さしも知らじな  第四章 その1





「さて、と」
岩城さんがゆっくりと振り返った。
俺を値踏みするような、訝しげな視線はそのまま。
「ここなら、話ができる」
たいして面白くもなさそうに、顎をしゃくって部屋を指し示した。
「え・・・」
「何が、望みだ?」
言いたくない言葉を、無理やり押し出すような低い声。
無表情の彼を、俺はただ呆然と見つめた。



忘れ得ぬ人。
京都で、思いがけずその憂い顔に見惚れてから、もう2週間。
岩城さんに、とうとう声をかけた。
あの鮮烈な、一瞬の記憶が蘇る。
止められない衝動に突き動かされて、真っ直ぐにここまで来た。
ストーカーまがいの行為だったかもしれないけど、俺はもう本当に必死で。
どうしても、どうしても気になってしまうから。
岩城さんを追いかけて、待ち伏せて、俺はようやく探し出した。
―――そこまでは、よかったんだけど。



なんで、こんなことになったんだろう。
予想外の展開。
俺は―――俺たちは、ホテルの一室にいた。
たぶん丸の内からほど近い、けっこう高級なシティホテル。
岩城さんに言われるままについてきて、気づいたら、ここに木偶のように突っ立ってた。
部屋の真ん中、俺から数メートル離れたところ。
そこに、向き直った彼がいた。
・・・嵯峨野で見かけた、輪郭もおぼろな横顔じゃなくて。
確かに息づく、血の通った彼がそこにいた。
冴え冴えとしたまなざしが、俺を射抜く。
どうして、そんな目で俺を見るんだろう?
俺をここに連れてきたのは、岩城さんなのに。
よっぽど頭の回転が鈍いのか、俺にはどうしても理解できない。
彼の行動も、考えてることも。



「・・・岩城さん?」
いかにも慣れた仕草で、チェックインをする後ろ姿。
案内を断り、迷いもせずにエレベーターに向かった足取り。
まるで帰宅するような自然さで、廊下をどんどん進んで行った。
―――その間一度も、俺を振り返ることすらせずに。
俺はただ、そのしなやかな背中を追いかけるばかりだった。
「なに、ここ・・・?」
居心地の悪さに、俺は正直、閉口してた。
洗練されたシックな内装と、間接照明。
突き当たりの大きな窓から見える、都心の夜景。
乳白色の大理石のバスルームが、脇のドアからわずかに見える。
そして部屋の中心には、ダブルサイズのベッドがふたつ。
・・・何もかもが、非現実的すぎる。



「望みって・・・」
問いかけに当惑して、俺は口ごもった。
目の前の麗人は、俺には理解不能だ。
俺の返事を待つでもなく、岩城さんは緩慢にコートを脱ぎ去った。
ソファにふわりとそれを放り投げ、それから少し、考えて。
無造作にスーツのジャケットを脱ぐと、それも放り出した。
いささか投げやりだけど、流れるような一連の動作。
しなやかな身のこなしに、俺の意識は釘づけになる。
「おい?」
ネクタイを指一本で緩めながら、岩城さんが俺を見た。
―――いや、正確には。
俺が小脇に抱えてる、大きめの茶封筒に視線が泳いだ感じだろうか。
「・・・京都の写真、なんだろう」
慎重に、そう言って。
岩城さんは表情を読もうとするように、俺を凝視した。
一歩、彼が近づく。
「そうだよ」
俺の声は、みっともなく掠れていた。
ぴんと張りつめた空気が、息苦しい。
「見る?」
俺の言葉遣いも、いつの間にかひどくぞんざいになっていた。
のろのろと、俺は封筒を差し出した。
岩城さんが、黙ってそれを受け取る。
ちらり、ともう一度俺の顔を窺う。
一向に警戒を解かない、澄んだ冷ややかな瞳。
―――赤の他人と密室で対峙してるんだから、まあ当然か。
連れ込まれたのは、俺のほうだけど。
「なんだ?」
黒目がちのまなざしが、照明を反射して濡れたように光る。
陶器のようなつるんとした肌が、すぐそこにあった。
ひんやりとした艶のある美貌。
禁欲的なのに、どこかしら滲むような色をも含んでいて。
この人は何歳なんだろう―――ぼんやりと、そんなことを考えた。
たぶん俺より、年上だと思うけど。
この立ちのぼる香華は、いったいどこから来るんだろう・・・?
「ああ・・・」
彼が俯くと、くせのない黒髪がさらさらとこぼれ落ちた。
ホントに、鴉の濡れ羽色。
男性の髪を、こんなふうに意識したのも初めてだ。
俺は思わず、感嘆のため息を漏らしていた。
―――ホントに、なんて綺麗なんだろう。
絶妙の造形美。
どこまでも、心の琴線に響いてくるような。
カメラが欲しい、と思った。
この人を、もっと撮りたい―――。
吸い寄せられるように、俺はふらりと一歩を踏み出した。
「・・・岩城さん」
緩慢な仕草で封筒をあらためようとしていた彼が、ふと顔を上げた。
「え・・・」
「本当に、きれいだ―――」



口に出すつもりは、なかったんだけど。
俺は無意識に、そう呟いていたらしかった。
・・・呆けたように、彼を見つめながら。
その途端、岩城さんの手がはたと止まった。
俺を見返す瞳が、何とも言えない諦念と、艶めいた色を刷く。
「・・・やっぱり、そういうことか」
なめらかなバリトンには、抑揚がなかった。
急に興味を失ったように、彼は封筒をライティングデスクに放り出した。
「え・・・?」
冷たい表情はそのまま、視線を絡ませながら一歩、また一歩。
意味深な沈黙。
スローモーションで、俺に近づいてくる。
俺は金縛りにあったみたいに、そこから動けなかった。
「い・・・わき、さ・・・?」
岩城さんの紅い舌が、ゆっくりと唇を割った。
無造作に、乾いた唇を潤すように。
俺を睨みつけたまま、岩城さんの舌がうごめく。
「・・・っ」
俺は思わず、息を呑んだ。
―――あんまりにも、扇情的すぎて。
どくん、と鼓動が高鳴った。
身体が芯から火照って、目眩がしそうになる。
目の前に立つ岩城さんから、目が離せない。
「な、に・・・」
右手で、ネクタイを解きながら。
俺のベタな反応を見て、岩城さんはふっと微笑した。
感情の見えない、ぬくもりの欠片もない笑顔だけど。
暝い瞳からは、何を考えてるのか、想像もできないけど。
―――それなのに、俺は・・・。
「なんて名前だって・・・?」
まるで女を口説くような、甘いかすれ声だった。
罠に絡め取られてるのかもしれない。
・・・唐突に、そう思った。
「俺・・・?」
「そうだ」
「香藤・・・洋・・・っ」
まったく、何の前触れもなく。
彼の左手がそろりと、俺の股間を撫でた。
「・・・っ!?」
声にならない声をあげて、俺は飛び上がった。
「い、岩城さん!?」
情けないことに、俺の全身が震えていた。
―――なんで・・・っ!
汗が、背中を伝う感覚。
岩城さんの態度が、理解できないからじゃない。
今この状況に、途方に暮れてるからでもない。
・・・岩城さんにも、すぐにわかっただろう。
俺のペニスは、さっきからみっともないくらい興奮してた。
熱く勃ちあがって、じんじんと腰から疼くほど。
理性がぶっ飛ぶほどの凄まじい飢えに、俺は支配されてた。
―――こんなあからさまな反応、隠せるわけがない!



「緊張してるのか」
意外そうに呟いて、岩城さんは低く笑った。
それが一種の自嘲なんだと、ぼんやりと気づいたけど。
俺の脳はすでに、いやらしい欲望に埋め尽くされていた。
どくん、と下半身が脈打つ。
セックスの予感。
一気に血が頭にのぼる感じ。
この人は、何をしようとしてる?
―――まさかという思いと、あり得ないという感覚がせめぎ合う。
その場に根が生えたみたいに、どうしても動けない。
降参の気分で、俺は目を閉じた。
「・・・いっ・・・」
意識は、すでに下半身に集中していた。
解放されることしか、考えられなくて。
岩城さんの指が、するりと俺のジーンズのボタンをはずす。
はち切れそうなペニスが、刺激を期待して脈動した。
どうしようもなく昂ぶって、俺は胴震いした。
「元気だな」
器用に下着を引き降ろして、彼がくつくつと笑う。
官能的な低い響き。
俺は、うっすらと目を開けた。
目線のすぐ先に、岩城さんの身体。
白い項が、シャツの襟元から覗く。
ふと、ほのかな匂いがした。
「・・・!」
男性には少々甘すぎる、いざなう花の香り―――。



その瞬間、目の前が真っ白になった。
「岩城さん・・・っ!」
荒れ狂う欲望に、逆らえなくて。
俺は岩城さんの二の腕を掴み、力任せにベッドに引き摺り倒した。
「おい、香藤・・・っ!?」
驚いた声をあげる岩城さんを、問答無用でねじ伏せる。
―――熱い血潮が、全身を駆け巡ってた。
初めて名前を呼ばれた、それだけで鼓動が跳ね上がる。
浅ましい荒い息を、止められない。
「抵抗しないで・・・っ」
唸るようにそう叫んで、俺はもがく岩城さんをベッドに押さえつけた。
思いっきり体重をかけて、動きを封じる。
「・・・ふっ・・・」
岩城さんの息が、俺の頬にかかる。
・・・くらくら、した。
「・・・このまま・・・っ」
もう動かないでくれ、と心で祈った。
これ以上逆上せたら、どんな乱暴をするかわからないから。
―――乱暴?
俺は思わず、ごくりと喉を鳴らした。
何をするって言うんだろう。
「いわきさ・・・っ」
自分で、自分の本能の行く先が見えない。
岩城さんをこうやって組み敷いて、それから?
こんな凶暴な―――野獣めいた衝動が自分にあることすら、信じられないのに・・・!






藤乃めい
8 February 2007



2013年3月12日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。