さしも知らじな  第六章 その2






「・・・う・・・?」
ガサゴソ乾いた紙の音で、俺は目が覚めた。
いや、閉ざされたカーテンから差し込む日差しの、思いがけない強さのせいか。
「あれ・・・」
一瞬、どこにいるのか考えてから。
俺はなんだか、甘酸っぱい気持ちで覚醒した。



「・・・ふわあ」
でっかい茶色のソファの上で、むくりと身体を起こす。
ちょっと肩がこってるかな。
「えっと―――」
視線をめぐらせると、部屋の隅っこ。
キッチンに近いテーブルに岩城さんがいた。
・・・俺の寝てたソファが、ちょうど見渡せるところに。
と、いっても。
俺の寝顔を見てたとか、さすがにそこまで自惚れてない。
彼は肘をついて、片手で支えるようにして新聞を読んでた。
俺からは全然、岩城さんの顔は見えない。
・・・ひょっとして、あえて壁を作られてる?
っていうか、綺麗さっぱり、俺の存在を忘れてる感じ。
「ほえー・・・」
俺はぼんやりと、岩城さんを眺めた。
寝起きのパジャマ姿のまま、どっしり深く椅子に腰かけて。
裸足の足―――ほの白い踝(くるぶし)がちらりと覗く。
左手には、ぼってり大きなマグカップ。
淹れたてのコーヒーのいい匂いがしてた。



「おはよう、岩城さん」
俺はつとめて明るく、声をかけた。
がさり、と無造作に新聞を置く音。
「・・・起きたのか」
ツーポイントのメガネをかけた岩城さんが、まっすぐ俺を見た。
相変わらずの無機質な表情。
だけど、不機嫌じゃない―――気がする。
「あふ・・・」
天井に両腕を突き出すように伸びをした俺を見て、低く笑った。
「野生動物みたいだな」
「へ?」
「いや」
岩城さんは軽く頭を振って、後方に顎をしゃくった。
「飲みたかったら、自分で淹れろ」
キッチンに俺の分のコーヒーがある、ということらしい。
俺はありがたく頷いて、ペタペタと裸足で歩いた。
「飲んだら、帰ってくれ」
意地悪とは言わないけど、そっけない台詞だった。
それっきり、俺に興味を失ったみたいに。
岩城さんは新聞に視線を戻し、テーブルに置いてあったバナナを齧り始めた。
「・・・ぅ・・・」
適当なカップにコーヒーを注いで振り返った俺は、思わず絶句した。
「・・・?」
不思議そうに、岩城さんが見上げる。
「・・・なんでもないよ」
ソファに戻って、俺はひそかにため息をついた。
―――ガキみたいだと、自分でも思うけど。
無心にバナナを銜える岩城さんの姿は、妙にエロティック。
こんなことで、やばいだろ・・・!
俺はぎゅっと目を瞑って、劣情と戦った。



「ねえ、岩城さん」
「ん」
新聞から視線を上げずに、岩城さんが生返事をした。
「それ、ひょっとして朝飯なの?」
バナナを指差した俺を、訝しげに見て。
岩城さんは面白くなさそうに、肩をすくめた。
「・・・悪いか」
「悪くはないけどさ。休日くらい、ちゃんと朝飯、食ったほうがいいよ」
そんなに疲れてるんだから、なおさら。
と、言外に言ったつもりだった。
「ほっとけ」
つれない返答。
「ほっとけないよ。だって、俺―――」
その瞬間、情けないことに、俺の腹が鳴った。
「・・・うわっ」
―――み、みっともない!
誤魔化しようがないくらい、盛大な音。
俺は、自分の腹を恨めしげに見下ろした。
「・・・ちゃんと食ったほうがいいのは、誰だ?」
岩城さんが、にやりと笑った。
「この部屋には、何もないぞ。早く帰れ」
「うっ・・・」
真っ赤になってうな垂れた俺は、ふと、あることに気がついた。
「そうだ・・・!」
そそくさと立ち上がって、俺は手早く自分の服を着た。
岩城さんに借りた部屋着を、慎重にたたむ。
「ねえ、岩城さん!」
駆け寄った俺に、岩城さんはうんざりしたような視線を向ける。
「今度は、何だ」
「朝飯、食べに行こう。俺、おごるから!」
「はあ?」
「ここからすぐの、交差点の向こうにあるじゃん、喫茶店。えっと、何だっけ・・・」
急にはしゃぎ出した俺に呆れて、岩城さんが嘆息した。
「ダージリン?」
「そうそう、それ、ダージリン。あそこさ、モーニングセットやってるんだよ」
「・・・よく知ってるな」
岩城さんが眉をひそめる。
俺はぺろり、と舌を出した。
―――そりゃ、ここんとこ、何度もお世話になってるからね。
「食べに行こうよ、岩城さん」
「・・・何で、俺が」
岩城さんは不機嫌そうに、俺を見上げるんだけど。
でも、なんでだろう。
本気で嫌がってるわけじゃない、と思う。
彼なりに人恋しいのかもしれない―――って思うのは、都合がいいだろうか?
「ね、岩城さん。泊めてくれたお礼をさせてよ。何でもおごるから!」
腹ペコの俺につきあって。
もうちょっとでいいから、一緒にいて。
俺は祈るような気持ちで、岩城さんを見つめた。
許されるものなら、触れてもいいなら。
その腕を掴んで、引き摺って行きたいくらい。
俺たちの視線が一瞬、絡み合った。
「・・・しょうがないな」
ため息混じりに、のっそりと岩城さんは腰を上げた。



☆ ☆ ☆



土曜の朝なんだけど、まだ早いせいかな。
住宅街の喫茶店は、閑散としてた。
ランダムに軽めのクラシック音楽がかかる、古ぼけた喫茶店。
客はほかに、二組いるだけ。
それでも俺は、最高に上機嫌だった。



「そんなに朝飯が、嬉しいか」
岩城さんが、俺のにやけた顔を見て、ため息をついた。
「そりゃあね」
ごくごく普通の、トーストと目玉焼き。
脂ぎったベーコンと、申し訳程度のグリーンサラダ。
初デートのメニューにしては、ずいぶんお粗末だったけど。
でもコーヒーは、けっこういける。
それだけで、救われた気分になるから不思議だった。
俺はさっきから、顔が緩むのを止められなかった。
―――だって、目の前に岩城さんがいる。
さんさんと朝日の降り注ぐ、窓際のテーブル。
シャワー浴びたてのつるんとした美人が、俺と一緒に飯を食ってる。
・・・信じられない。
それだけで、天まで舞い上がりそうな気分だった。



「・・・おい、よせ」
いかにも嫌そうに、岩城さんが囁く。
「なにを?」
ふやけた顔の俺を、睨みつけて。
「・・・そういう顔だ」
憮然とした答えに、俺はまた、くすくす笑い出しそうになる。
「ごめん」
でも、しょうがないよ。
俺は、すっごい幸せだったから。
洗いざらしのシャツにセーターを羽織っただけの、すっぴん岩城さん。
―――いや、男にすっぴんってのは、おかしいかな。
でも、セットされてない髪の毛も。
どうやらプライベートでしかかけないらしい、縁なしメガネも。
何もかもが、魅力的すぎる。
無防備な姿が、どうしようもなく俺をそそった。
「顔は、変えられないよー」
のん気にバカ笑いする俺に、見切りをつけたのかもしれない。
岩城さんは首を振って、黙々と飯を片づけだした。
―――ああ、綺麗だな。
ナイフとフォークを持つ手がきれい。
レタスを捉える唇の動きがきれい。
食べ方が上品なのは、育ちがいいせいだろうか。
紅い唇が器用に動いて、トマトの欠片を吸い上げる。
コーヒーカップに、そっと口をつける。
なんだか、すごくエロティックだ。
無心に食べてるようで、俺の視線を意識してるのがわかる。
ホントに、綺麗―――。
「おい!」
今度はちょっとドスのきいた声で、岩城さんが俺を呼んだ。
「いい加減にしろ」
辟易したような声で、俺をたしなめる。
「うん、ごめん」
俺はやっぱり、嬉しさで上の空。
へらへら笑いっぱなしで、岩城さんを余計に呆れさせた。



残念だけど、俺の幸福は長く続かなかった。
朝飯の所要時間なんて、たかが知れてる。
会話が弾むわけじゃなかったから、なおさら。
だから俺たちは、あっという間に喫茶店を出ていた。
「うわ、いい天気」
春はもうすぐ―――そう思わせる日差し。
財布をジーンズのポケットに捻じ込んで、俺は岩城さんを振り返った。
「じゃあ俺、これで」
もっと一緒にいたいけど、あいにく仕事が入ってた。
・・・仮にフリーでも、岩城さんが傍に置いてくれるとは思わないけど。
「ああ」
短く頷いて、岩城さんはすっと、駅に向かう道を指差した。
「あそこの角を、右に曲がって―――」
駅への道順を説明しかけて、はっと気づいたように口を噤む。
「岩城さん?」
ほんの少し頬を染めて、彼はくるりと背中を向けた。
「・・・どうせ、知ってるんだったな」
悔しそうにそう言って、ちらり、と俺を振り返った。
さわさわと、黒髪が風に揺れる。
澄んだ瞳が、太陽を反射してきらりと光った。
「この、ストーカー野郎」
「うん、ごめん」
緩んだ頬のまま、俺は子供みたいに頷いた。
「・・・帰れ」
教えてやる義理はない、と小さく呟いて。
岩城さんはマンションの方角へ、すたすたと歩き出した。
ああ、その歩き方もカッコいいな。
「また、来るよ!」
俺はその背中に、思いっきり投げキッスをしたい気分だった。
「ばっ・・・大声を出すな!」
慌てたように、岩城さんが振り返る。
怒ってるのは、いつものことだけど。
でも、その表情がいつもより少しだけ甘いのは、俺の気のせいだろうか・・・?
「・・・二度と来るな、バカ」
きつい捨て台詞も、珍しく歯切れが悪い。
眩しそうに目を細めて、まるで珍獣でも見るみたいに俺を見つめる。
不可解、って顔に書いてある感じ。
「また来るよ、岩城さん」
俺はそのまなざしを掬い取って、にっこり笑った。
―――もう、迷わない。
この人はきっと、俺が思ってるよりずっと純な人なんだろう。
何重にも鎧を纏ってるせいで、それが見えなかっただけだ。
「また一緒に、朝飯しよう?」
岩城さんは、絶句した。
「・・・じ、冗談じゃない・・・!」
今度こそ背中を向けて、猛然と俺から遠ざかって行く。
俺はその後ろ姿を、笑いながら見送った。






藤乃めい
16 March 2007



2013年3月26日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。