灯りがわずかに、黒光りする鳥居に反射していた。
佇む男の白皙も、照り映えてほんのりと浮かび上がる。
―――幻のように儚い情景。



カシャリ。
いったい何枚、何十枚撮ったんだろう。
ふと目線を下げて、俺はカメラをチェックした。
今のが、最後のフレーム。
「しまった、予備のメモリカードは・・・」
俺は舌打ちして、焦ってジーンズのポケットを探った。
「あれ・・・」
目をこらして、闇を覗き込んだが。
―――そこにはもう、彼はいなかった。
野宮神社には、しっとりした夜の帳(とばり)が降りていた。





藤乃めい
2 November 2006



2013年3月1日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。