さしも知らじな  第五章 その2






「・・・!」
靴音が、俺の前で止まった。
のそりと顔を上げた俺は、岩城さんに笑いかけた。
「おかえりなさい」
膝を抱えて蹲(うずくま)る俺を、まるで汚いものを見るような瞳で見下ろして。
「・・・何をしている」
岩城さんのバリトンが響いた。
不愉快さを隠そうともしない低い声。
「うん、ごめん」
俺はあいまいに頷いて、ゆっくり身体を起こした。
立ち上がった途端に、岩城さんの身体に緊張が走った。
―――怖がらせてるのか、俺。
岩城さんが、ちらり、と自分の部屋のドアを見た。
「・・・どうしてここが」
怒りを押し殺すように、岩城さんが呻いた。
「この前、ホテルでね」
岩城さんの全身が、驚愕と怒りで強張っていた。
震える唇が何か言おうとする。
その白皙を、俺は不謹慎にも、惚けたように眺めていた。
色が失せるほど、怒ってるのに。
―――久しぶりに会った岩城さんは、それでもやっぱり、すごく綺麗で。
俺は深々と、頭を下げた。
「俺、住所、盗み見しました。ごめんなさい」
きつい瞳が、俺を睨みつける。
「・・・帰れ」
「岩城さん、俺・・・」
俺は一歩を踏み出した。
「帰れ!」
飛び退(すさ)るように身体を翻して、岩城さんが叫んだ。
「警察を呼ぶぞ、帰れ・・・っ」
押し殺したその声が、悲鳴に聞こえるのは何でだろう。
・・・俺が、彼を傷つけてるのか。



心のどこかが、ツキンと痛んだ。
―――拒絶も無論、痛いけど。
眉をしかめた彼を見てるのは、もっと辛い。
どうしようもなくて、俺は降参の両手を小さく挙げた。
「ごめんなさい」
一歩だけ彼から遠ざかって、俺は正直に言った。
「俺、どうしても岩城さんに会いたかったんだ」
言い訳は聞きたくない、というように。
岩城さんが首を横に振った。
怒りというより、疲れたような感じで。
「忘れられなくて。嫌がられるとは思ったんだけど、でも、俺―――」
俺はもう一度、身体をふたつに折った。
「驚かせるつもりじゃなかった。本当にごめん」
「・・・二度と来るな」
うめくような低い響き。
俺は苦笑して、肩をすくめた。
「ごめん。それは約束、できないかもしれない」
岩城さんは、俺の答えに目を瞠った。
「なっ・・・」
「我慢するように努力するけど。でも―――」
彼の視線を捉えて、俺ははっきり口にした。
「ダメなんだ、俺。あんたに惚れたみたいだから」
「・・・っ!」
岩城さんは絶句して、俺を呆然と見返した。
「何を、冗談・・・」
「冗談じゃないよ」
微笑して、俺は静かに言った。
―――なんだか落ち着いてる自分が、信じられない。
「自分でも今はじめて、気がついたんだけど。俺、岩城さんが好きなんだ」
「馬鹿な」
正気の沙汰じゃない、とでも言いたげに。
岩城さんは小さく首を振って、ため息をついた。
「・・・何も、知らないくせに」
ぽつりと、乾いたひと言。
俺に向かって言ったというより、独り言みたいだった。
顔を背けたその頬に、さらさらと髪が揺れた。
「そうだね」
俺はゆっくり頷いた。
本当に、その通りだと思う。
岩城さん。
岩城京介さん。
彼にとって俺は、一度寝ただけのゆきずりの相手だ。
一夜の過ち、だろう。
だけど俺にとってそれは、人生をひっくり返す大事件だった。
「俺、岩城さんのこと、何も知らないけど―――」
ここまで来るのに、一ヶ月悩んだ。
一生懸命、忘れようとした。
でも―――。
「それでも、恋はできるよ?」
俺は岩城さんと、出会ってしまった。
接点なんてないはずの二人なのに。
それを今さら、否定なんてできない・・・!
「・・・なっ」
ぽかんと口を開けて、岩城さんが絶句する。
「好きだよ、岩城さん」
俺はにっこり、彼に笑いかけた。



☆ ☆ ☆



俺はときどき、考える。
人生って本当に、何が起こるかわからないもんだよな。
予定は未定で、確定じゃないってよく言うけど。
俺は今まさに、それを実感してる。



昔から写真が好きだった。
好きなカメラでそこそこ、食っていければいい。
可愛い女の子と楽しい恋愛をして、いずれは優しい子と結婚して落ち着いて。
そのうち子供が生まれて、ささやかながら明るい家族を築いて。
親父たちに、孫の顔を見せてやって。
・・・そんな、人生設計とも呼べない平凡な幸せを夢見てた。
普通でよかったんだ。
分不相応なことなんて、ひとつも望んじゃいなかった。
―――いや、夢を見てたっていうか。
人生ってそういうもんだと、疑いもしなかった。
実際それで30年間、それなりに上手く生きてきた。
・・・岩城さんに、出会うまでは。



―――岩城さんが好きだ。
瓢箪から駒みたいな告白だった。
俺の気持ちはもうずっと、整理不能な状態だったから。
ああいうふうに告白しようと思って、彼を待ってたわけじゃなかった。
でも、ごく自然に、あふれるように零れ落ちた言葉。
「好きだよ、岩城さん」
口に出した途端に、すとん、とすべてが腑に落ちた。
俺はホモでも、オカマでもない。
相手は男で、俺よりけっこう年上。
いろいろワケあり・・・っていうか、いかにも面倒くさそうなタイプだ。
おまけに俺のことを、完璧に邪魔者扱いしている。
前途多難―――っていうより。
むしろ、上手くいかないほうがいい恋なんだろう。
結婚も子供も、なんにも望めないんだから。
―――それは、わかるんだけど。
でも、止められるもんじゃなかった。
岩城さんに会いたい。
岩城さんを抱きたい。
我ながら、本当にバカだって思う。
「好きだよ、岩城さん―――」
でも、思うたびに、心がじんわりと熱くなる。
奔流みたいな想いが募るばかりで、どうしようもない。
何でだろう、あれだけそっけなく突き放されたのに。
それでも俺は、脈があるような気がしてしょうがない。
岩城さんは俺を待ってる。
何の根拠もないのに、そう思えるんだ。
俺って本物の、バカかもしれない。
・・・でもいつかきっと、俺の本気をわかってもらって。
そのうち絶対に、堕としてみせる。
もう一度この腕に、あの人を抱いてみせる。
そう決めた途端に、なんだか元気が湧いて来た。



☆ ☆ ☆



あの後、俺は、何度か岩城さんのマンションに通った。
招かれざる客だから、通った、ってのはおかしな表現かもしれない。
行ったって、門前払いは変わらないんだけど。
どれだけすげなくあしらわれても、俺はめげなかった。
彼の顔を見られるだけでよかった。
ひと言ふた言、そっけない言葉を交わすだけ。
それでもいいと、思っていた。
彼は相変わらず、ガードが固くって。
ほの白い美貌からは、なんの感情も読み取れない。
でも、にこりともしない岩城さんの瞳が、いつもちょっとだけ揺れるんだ。
不安なのか、怯えなのかわからないけど。
嫌悪感とは違うその甘いゆらめきを、見つけるたびに。
俺は、少しだけ胸が締めつけられる気がした。



仕事の都合次第だから、何週間も行けないこともあった。
終電ギリギリまで待っても、岩城さんが帰宅しない日もあった。
そういう夜は、早春の寒さが身に堪えた。
深夜を過ぎるまで、残業してるんだろうか。
ひょっとして、もう帰って来てドアの向こうにいるのかもしれない。
息を殺して、かすかな気配を探る。
でも、岩城さんはいなかった。
泊まりでどこか、出張に行ってるんだろうか。
それとも―――。
考えたくないことを考えて、ときどき嫉妬で気が狂いそうだった。



たった一度だけ、だけど。
岩城さんのマンションに向かう路地で、知らない男を見かけたことがある。
うす暗い夜道。
俺の前方を、同じ方向に歩いて行く男。
気にも留めなかったけど、それは、マンションに入るまでの話だった。
いかにも慣れた身のこなしで廊下を闊歩し、鍵を取り出して、平然とあの部屋に入って行った男。
広い背中と、がっちりした体躯。
顔は、一度も見えなかった。
いつか新幹線で見た、あの男なんだろうか?
それとも、別の誰か・・・?
―――岩城さんの部屋の、合鍵を持ってる男がいる。
「・・・んだよ、あいつ・・・っ」
焼けつくような焦燥感。
俺はただ、そこに立ち尽くすしかなかった。
行き場のない嫉妬。
悔しくて、悔しくて、堪らなかった―――。





藤乃めい
8 March 2007



2013年3月22日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。
蛇足ですが、実際にこんなことをしたら、ストーカー規制法の対象になってしまいます(汗)。盗撮や個人情報の不正取得も当然ですが警察沙汰まちがいなし。・・・あくまでフィクション、ということでご容赦ください・・・(汗)。