さしも知らじな  第一章





京都駅近くの、安いビジネスホテル。
ちゃちなシングルベッドといい、擦り切れたカーテンといい、味気ないことこの上ないが。
なにしろ、紅葉シーズンたけなわの京都だ。
俺でも払える安宿が残ってただけで、十分ありがたい。



その晩、撮ったばかりの写真を、俺はゆっくりと愛用のモバイルPCに落とした。
ケーブルを繋いで、スイッチを押す。
静かにイメージが流れていくのを、俺はじっと見つめた。
思いに沈む男の横顔。
ちらりと天を仰ぐまなざし。
足元の落ち葉を軽く靴先で突つく、意外と幼い仕草。
闇に融ける黒髪―――。



「やっぱり、これ・・・」
幾多のイメージの中で、一枚の画像が目に留まった。
薄闇で、輪郭がぼやけた全身像。
喉や指先、肩や腰のなめらかな曲線。
それが、黒い鳥居の力強い直線とのコントラストを印象づける。
墨絵のように色を押さえた、だけど強烈なインパクトを持った写真だった。
「これは・・・」
心が躍る。
液晶画面を覗き込みながら、いける、とわけもなく思った。
俺はそのイメージを、凝視した。
売れないカメラマンの俺には、芸術写真を撮る余裕なんてあったためしがない。
生きてくのが、最優先の日々。
今日だって、アートを撮ろうと思ってたわけじゃない。
でも、これはいける。
これは、日の目を見ていいショットだ。
―――それはもう、どうしようもない確信だった。



俺は手早く服を脱いで、狭いユニットバスに入った。
「待ち人、思い人、黄昏・・・」
風呂に入って、ビールを飲んで寝る。
普段はそれくらいしかすることはないのだが、この日の俺は、珍しく興奮していた。
―――職業的興奮、ってやつだ。
こういう手応えを感じるのは、いったい何年ぶりだろう。
「憂愁・・・」
熱いシャワーを浴びながら、俺の脳みそはフル回転していた。
「・・・うーん、今いちだな」
ペラペラのシャワーカーテンが、俺の肌に纏いつく。
それを手の甲で押しのけながら、俺は夢中で考えていた。
あの写真のタイトル。
あの素材に相応しいタイトルを。
「・・・今からだと、××賞の締め切りに、間に合うか・・・?」
もう何年も、まともな賞に応募なんかしてない。
後でネットで検索しておこう。
―――心臓のドキドキがおさまらない。
流れ落ちる湯の中で、伸びすぎた髪の毛をかきあげながら。
「・・・あ」
俺はふと、下半身を見下ろした。
気分が高揚してるせいか、ペニスが半分頭をもたげていた。
「あはは・・・」
苦笑が漏れる。
「ずいぶん、やってないからなあ」
彼女と別れてから、ずっとご無沙汰だからしょうがない。
俺は苦笑して、無造作にいたずら息子を握った。
「・・・んっ・・・」
シャワーを強めに出す。
目を閉じて、手早くしごく。
ホテルに備え付けのシャワージェルは、いかにもチープな匂いだった。
とてもじゃないが、えろい気分を出すのに役に立たない。
俺は、女の膣の狭さを思い出しながら、しゅっしゅと右腕を動かした。
「・・・くっ・・・」
強く握り直し、少し腰を揺らしてみる。
白いみっしりした腿。
柔らかな腰のラインを裏切る、冷たい尻の感触。
・・・瞼の裏の官能的なイメージ。
ちろりと舌を出して、俺はシャワーの湯で喉を潤す。
勢いをつけて、俺はペニスを擦りあげた。
あと、もう少し―――。
「あ・・・っ」
フラッシュバックのように思い浮かんだのは、野宮神社で見かけたあの男だった。
お堅いツイードに隠された、しなやかな細い腰と、丸いカーブを描く下肢。
―――どこかしら、あやうい香りのする・・・。
「んっ・・・」
次の瞬間、俺は自分の手のひらに射精していた。
「んはあ・・・っ」
弾けたペニスが跳ねる。
快感が、背筋を貫く。
その思いがけない強烈さ。
俺はよろめいて、タイルの壁に背中を預けた。



糊のききすぎた浴衣。
どう見てもサイズが合わなかったが、俺は素肌にそれだけ巻きつけて、ベッドにどさりと腰を下ろした。
とにかく喉が渇いていた。
やけに肌が火照る。
缶ビールを半分ほど呷ったところで、俺は嘆息した。
「うーん・・・」
よく冷えてるけど、まったく旨さを感じない。
俺はあきらめて缶をデスクに置くと、そのままばったりとベッドに仰向けに沈み込んだ。
「何だ、あれ・・・?」
額の汗を拭いながら、あえて口にしてみた。
30年以上、男をやってる。
男であることに、疑問を持ったことはない。
むろん、同性を思い描きながらオナニーをしたことも一度もない。
いや・・・さっきまで、一度もなかった。
「ヤバイだろ・・・」
正直、ショックだった。
ゲイにもオカマにも偏見はないつもりだが、自分がそうだと思ったことはない。
ちゃんと女に興奮するし、女が欲しいと思う。
「―――よっぽど飢えてんのか・・・?」
さすがに口にするのが憚られて、俺は苦笑した。
ゆきずりの、まともに顔も知らない相手じゃないか。
旅先で、遠目に見ただけの男。
格好の被写体として、一瞬のうちに俺の心を捉えたけど。
謎めいた佇まいに魅せられたのは、あくまでカメラマンとしての俺だ。
・・・その、はずだ・・・。
「・・・勘弁してくれよ」
俺は天井を見据えながら、情けないため息をついた。



☆ ☆ ☆



翌日の夕方、俺はJR京都駅にいた。
専門学校時代の先輩と、飲みに行く約束をしていた。
カメラで食うのを諦めて、今じゃ京都市内で実家の喫茶店を手伝ってる人だ。
「すげえ、さすが観光地だよな」
待ち合わせの時間にはまだ間があったので、俺はぶらぶらと駅構内を歩いていた。
右往左往する観光客を避(よ)けながら、俺は呆れていた。
新宿や渋谷の雑踏には、いい加減慣れてるが。
ここの混雑ぶりは、ちょっと毛色が違う。
団体客や外国人の多さは、さすが日本一の観光地だ、という気がした。
―――平日なので、もちろん普通のサラリーマンや学生もいるのだが。
「地元民には、うざいんだろうな」
制服姿の女子高生たち。
ステンカラーのコートを着たサラリーマン。
足早に立ち去るOL風の集団。
煩いほどのざわめきと、構内放送。
どこか、非現実的な―――。



ちらりと、目の端を横切ったもの。
「・・・え?」
何気なく雑踏を歩いてた俺は、思わず息を呑んで振り返った。
「あれ・・・!」
その途端、俺は走り出していた。
人混みの向こうに、見え隠れしている後ろ姿。
―――あれは、昨日の男だ。
一瞬だけ見えた横顔は、野宮神社にいたあの男のものに間違いなかった。
周囲の人間を蹴散らして、俺は全速力で後を追いかけた。



「・・・いた!」
新幹線の中央改札口。
荒い息をつきながら、俺は少し離れたみやげ物屋の脇で足を止めた。
―――信じられない。
そこにいるその姿。
闇のような黒い髪と、白い肌。
今日はビジネススーツを着ているが、横顔のシルエットには見覚えがあった。
・・・本当に、あの男だった。
「すっげえ偶然・・・」
駅の白熱灯に照らされたその男を、俺は凝視した。
墨を刷いたような眉に、すっきりした鼻梁。
切れ長の涼しげな眼差し。
うりざね顔に、妙に扇情的な紅い唇―――。



「・・・美人じゃん!」
俺は思わず、そう唸っていた。
全体の印象は、普通のサラリーマン。
いや、ちょっと神経質なインテリタイプ、というほうが正しいか。
小型の黒いキャリーケースと、ブリーフケースを持ってる。
・・・出張中、らしい。
一緒にいる年上の男も、似たような荷物を持っていた。
上司か、得意先か、そんなものだろう。
あの男の表情から、俺はそう察した。
立ち話をしていた二人が時計を確認し、ポケットから切符を取り出した。
そのまま真っ直ぐに、改札機に向かっていく。
「・・・いけね!」
俺は慌てて、財布の中を探した。
「ホテル、チェックアウトしてないんだけどな・・・」
東京に帰る新幹線のチケットを見つけ出して、俺はため息をついた。
躊躇して、当然だ。
・・・我ながら、バカだと思う。
でも、今ここで追いかけなかったら、俺は彼を永遠に見失ってしまう。
それは、いやだ。
奇跡的に再会したのに、それだけは嫌だ。
そう思うだけで、どうしようもなく気が急いた。
「写真の使用許可、もらわないといけないし・・・!」
俺はそっと、口にした。
もちろんそんなのは、大義名分だ。
わかってはいるけど、声をかける口実としては使えるだろう。
「よし・・・!」
迷ってるヒマはない。
俺は深呼吸して、二人の男の後を追った。





藤乃めい
10 November 2006



2013年3月4日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。