さしも知らじな  第三章





日本橋にほど近い、えらくレトロな喫茶店。
外はせわしないビジネス街なのに、そこは妙にゆったりとした時間が流れてた。
タバコの煙が充満し、ほろ苦いジャズピアノのBGMが聞こえる。
時代に取り残されたような煤けた空間。
それが、逆に落ち着くのかもしれない。
まだ勤務時間帯だろうに、サラリーマンで賑わっていた。
「岩城・・・さん、か」
確かに、あの人はそう呼ばれてた。
半分飲んだきり冷めてしまったコーヒーを脇にどけて、俺は呟いた。
テーブルの上には、俺の撮った写真の入った茶封筒。
東京駅であの黒髪の男を見失ってから、二週間が過ぎていた。



あれから、俺なりにいろいろ考えた。
少し冷静になって、考えたほうがいい気がしたから。
・・・浮世の義理っていうか、仕事があったせいもあるけど。
「あれはやっぱり、そういう関係なんだよな」
結局それしか、考えられない。
何度、どうほかに理由を探そうとしても、無駄だった。
―――あれはどう見ても、恋人同士の諍いだ。
喧嘩しただけなのか、別離だったのか、それは分からない。
「でも・・・」
俺の記憶に、間違いがなければ。
あの年上の男の手には、結婚指輪があった。
・・・もちろん、あの黒髪の男と揃いのリングだという可能性も、なくはないが。
サラリーマンで同性愛者で、しかも同僚とつきあってるとしたら・・・?
これ見よがしに指輪をするなんて、まずあり得ないだろう。
欧米ならともかく、ここは日本なんだから。
年齢的にも、年かさの男は既婚者だと考えたほうが自然だ。
―――ということは。
「不倫ってわけか―――」
そのほうが、いろいろ説明がつく。
「確かにあのオヤジ、普通の家庭人って感じだしな」
・・・野宮神社で、来ない相手を待っていた黒髪の男。
人目を忍ぶ逢い引きなら、あの場所を選んだ理由もわかる。
あのすかしたオヤジを、待ってたのか。
苦しい恋を、してるのか。
すっぽかされて、別れることを決めた・・・?
いや―――俺が、そう思いたいだけかもしれない。
これは全部、妄想なのかもしれない。
何しろ俺は、彼のことを何も知らないのだから。
「・・・落ち着け、俺」
混乱してきて、俺は大きくため息をついた。



難しいことを考えるのは苦手だ。
できれば、いつだって明るく楽しい恋愛がしたい。
可愛い女の子とつきあって、いつかは結婚して。
―――だけど、今回はそうはいかない予感がした。
トラブルの気配。
というより、苦労させられそうな予感。
この気持ちが恋愛だって、納得してるわけじゃない。
でも、気になるもんはしょうがないじゃないか。
「人並みに結婚願望、あるんだけどなー・・・」
俺はひっそりと苦笑した。
あの黒髪の男―――岩城さんは、そういう性癖の持ち主だ。
そういう人、なんだ。
別に証拠があるわけじゃないが、俺は確信してた。
それが俺にとって幸運なのか不幸なのか、微妙なところだ。
「喜べねえだろ・・・?」
同性を惹きつける何かを、彼は持っているのかもしれない。
俺が彼に反応するのは、そのせいなのか?
「だからって、相手にしてもらえるわけじゃ・・・」
今でも実感がない。
自分の性癖に疑問を持ったことなんて、この歳までなかった。
だいたい万が一、相手にされたらどうするってんだ。
ちょっと妄想しかけて、俺はあわててそれを打ち消した。
「うー・・・」
唸りながら、俺はテーブルに突っ伏した。
俺はホモじゃない。
絶対に、ホモじゃないはずだ。
むなしい抗議が、俺の頭の中をぐるぐる回っていた。



「さて、と・・・!」
喫茶店の壁掛け時計をちらりと眺めて、俺は勢いよく席を立った。
そろそろ午後五時半。
あの男の勤め先の退社時間だ。
「どうせ、残業とかするんだろうけど」
さっさと定時で上がるタイプには、見えないもんな。
でも、逃すわけにはいかないから。
何時間でも辛抱強く、待つつもりでいた。



あの男。
―――岩城さんの勤めるのは、日本橋に本社のある大手商社だった。
いや、正確には、その商社の関連会社らしい。
新幹線の中で盗み見た封筒。
そこにあった社名とロゴだけが頼りだったけど、知り合いのつてで、そういう会社があることは突き止めた。
代表番号に電話をかけて、「岩城」という姓の社員がいることも確認した。
我ながら、執着してると思う。
でも、一歩一歩、彼に近づいてるような興奮があった。
俺は何がしたいんだろう?
彼に俺の存在を知ってもらって、それから―――?
「わかんねー・・・」
自分で、自分の衝動がわからない。
・・・いや、わかりたくない、のか。
でも、これだけ気になるんだから。
行くところまで行かないと収まらない。
ダメもとなんだから、当たって砕けろ。
それが俺の出した結論だった。



☆ ☆ ☆



彼の勤務先の正面玄関。
とろりと重たい、師走の闇。
少し離れた街灯下の植え込みあたりで、待ち人を装いながら。
―――いや、本当に人を待ってるわけだけど。
ぞろぞろと出てくる社員の波を、俺は目を眇めて見つめた。
他に出口があるかもしれない。
彼は今日、出勤してないかもしれない。
いや、深夜まで残業で、出てこないかもしれない。
「会いたいのか、会いたくないのか・・・」
小脇に抱えた茶封筒。
嵯峨野の夕暮れの写真が数枚。
これを見せて、まずは勝手に撮影したことを謝って。
それから話をして、俺の真意をわかってもらおう。
一生懸命説得して、写真を使わせてもらおう―――。



「・・・あっ!」
午後八時を少し回って、そろそろ寒さがこたえてきた頃。
吐いた白い息の向こうに、俺は彼をみとめた。
・・・本当に、彼だ。
その姿を見ただけで、俺の心臓が騒ぎ出した。
足早に歩く、すらりとした長身。
ステンカラーのコートの襟を掻き合わせて、地下鉄の駅のほうに歩いていく。
俺はのそりと、腰を下ろしていたレンガの低い壁から立ち上がった。



「あの・・・っ」
まばゆい夜の駅前。
人通りの激しい交差点の少し手前で、俺は彼に声をかけた。
暗がりで呼び止めたら、余計に怪しまれるだろうと思ったからだ。
「岩城さん、ですよね」
「・・・!?」
それでも彼―――岩城さんは、驚愕の表情で振り返った。
警戒心を露わにした、きついまなざし。
その硬い表情に、俺は一瞬息を呑んだ。
―――ああ、本物の彼だ。
もちろん、こんなに近くで彼を見るのは初めてだ。
「えっと、俺・・・」
陶器のようになめらかな白い肌が、俺の目の前にあった。
思ったより、ずっと背が高い。
華奢に見えたけど、肩幅も胸囲もしっかりありそうだ。
黒水晶みたいな、澄んだ瞳。
・・・睫毛が、すごく長い・・・。
その場に突っ立って惚(ほう)けてる俺を、岩城さんは不審気に睨んだ。
俺の目的を測ろうとするような視線。
「何ですか」
冷や水を浴びせるような、硬い声音だった。
初めて聞いた、彼の声。
なんて、いい声なんだろう―――。
じろり、ともう一度睨まれて。
「・・・そのっ・・・」
俺は慌てて、咳払いした。
脳内でシミュレーションしてたはずの会話を、必死で思い起こそうとした。
・・・したんだけど。
マジで俺、大バカだ。
いざとなると、何にも、用意してた言葉が出てこない・・・!



「・・・人違いなら」
小さく呟いて、岩城さんは立ち去ろうとした。
「あ、待って・・・っ」
反射的に、俺は彼の肩を掴んだ。
「・・・っ」
次の瞬間、彼は俺の手をぴしゃりと払い落とした。
思いがけない力に、俺はびっくりして腕を引っ込めた。
「ご、ごめん・・・」
「何の用だ」
不愉快さを隠さない、低い声。
もう敬語すら、使う気はない・・・らしい。
―――これじゃ、ダメだ。
こんなんじゃ、話をする前にこの人に逃げられてしまう。
「ごめん、なさい」
俺は深呼吸をして、頭を下げた。
「驚かせるつもりじゃ、なかったんだけど。俺、香藤洋二っていいます。カメラの仕事をしてます」
一気に言って、にこりと微笑。
そう言った途端に、岩城さんの表情が少し強張った。
誠意をわかってもらいたくて、俺は懸命に言葉を継いだ。
「岩城さん、ですよね。こんなところで待ち伏せなんかして、ごめんなさい。でも、俺、これを―――」
俺はガサガサと茶封筒を開けて、段ボール紙に保護された写真を取り出した。
岩城さんが・・・目を瞠った。
全身がさっと緊張したような、そんな印象。
なぜ・・・?
「見てください。二週間前、京都で撮った写真です」
「・・・!」
いちばん上にあった野宮神社の写真を、俺は指差した。
ソフトフォーカスみたいに見える、闇の中にたたずむ岩城さん。
俺の、ベストショット。
「これを、どうしても、岩城さんに見てほしくて―――」
「・・・わかった」
俺の言葉を遮って、岩城さんはわずかに頷いた。
硬い、表情の見えない顔。
感情の読めない、低い声―――。
もしかして、怒っているんだろうか?
俺のやってることは、そこまで非常識なことなんだろうか。
そう思うほど、岩城さんは全身を強張らせているように見えた。
危険を察知して、逃げ出したい衝動を堪えてるみたいに。
・・・なんで?
何が、「わかった」んだろう?
息を詰めて反応を窺ってる俺を、岩城さんはちろりと見上げた。
それから、緩慢なしぐさで腕時計に目をやる。
京都でもしてた、彼の手首にはごつすぎるダイヴァーズ・ウォッチ。
「・・・あまり時間は、ないんだが」
ぽつりと、不機嫌そうに呟く。
それからもう一度、俺の顔を見た。
ゆっくり―――企むような微笑を浮かべて。
「・・・っ」
それは、劇的な変化だった。
まなざしは、ひんやりとしたままだと言うのに。
冷たい無機質な美貌が、ほんの少し緩むだけで、あやうい色香を放つ。
「来い」
低く、捨て台詞のようにひと言。
まるで、俺がその命令に従うのが当然みたいに。
「・・・え?」
それっきり岩城さんはくるりと背を向け、すたすたと歩き出した。





藤乃めい
23 January 2007



2013年3月9日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。