さしも知らじな  第四章 その4





☆ ☆ ☆



荒い吐息を、なんとか鎮めて。
俺はゆるゆると、全身を伸ばしてベッドに寝そべった。
強烈なセックスの余韻。
奇妙な静寂。
腕の中には、まだ胸を喘がせてる岩城さん。
「ん・・・」
瞳をぎゅっと、閉じたまま。
乱れ髪が、額をすっかり覆ってる。
紅潮した頬が、ちょっと彼を幼く見せていた。
半開きの唇から、浅い熱い息が漏れる。
愛のないセックス。
―――なんだろうな、とぼんやり考えた。
知らない男と、知らないホテルで。
そういうのって、達った後は一気に醒めるって言うけど。
本当なのかな、と今は思う。
だって俺はうっとりと、腕の中の男に見惚れてたから。



とにかく、岩城さんは呆れるほどに色っぽい。
なめらかなバリトンも、白い肌も。
身体の線も、汗の匂いも。
しどけなく横たわる肢体の発する熱に、今だって逆上せそうだ。
まさに、魔性。
節操のないバカ息子が、どくん、と少し脈動する。
もう一回したい。
―――いや、もういっそ一晩中、抱いていたい。
きっと、何度でも俺は勃つだろう。
ごく自然にそう思える自分が、そこにいた。
―――キス、したいな。
半分背中を向けた岩城さんを見ながら、俺はそう思った。
そういえば、まだ一度もしてない。



「ねえ、岩城さん・・・」
俺の声は、情事の後の気だるい響きだった。
ぴくり、と岩城さんの肩が反応する。
俺は構わず、彼の細い腰に腕を回した―――。
その途端。
「放せ」
岩城さんはぴしゃりと、俺の手を払いのけた。
甘い余韻も吹っ飛ぶような、冷たい声。
俺は驚いて、岩城さんの顔を覗き込んだ。
「え・・・?」
「もう、いいだろう」
眉をひそめた俺に一瞥をくれて、岩城さんは緩慢に身体を起こした。
「岩城さん?」
俺の問いかけを、きれいさっぱり無視して。
ゆらりと立ち上がると、彼は裸足でベッドから遠ざかる。
俺はあっけにとられて、その後ろ姿を目で追った。
「あ・・・?」
汗がすうっと背筋を伝う、扇情的な裸体。
なのに無言の背中が、俺を拒絶してるみたいな気がする。
ほんの数分前まで、俺の下で喘いでいたのに。
「あの・・・」
岩城さんは、ライティングデスクの上の封筒を取り上げた。
―――俺の写真を、見てくれるのか。
覚えていてくれたことは嬉しいけど、でも。
それにしては、様子が変だ。
「・・・?」
俺は息を殺して、岩城さんの背中を見守った。



がさがさと、封筒を開けて。
彼のしなやかな指が、俺の撮った写真を引っ張り出す。
ほうっと一度、深呼吸をするのがわかった。
無言で、一枚。
それから、もう一枚。
もともと、そんなに持ってきたわけじゃないから。
岩城さんはあっという間に、数枚の写真を見終わった。
「・・・!」
最後の一枚を、手にしたまま。
「・・・おまえ・・・っ」
肩を震わせて、岩城さんはすごい勢いで俺を振り返った。
「なに・・・?」
眉間に派手に皺を寄せた、おっかない形相で。
信じられないって顔で、俺を見据える。
「・・・こ、これはっ」
ぎゅっと握りしめた写真を、俺のほうに突き出して。
「うん、俺の撮った写真だよ」
こくりと頷いて、俺はそろそろとベッドから降りた。
彼とおんなじ裸のまま、岩城さんの側に近づく。
「・・・これだけ、なのか」
「え・・・?」
―――隣りに立つと、彼が全身を小刻みに震わせているのがわかる。
「これだけって・・・そう、だけど」
「他には・・・」
意味がわからず、俺は首をかしげた。
「ほかって?」
俺はそっと、彼の手から写真を取り上げた。
「なんか俺、まずいことした・・・?」
恐る恐るそう問いながら、俺は写真をデスクに置いた。
写真を取り返したのは単に、せっかくの四つ切がしわくちゃになりそうだったからだ。
岩城さんの指先に、凄い力が入っていたから。
「・・・まえは、俺を・・・」
戸惑うまなざしが、俺を見据えた。
「え?」
岩城さんの視線が俺の手と、デスクの上の写真に泳いで、また俺の顔を辿る。
「ゆす―――」
「・・・え?」
消え入りそうな掠れ声。
「―――じゃ、ないのか・・・?」
言ってる岩城さん自身、まったく確信が持てないらしい。
彼は早口にそう言って、ふいと顔を背けた。
ふて腐れたように眉をしかめて。
心持ち、頬が赤い。
「・・・えっと・・・」
目の前の岩城さんは、無理に仏頂面をしていた。
それがわかってしまうのが、あまりにも可愛い。
・・・まるで別人だ。
セックスに誘うあの妖艶な魔とは、似ても似つかない。
「それって・・・あの」
俺はくらくらしながら、言うべき言葉を探した。
―――もしかして。
「ひょっとして岩城さん、俺に・・・?」
「・・・」
強請られていると、思ったのか。
なにか弱味を握られてしまったと、そう思ったのか。
だから、懐柔するためにベッドに誘ったのか。
「岩城さん」
「・・・うるさい」
手負いの野獣みたいに呻って、岩城さんはそっぽを向いた。
自身、どうしていいのか分からないのだろう。
「俺が、脅してると思ったの・・・?」
「うるさい」
肩がちょっと震えてる。
「岩城さん・・・」
「―――京都の写真だって・・・言うから・・・っ」
火照った肌が、いっそう濃い桜色になった気がした。
・・・ああ、そうなのか。
そういうことなのか。
「ヤバい写真でも、撮られたかと思った?」
―――あの男との、密会の証拠だと思った・・・?
「・・・うるさい!」
低い声は、まるで悲鳴みたいに聞こえた。



気まずい沈黙が、俺たちの間に落ちた。
―――いっそ笑い飛ばせたら。
バカバカしい勘違いだって、笑ってやればいい。
あるいは俺をバカにするなって、怒るべきなのか。
・・・そう、思ったけど。
俺には結局どっちもできなかった。
―――けっこう、ブルーになってたから。
京都で不都合な写真を撮られたかもしれないって、岩城さんが心配したってことは。
一緒にいるところを見られてはまずい相手と、一緒にいたということだ。
あるいは、一緒にいる場所がまずかったのか。
そして、見られては困ることを、写真に撮られる可能性のある場所でした、ってことになる。
―――それって、いったい・・・?
脳内で、イヤな連想がぐるぐる回った。
やっぱり、新幹線の中で同席してた、あの年上の男か・・・?
それとも他に、そういう相手がいるんだろうか。
「・・・どっちにしても」
よほど身に覚えがあるんだろう。
よほど守りたい相手・・・なんだろうか。
そんな男のために、岩城さんは俺と寝たわけだ。
保身のためかも、しれないけど。
でも、迷うことなく身体を差し出してみせた。
―――ゆきずりの、知らない男に。



「そっか・・・」
とんでもない徒労感に、突如、襲われて。
俺はどさり、とベッドに腰を下ろした。
無言の岩城さんは、そこに立ったままだ。
俺は静かに話しかけた。
「―――岩城さんを偶然、嵯峨野で見かけたときね」
半ば、墨絵みたいな写真の中の彼に、語りかける感じで。
「俺、夢を見てるんじゃないかと思ったよ」
「・・・」
「理想の被写体・・・って、言うのかな。見た瞬間に、これだって思ったんだ」
ちらり、と岩城さんが俺を見たような気がした。
「俺が求めてた何かを、見つけたと思った。何て言うかもう、理屈じゃないんだ。俺は夢中になって、シャッターを切ってたよ。―――切らずには、いられなかった」
岩城さんは、立ち尽くしたまま。
俺は少し目を眇めて、彼の表情を窺った。
「・・・ねえ、岩城さん」
返事は、ない。
俺は嘆息して、言葉を続けた。
「俺はその写真を、どうしても岩城さんに見せたかったんだ。見せて、それで許可をもらいたかったんだよ」
「・・・許可?」
掠れ声が、頼りなく聞こえた。
「うん。写真コンクールにね、出せたらいいと思ってるんだ。でもそれには、モデルの許可が必要だから」
「・・・」
モデルという言葉に、岩城さんは意表を突かれたみたいだった。
「俺、その写真には自信がある。きっといい線行くと思うんだ」
俺はまっすぐに、岩城さんを見上げた。
「ねえ、岩城さん」
澄んだ暝い瞳が、じっと俺を見返す。
―――ああ、やっぱり、綺麗だ。
美しくてあやうい何かが、俺を惹きつけて止まない。
「信じてもらえないかも、しれないけど」
俺はにっこり、笑ってみせた。
「名誉とか賞金とかが欲しいわけじゃないんだ、俺。でも、あれはどうしても、世の中に出してやりたい」
「・・・」
俺は写真の中の、儚げな横顔に思いを馳せた。
寂しい、ひとりぼっちの岩城さん。
たちまち俺を虜にした、晩秋の麗人。
誰かを待って、待ち続けて―――。
「・・・あの美人をさ、世界中の人に自慢したいんだ」
後はもう、説得の言葉が見つからなかった。
いや、説得じゃなくて。
それはもう、自己陶酔だったかもしれない。
本物の岩城さんは、何も言わなかった。
その怜悧な美貌を見上げて、俺は苦笑した。
「・・・ね?」
―――そう、本物はすぐ目の前にいた。
おぼろげな画像なんかじゃなくて、生身の人間として。
ついさっきまで、俺の腕の中に。



息をひそめて、岩城さんは俺の表情を窺っていた。
それからゆっくりと、しなやかな身体が弛緩する。
まるでそうっと、深呼吸をするように。
「・・・好きにしろ」
諦めなのか、もう本当にどうでもいいのか。
彼はそう言い捨てて、静かにバスルームに消えた。





藤乃めい
22 February 2007



2013年3月17日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。