さしも知らじな  第八章 その1





地下鉄の揺れに身を任せながら、俺は目を閉じた。
岩城さんに言いたいこと。
伝えたい想い。
整理して考えなくちゃいけないことが、いっぱいあるから。
それにしても、帰宅ラッシュで混雑がすごい。
岩城さんは、まだオフィスにいるんだろうか。
そろそろ帰途についてるだろうか。



「バカだよな、俺・・・!」
この一、二ヶ月、何をしてたんだ?
うだうだ悩むのは、俺の性(しょう)に合わない。
―――そんなの、わかってるはずなのに。
あらためて、臆病だった自分に歯ぎしりする思いだった。
「煮詰まってたんだなあ・・・」
何を躊躇っていたんだろう。
自分から一歩踏み出さないと、何も変わらないのに。
持ってもいないものを失うことを、俺は恐れていた。
どれほど想っても、想うだけじゃダメだ。
ひとり勝手に恋をしても、岩城さんは絶対に俺のものにならない。
どんなに待っても、彼から連絡が来ることもない。
―――だから、どうしても彼が欲しいなら。
俺が動くしかない。
真っ直ぐに、行動するしかないじゃないか・・・!



☆ ☆ ☆



駅からの道を、俺はひたすら走った。
岩城さんのマンションまで10分もない。
押し潰されそうな蒸し暑い夜だった。
すぐに汗が全身から噴き出したけど、心が急(せ)いて、駆け出さずにはいられなかった。
この数か月の足踏みでロスした時間を、取り戻すために。
一刻も早く、岩城さんをこの腕に掴まえるために。
いつの間にか、通い慣れた道。
あそこの角を曲がって、あとはまっすぐ・・・!



「あち・・・」
息を切らして、俺はゆっくり足を止めた。
岩城さんの住むマンション。
なんだか、懐かしい感じがする。
夕闇に包まれたエントランスで、俺は白いタイルの建物を仰ぎ見た。
「岩城さん・・・」
今夜は顔を見るまで、帰らない。
俺、岩城さんのこと、絶対に堕とすから・・・!
そう決心して、俺は携帯電話の電源を落とした。



☆ ☆ ☆



とっぷり暮れた初夏の夜。
―――梅雨明けにはほど遠い、じっとりした闇。
風はまったくなくて、月の光も見えない。
俺はひたすら、岩城さんを待った。
ドアの前で蹲(うずくま)って膝を抱えているだけなのに、じんわりと肌が汗ばんだ。
小さな虫が、ときたま俺の顔の前をよぎる。
「腹、減ったぁ・・・」
角のコンビニまで引き返して、何か買って来ようか。
せめて、水だけでも。
そう思ってのっそり腰を上げたとき、廊下の向こうでエレベーターの開閉音がした。
「あ・・・!」
岩城さんの靴音。
俺は顔を綻ばせて、部屋の主の帰宅を待った。



「おかえり、岩城さん!」
「香藤・・・?」
額にうっすらと浮いた汗を拭いながら、岩城さんが立ち止まった。
当惑というより、本気で驚いている表情。
「久しぶりだね」
「いつから・・・いや。今、何時だと―――」
腕時計にちらりと視線をやって、彼はため息をついた。
ちょっと辛そうにひそめられた眉毛。
なつかしい美貌だった。
相変わらず色っぽいけど、なんだか少し頬がこけてる・・・?
よほど疲れているのか、それとも―――。
「岩城さん、俺」
「・・・帰れと、この前、言わなかったか」
俺の視線から目を逸らせて、岩城さんが低く言った。
―――表情が、声音が、やけに硬い。
最近はずいぶん、穏やかな顔を見せてくれるようになってたのに。
俺は真っ直ぐに彼を見つめた。
「帰らないよ」
「なに?」
「あの時は、言うことを聞いたけど」
俺は一歩、彼に近づいた。
「今日はダメだよ。俺、岩城さんに話があるんだ」
「・・・俺にはない」
岩城さんが、俺を無視してドアに手をかける。
俺はゆっくりと、その手に自分の手のひらを重ねた。
久しぶりの温もり。
逃さないように、すべての指を絡める。
「指が冷たいね」
「かと・・・っ」
こんなところで馬鹿な、とその目が咎めていた。
息を殺したまま、岩城さんが身を捩る。
「待って!」
―――俺が疎ましいのか、それとも怯えているのか。
「帰れ」
岩城さんは強引に俺の手を振り払って、背中を向けた。
乱暴な仕草で、ドアの鍵を開ける。
カチャリ、と金属質の音。
「帰ってくれ」
「岩城さん・・・っ」
ふと、見ると。
彼の切り揃えられた後ろ髪から、白い項にかけて。
つうっと、一筋の汗が伝い落ちた。
―――なんてエロティックなんだろう。
そう思った俺は、もう既におかしいのかもしれない。
むせ返るほどの官能に、誘われるように。
俺は思わず、その汗の雫にそっと指で触れた。
「・・・香藤!?」
弾かれたように、岩城さんが振り返る。
その拍子に、ドアが再びバタリと閉まった。
深夜の静寂。
薄暗い廊下で、ちょっと距離を置いて立ち尽くす。
燃えるようなきつい視線が、俺を凝視していた。
―――ああ、そうだ。
あの夜、俺を虜にした、青白い炎のようなまなざし。
冷たいけれど蠱惑的な美貌・・・。



「好きだよ、岩城さん」
さらりと、口をついて出た言葉。
真正面から岩城さんを見つめて、俺は静かに言った。
「本当に、本気であんたに惚れてる。誰にだって言えるよ、俺には岩城さんだけだって」
呆然と、岩城さんはそこに立ち尽くしていた。
「俺、こんなにマジで誰かに惚れたのって、人生で初めてだよ」
「・・・っ・・・」
岩城さんが声にならない声を上げる。
その唇が、わずかに震えて見えた。
「岩城さんを、可愛いと思う。綺麗だと思う。・・・ねえ」
俺は再び一歩踏み出して、岩城さんの髪をそっと撫でた。
―――すぐに、まるで電流が走ったみたいに、払いのけられたけど。
「わかる? 俺、岩城さんに夢中なんだよ」
言葉がぽろぽろ零れてきて、止まらなかった。
「・・・っ」
「岩城さんを、幸せにしたい。俺だけのものにしたい」
「・・・な・・・っ」
「岩城さんを抱きたい。いっぱいキスしたい。あの晩みたいな、凄いセックスがしたい。そんなことばっかり、考えてる」
「何を・・・なにを、言ってるんだ」
ふと俺の言葉に、目が覚めたみたいに。
岩城さんは髪をかきあげて、自嘲気味に笑った。
「あの程度のセックスで・・・」
「気持ちよかったでしょ?」
俺はにっこり微笑した。
―――あの夜の妖艶な岩城さん。
しなやかに乱れる痴態を、脳裏に思い浮かべながら。
「ばっ・・・じょ、冗談じゃない!」
ドアを背にしたまま、岩城さんは首を振った。
「男は初めてだったくせに、何をえらそうに・・・」
「でも、ちゃんと岩城さん、達ったじゃない」
「!!」
「俺たちの相性は最高だった。ちがう?」
「・・・何も、知らないくせに・・・っ!」
「そうかな。岩城さんのいいところは、けっこう知ってるよ?」
「・・・!!」
岩城さんが、憤って絶句する。
その目を見開いた顔が可愛くて、俺は少し顔を綻ばせた。
可愛い、というのは少し違うかもしれない。
ただ、むき出しの感情をぶつけてくれるのが嬉しかった。
「ねえ、岩城さん」
甘いトーンで、俺は彼を呼んだ。
ありったけの恋心を込めて。
「俺とつきあって。俺だけのものになって」
「・・・馬鹿なこと・・・!」
息を呑んで、岩城さんが唸った。
「俺は本気だよ。ずっと一緒にいてほしい。あいつとの不毛な関係より、ずっといいはずだよ」
「・・・うるさい」
きらめく黒い瞳に映るのは、憤りと―――それから?
畏怖だろうか。
迷い、だったりしないだろうか。
「おまえに、何がわかる・・・っ?」
「恋をするのに必要なことは、わかってるつもりだよ」
怒気を孕んだ岩城さんの顔が、見る見る紅潮した。
じりじりと下がって、俺を睨みつけたまま。
激昂する岩城さんは、見たことのない鮮やかさだった。
―――ああ、本当に綺麗だ。
「好きだよ、岩城さん」
「・・・馬鹿も休み休み・・・」
「そうかな」
笑顔を返した俺に、虚を突かれたのか。
岩城さんはゆっくりと、頭を左右に振った。
ふっと、緊張がゆるむ。
「おまえはだいたい、ゲイじゃないだろう」
子供を諭すような口調だった。
「ヘテロの男とつきあう趣味はない。・・・もう真夜中だ。さっさと帰ってくれ」
「男の岩城さんを好きなんだから、もうヘテロじゃないと思うけど?」
俺はもう一度、に、と微笑してみせた。
「岩城さん限定、だけどね」
「・・・おまえは、本当にバカだな」
呆れたような低い声。
がくりと肩を下ろして、岩城さんはため息をついた。





藤乃めい
7 July 2007



2013年5月1日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。