さしも知らじな  第二章





「ごめんなさい。ホンットに、ごめん!」
そう繰り返すしかない。
新幹線のデッキで、俺はもう一度ペコリと頭を下げた。
『謝られても、なあ・・・』
携帯電話の向こうには、呆れた口調の吉澄先輩。
それも当然だ。
ホントなら今頃、京都駅の近くで一緒に飲んでるはずの相手なんだから。
「この埋め合わせは、今度必ずしますんで・・・!」
拝み倒す気分で、俺は手を合わせた。
久しぶりに会う約束を、直前になってすっぽかした。
その上、俺の代わりにホテルのチェックアウト手続きをして、荷物を俺の家に送ってほしい。
―――よく考えると、めちゃくちゃな話だ。
それでも図々しくそんなことを頼んだ俺に、先輩は寛大だった。
『そういうことかあ』
前夜の野宮神社での撮影。
その被写体を、雑踏の中にたまたま見つけたこと。
奇跡の再会に運命を感じて、後を追ったこと。
手短に事情を説明して、あとはひたすら頭を下げた。
『なんや、相変わらず猪突猛進やな。そないなとこが、君らしいけど』
俺の勝手な言い訳に、可笑しそうに笑う。
『ま、しゃあない。ひとつ貸しとくわ』
「ありがとうございます!」
『君が、ふらふらと後を追うほどや。よっぽどの美人なんやろな』
「美人って・・・ええ!? ふらふらって、いやあの、そういうわけじゃ・・・!」
慌てて弁明しようとした俺を遮って、吉澄先輩は飄々と言った。
「もうええから、はよ行き。上手くいったら、紹介せえや」
あっさり電話は切れ、俺は天を仰いだ。



東京行きの「のぞみ」の、自由席車両。
胸のポケットから無意識にタバコを出そうとして、俺ははっと手を止めた。
「禁煙だっけ、ここ」
仕方なく、俺はどさりと座席に沈み込んだ。
車内はあらかた埋まっていたが、静かだった。
・・・そろりと、視線を泳がせる。
車両の反対側のドア近く、俺に背を向ける位置。
そこに、あの男が座っていた。
隣りに陣取った連れの男と、たまに言葉を交わしている。
あとはほとんど無言で、流れる車窓をぼんやりと見やっている。
俺の位置からは、ガラスに映るその横顔がギリギリ見えた。
―――きれいだ、と思った。
細いが硬い印象の線の輪郭が、ゆらゆら頼りなげに揺れる。
どうってことのない光景のはずなのに、目が離せない。
ふっとため息をついた途端、吉澄先輩の言葉を思い出した。
・・・ふらふら後を追うほどの、美人?
「・・・かもしんないけど・・・」
性別、間違えてるだろ。
それ以前に、こういうの、ストーカーって言わないか。
・・・それは流石にまずいだろ?
―――どうしてこんなに、気になるのか。
あまり深く考えたくなくて、俺は目を閉じた。



一度すれ違っただけなら、偶然で済む。
通りすがりに、ちょっと目を引く相手なんていくらでもいる。
あ、いいなって思って。
でも次の日には多分、どんな顔だったかも忘れてる。
だけど、偶然が二度重なったら、それは偶然なんだろうか?
一瞬で目を奪われた相手が、忽然と目の前に、奇跡みたいにもう一度姿を現したら?
なんかある、と思ってもしょうがないじゃないか。
「・・・思い込み、なんだよなあ」
・・・そう。
俺はきっと、二重の偶然に興奮してるだけだ。
たまたま見かけたのが、とても絵になる場所だったから。
たまたま撮れた写真が、いい出来だったから。
だから特別な出会いなのだと、思っただけだ。
あの男がどんなやつなのか、知りたくなっただけだ―――。



名古屋を過ぎたあたりで、俺はのそりと席を立った。
・・・トイレに行くついで。
そう自分に言い聞かせて、そ知らぬ顔で。
あの男のいる座席の脇を通った。
ゆっくりペースを落として歩き、ちらり、と視線を巡らせる。
何気ないふりで。
―――あの男は、腕を組んで眠っていた。
俯き加減で、黒髪がはらりとこぼれて額を隠していた。
肌が、白いな。
細いけど華奢な感じはしないから、体格はそれなりにいいんだろう。
隣りの年かさの男も、うつらうつらとしてるらしかった。
・・・出張帰りのくたびれたサラリーマン。
どう見ても、そんな感じだった。
俺はふと、テーブルの上の大きめの茶封筒に目をやった。
さらりとそのまま、通り過ぎながら。
俺は脳裏に、印刷された社名を叩き込んだ。



ドアを閉めたデッキで、ひと息ついた。
「はは、これだけのことで緊張するなんて・・・」
ドキドキしてる自分に、苦笑した。
五分待って、くるりと振り返って今来た道を戻る。
いや、自動販売機に行ってからにしようか。
もう一度、封筒の社名を確認して、ロゴをチェックしないと。
背広の胸に同じマークの社章でもあれば、ラッキーなんだけど。
・・・なぜか、この時。
その場で話しかけようとは、俺は思わなかった。



深呼吸して、ドアを開けた。
すぐ左手の席に、あの男が寝ているはずだ。
そう思って、わりと無造作に視線をやった俺は、思わず息を呑んだ。
まるで俺の視線に気づいたかのように。
黒髪の男が、ふわりと顔を上げたからだ。
「・・・!」
ほんの一瞬のことなのだが。
湖のように澄んだ黒い瞳が、俺の視線をまともに受け止めた。
じっと見つめる、探るまなざし。
足を止めた俺に、ふと、訝しげに眉を寄せる。
それから、興味を失ったように、ついと車窓のほうを向いてしまった。
「・・・」
―――言葉が、出て来ない。
いや、かける言葉なんて、あるわけないんだけど。
俺はそっと嘆息して、のろのろと自分の席に戻った。



俺は今度こそ、軟体動物みたいにふにゃりと座席に沈み込んだ。
「・・・なんだよ、あれ?」
射るような強いまなざしだった。
不快ではなく、不審でもない。
ただ、興味のない様子だったのに。
―――知らない乗客と、偶然まともに目が合った。
彼にしてみれば、そんなところだろうけど。
それでも、眦の切れ上がった瞳の鋭さに、俺は撃ち抜かれた気分だった。
「きれいだったな・・・」
美しいと、俺は思った。
ぞくぞくする高揚感。
あの男のことを知りたいと、今は本気で思う。
「うーん・・・」
あの瞳にも、あの身体のラインにも、あのさらさらの髪にも。
俺はどうやら、無条件で反応するらしい。
カメラを構えた俺だけでなく、素のままの俺も。
「マジかよー・・・」
俺はもう一度、深くため息をついた。



☆ ☆ ☆



東京駅が近づく。
きらめく都会の夜景が流れては消える。
身支度をする振りをして、俺は早めに立ち上がった。
―――カメラ以外の荷物は全部、ホテルに置きっぱなし。
だから、支度も何もないんだけど。
前方の座席のあの男は、ステンカラーのコートに腕を通しているところだった。
伸びやかな腕の動き。
もうひとりの男が、後ろから襟を整えてやる。
黒髪の男は、ほんの少し首を捻じって微笑した。
ひとこと礼を言った感じだろうか。
「ん・・・?」
何気ない仕草だけど、親密さを窺わせる態度だと思った。
新幹線がホームに滑り込む。
静かに、静かにドアが開く。
ざわめきと、無数の靴音と、冷たい霜月の風。
俺はさっさと降車して、雑踏の向こうの二人の背中を追いかけた。



一応、勤務先はわかった。
同僚と一緒にいる彼に、声をかけるつもりもない。
今はそれでいいじゃないか、と思うのに―――。
「何してんだろう、俺・・・」
早足で階段を駆け下りながら、俺はそっと独りごちた。
離れがたくて、心がざわめく。
もう一度、あの横顔を眺めたい。
ここまで来たら、追いかけられるだけ追いかけてみよう。
ごく自然にそう思った自分に、自分で嗤った。



「あ、あそこ」
金曜日の夜の東京駅、中央コンコース。
嫌になるくらいの混雑を避けるように、二人の男は、駅構内の喫茶店に入った。
―――というよりは、ファストフード店か。
まあ、店内も相当ごった返していたが。
安っぽい有線の音楽と、蛍光灯の光の中。
いかにも居心地が悪そうに、二人のサラリーマンは隅の席に陣取っていた。
・・・いや、正確には。
年かさの男のほうが、紙コップに入ったコーヒーを二つ持って、席に着いたところだった。
「・・・あれ」
どこがどう変だ、というわけじゃない。
でも、俺は微妙な違和感を感じた。
サラリーマン社会のことは、正直あまり知らないが。
―――こういうときは普通、若いほうが飲み物を取りに行かないか?
まあ、上司が奢るってのもありかもしれないけど。
ゆっくりと空いたスツールに腰かけて、俺は待ち人を装った。
目の端には、あの黒髪の男がきっちり入ってる。
「名前が知りたいな・・・」
俺はひとりごちた。
ざわめきが煩すぎて、彼らの会話はとても聞こえない。
俺はそれでも、懸命に耳を澄ませた。



「あれれ・・・?」
どうも様子がおかしい。
二人の男をこっそり覗き見していた俺は、さすがに首をかしげた。
狭い店内、小さなテーブルを挟んだ二人が口論していた。
いや、口論してるようにしか見えなかった。
「おいおい・・・」
激しい言い争いをしてるわけじゃ、ないんだけど。
額をつき合わせるようにして、声を落としてるのはわかる。
だけど、雰囲気がどこか険悪だった。
どちらも表情は、それほど変わらない。
でも、黒髪の男の視線が刺すようにきつかった。
責めるような顔つきなのは、間違いない。
「うーん」
さっきまでは、よそよそしいくらいだったのに。
黒髪の男が一気にしゃべって、それから憮然と口を噤む。
頑なに見えるその態度に、年上の男のほうがゆっくり肩を竦める。
宥めるような、困ったような笑顔。
なかなか苦み走っていて、なるほどこっちもいい男だと、俺はようやく認識した。
「なんか、これ・・・?」
空気が変だ。
この男たちは、単なる職場の同僚じゃないのかもしれない。
直感だけど、俺はこういうことはまず外さない。
もっとずっと、親しい間柄にしか見えない。
「って・・・まさか?」
その考えを、俺はとっさに打ち消した。
・・・俺が、昨夜あの男をおかずに抜いたから。
だからきっと、そういう疚しい方向に発想が行くんだ―――。



そう自分に言い聞かせた途端。
「・・・?」
黒髪の男が、唐突に立ち上がった。
氷のように冷ややかな瞳で、相手の男を見下ろす。
コートの前をはだけて、背広のポケットから何かをつかみ出した。
手のひらに収まるほどの、濃紺の小箱。
―――ジュエリーボックス?
何かのプレゼント、だろうか?
「それにしても・・・」
俺は固唾を呑んで、その無言劇を見つめた。
男が静かに、その小箱をテーブルに置いた。
相手の男がそっと腕を伸ばし、黒髪の男の手を掴まえた。
手のひらが重なる。
「・・・!!」
俺は慌てて、周囲に視線を走らせた。
誰かに見られたら、ヤバイんじゃないのか・・・?
―――喧騒と音楽のおかげで、彼らに注意を向ける奴なんていなかったが。
ひと呼吸おいて、黒髪の男は、重ねられたその手を跳ねのけた。
俯きがちに、ひと言。
もちろん、何を言ったのかは聞こえない。
だが、相手の男の表情が強張ったのは丸見えだった。
・・・決別・・・?
そのまま、踵を返して。
荷物を掴むと、黒髪の男は毅然と立ち去った。
「きょ・・・岩城くん・・・っ!」
残された男が、振り向かない背中に呼びかけた。
テーブルの上には、ぽつんと置き去りにされた小箱。
―――俺は呆然と、その後ろ姿を見送った。





藤乃めい
17 November 2006



2013年3月7日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。・・・ちなみに画像は500系のぞみ。今はもう走っていないはずですが、この小説を書いた当時の主要車両でした(笑)。