さしも知らじな  第八章 その2





ぎこちない沈黙。
まとわりつく湿った夜気。
俺はちょっと視線をはずして、ゆっくり深呼吸した。
岩城さんはじっと俺を見ていた。
「―――いいか」
赤い舌先でちろりと、乾いた唇を舐める。
「男なんて、ちょっと刺激すれば勃つ。射精させてやれば、快感がある」
能面のような顔で、岩城さんはそんなことを言う。
「誰でも同じ、そういうもんだ。おまえはそれに反応した―――」
わかっただろう、と言いたげに。
「・・・それだけの話だ」
岩城さんはもう一度、小さく肩を竦めた。
「違うよ、岩城さん」
俺は真正面から、彼の視線を受け止めた。
―――あの快感が、あの高揚が、『誰でも同じ』『それだけの話』だって・・・?
「それをいうなら、さ」
じっと岩城さんを見据えて、俺は言い募った。
「男って、駄目なやつには全然反応しないよ。どんなに刺激されても、その気になれなきゃピクとも動かない。勃たない。わかってるくせに」
「・・・」
「俺は、そうじゃなかったでしょ?」
「・・・」
「俺は感じた。それは、岩城さんが相手だったからだよ」
「・・・香藤」
「いい加減、認めてくれてもいいと思うんだ」
「・・・何を・・・」
「この半年間の、俺たちを」
「・・・」
「始まりはともかく、だけどさ」
俺はちょっと苦笑した。
「今まで過ごしてきた時間まで―――全部、なかったことにするつもり?」
俺が岩城さんを追いかけ続けたこの半年。
片恋だったかもしれないけど、手応えはあった。
岩城さんの心がほどけてゆくのを、俺は肌で感じていた。
それを、否定してほしくはなかった。
―――あとひと押し、だったんだ。
岩城さんは、俺を受け入れる一歩手前まで来ていた。
忘れたとは言わせない、絶対に。
「ねえ、岩城さん」
「香藤・・・」
俺の顔をじっと見返しながら、岩城さんは唇を噛んだ。
わずかに視線がゆらぐ。
今夜はじめて見せる、葛藤の表情。
「・・・呆れたな」
何かを言いかけて、それから思いとどまって。
岩城さんは急に、すっと顔をそむけた。
「岩城さん」
ねえ、俺を見て。
俺から逃げないで。
「とにかく、俺はごめんだ。もう遅い。帰ってくれ」
「岩城さんの返事を聞いたら、帰るよ」
一歩、それから半歩。
ゆっくりと、吐息が触れそうなくらい近づいて、俺は囁いた。
「・・・好きだ」
岩城さんが、ぞくりと肌を震わせる。
その無防備な首筋が、俺を誘っていた。
「好きすぎて、俺・・・」
「おまえとはもう、会わない―――」
掻き消えそうな掠れ声。
岩城さんはそれでも、一歩も譲らなかった。
「帰ってくれ」
「不倫相手に、それ、言って」
「・・・!!」
俺の強引な物言いに、岩城さんの柳眉が跳ね上がった。
「あの男と、別れてほしい」
「・・・余計な口出しはするな。おまえには関係ないことだ。何も、知らないくせに・・・っ」
地を這うような低い声。
蒼白な顔が、心持ち苦しげに歪んだ。



「ねえ、岩城さん」
ほうっとひとつ息をついて、俺は微笑んだ。
―――ホントはたぶん、笑うとこじゃない。
でも、俺たちの間にある緊張感が、痛すぎるから。
「考えてみてよ。岩城さんくらい頭のいい人なら、わかるはずだよ」
なるべく優しく、穏やかに俺は言った。
身じろぎもせずに、岩城さんは俺を見ていた。
「報われないのに、ずっと続けるつもり? 絶対に幸せになれないのに?」
「―――幸せ?」
冷ややかなまなざしに、嘲笑がよぎる。
論外だと言いたげに、岩城さんは眉をしかめた。
「は! ・・・おまえ、いい歳してそんなもの、本気で信じてるのか」
「うん、そうだよ」
「おめでたいやつだな。幸せなんて、そんな馬鹿なこと・・・勝手に夢を見てろ」
「夢かもしれないけど!」
どう言ったら、わかってもらえるだろう。
俺は内心で焦れながら、次の言葉を探した。
魔法の言葉を。
この人の閉ざされた心を開ける鍵を。
たとえ、それで彼を傷つけるとしても・・・?
「あの男が帰っていくのは、自分の家庭だよ。わかってるくせに」
「だから―――」
「自分のエゴで、岩城さんを縛りつけてるなんて、ろくなやつじゃない」
「何を・・・」
「あの男は、都合のいい愛人が欲しいだけ。岩城さんにそれが、わからないはずがない」
「・・・っ」
声を殺して、岩城さんは俺をねめつけた。
「俺はね、岩城さんのところへ帰ってくるよ」
俺は俺の本音を、そのまま口にした。
そう、それだけ、なんだ。
ほかに岩城さんにあげられるものは、何もない。
「俺は、岩城さんだけのものだよ。絶対に岩城さんを、ひとりにはしない」
「何を言って・・・!」
「大事にする。岩城さんが望むなら、ずっと傍にいる。一生いる。誓うよ」
「・・・言葉だけ、なら・・・」
ふと、岩城さんの声が震えた。
それから、全身も小刻みに震え出した。
「幸せにするよ。っていうか、一緒に幸せになろう?」
「・・・!」
パリンと何かが砕けたような、そんな印象。
「岩城さん!?」
「放せ・・・っ」
なんだか、闇に融けていきそうな儚さ。
ああ、今すぐ岩城さんを、抱きしめてあげたい―――。



今、何時なんだろう。
濃い闇が、俺たちをすっかり覆っていた。
じっとりした夏の空気はそのままなんだけど。
でも気づいたら、微風が廊下を駆け抜けていた。



「ねえ、岩城さん。俺の写真、覚えてる?」
「・・・写真?」
「うん。最初の晩に見せた、京都の写真」
「・・・あ・・・」
本当に思い出したのか、そうじゃないのか。
岩城さんは曖昧に頷いた。
「あの岩城さんの憂い顔、すごく綺麗だった。俺、たっぷり何分か、バカみたいに見惚れてた。・・・でも」
俺はそっと腕を伸ばして、岩城さんの肩に触れた。
「あ―――」
まるで電流が走ったみたいに、強張った身体が震えた。
でも、逃げる気配はない。
「岩城さんには、笑ってて欲しい。そのほうがずっと綺麗だって、今の俺は知ってるから」
「・・・馬鹿も・・・」
低いつややかなバリトンが、甘く掠れて聞こえた。
「うん、俺、馬鹿かもしれない」
びくつく身体を宥めるように、そっと。
愛おしさに耐えられなくて、俺は岩城さんを引き寄せた。
スローモーションみたいに、ゆっくりと。
そのまま、熱い身体を両腕で抱え込む。
―――抵抗はない。
なぜだろう?
さっきまでの頑なさは、いつの間にか消えていた。
「・・・帰ってくれ。頼む。おまえを―――」
ふるえる吐息が、俺の首筋にかかった。
「こんな世界に、引きずり込みたくはないんだ」
悲鳴みたいな、哀しい言葉だった。
「なに、言ってるんだか・・・」
彼の身体の熱さに、俺の鼓動が一気に走り出す。
愛おしい。
ただ愛おしくて、気が狂いそうだった。
「もう手遅れだね」
彼の髪が、俺の息で揺れた。
じっとり湿った肌が触れあうのが、とてつもなく気持ちがいい。
「香藤・・・」
「俺はもう、岩城さんにはまっちゃってるもん」
「・・・忘れればいい」
「忘れない、って言ったら?」
肩越しに、小さな笑いが漏れた。
「・・・おまえは錯覚してるだけだ」
「俺、これでもけっこう恋愛はしてきたよ。セックスでのぼせるほど、初心じゃないつもりだけど」
「―――だったら、なおさら」
静かな声で、岩城さんは諭すように言った。
いや、自分に言い聞かせるように、かな・・・?
「俺である必要はないだろう。いくらでも、もっと相応しい恋人が見つかる―――」
俺の腕の中にいるのに、そんなことを言う。
「そう?」
「・・・わざわざ俺なんかを、相手にすることはない」
あっさり断言するような口調。
そう言うのがどれほど寂しいことか、わかってるんだろうか。
俺の告白を、さんざん聞いたくせに。
胸が締めつけられるような切なさに、俺は目眩がした。



「俺は、岩城さんがいいんだ」
抱き寄せる腕に力を込めて、俺は囁いた。
甘く、したたるように甘く。
「・・・ばか・・・」
「好きだよ、岩城さん」
「・・・!」
俺はそろそろと、岩城さんの項にキスをした。
鼻をこすりつけると、わずかに汗の匂い。
それが俺の官能を煽った。
「俺を信じられないなら、つきあってみて。そしたら、わかるから」
「何が・・・わかるって言うんだ・・・?」
「俺の、本気」
「・・・信じられるわけが、ないだろ・・・」
ため息をついて、岩城さんが応えた。
「証明してみせるよ」
「おまえは俺のことを、何も知らない」
「これから知ればいいじゃない」
俺は笑って、軽口を返した。
「・・・それで?」
「それでって?」
「―――じき愛想をつかして、離れて行くのか?」
独り言みたいに、岩城さんがぽつりと言った。
「そんなのは、真っ平だ」
岩城さんはふと、眼を伏せる。
長い睫毛が、白皙に寂しげな翳を落とした。
「・・・捨てられて、惨めな思いを味わうのは・・・」
「その心配はいらないよ」
「・・・なぜ、そんなことが言える?」
優しい声音が、いっそ悲しい。
「約束が欲しいなら、いくらでもあげる。俺は、岩城さんが欲しい。一生、離さない」
愛しさで、心がはち切れそうだった。
岩城さんの怯え。
岩城さんの迷い。
何もかもが愛おしくて、たまらなかった。
「欲しいって・・・俺に、何をしろと?」
自分に問いかけるかのように、岩城さんが呟いた。
頼りなげな声。
―――信じたくて、信じられなくて。
岐路に立って途方に暮れている、そんな口調だった。
「何もしなくていい。岩城さんが、岩城さんでいてくれれば」
「・・・おまえは、甘すぎだ」
「うん、ベタ惚れだからね」
俺をこんなにしたのは、岩城さんだよ・・・?
「・・・終わらない恋なんてない。おまえの気持ちが変わらない保証が、どこにある」
「岩城さん―――」
俺は少しだけ抱擁を緩めて、岩城さんの顔を覗き込んだ。
「幸せになるのが怖い? もっともっと、欲張っていいんだよ?」
きれいな黒い瞳がまたたく。
「―――幸せなんて、信じない。そう言っただろう・・・」
「なんで?」
「なんで、って・・・」
「言ったよね。俺が、幸せにしてあげるって」
至近距離で俺を見つめて、岩城さんは微笑した。
少し淋しげだけど、本当に綺麗な笑顔。
「・・・その自信は、どこから来るんだろうな」
「自信っていうか・・・」
俺は苦笑した。
「好きになったら、普通そうだと思うけど。この人と幸せになりたいって、思うものでしょ?」
「普通、ならな」
自嘲気味の返答。
俺はもう一度、岩城さんをぎゅっと胸に抱き寄せた。
「だめだよ、そういうの!」
「・・・」
「俺が幸せにするから、信じてみて」
「・・・信じて、心を預けて」
ぽつりと、岩城さんが言った。
「それで裏切られるのは、もう嫌だ」
岩城さんは、緩慢に頭を振った。
まるでほろ苦い記憶を、忘れようとするように。
「・・・それって」
俺は、岩城さんの背中をぽんぽんと叩いた。
「少しは俺に、心を許してくれてるってことだよね」
岩城さんの過去の痛みを、なかったことにはできない。
でも、一緒に背負っていくことはできる。
これからの幸せな記憶で、上書きすることはできる。
―――岩城さんさえ、俺に気持ちを預けてくれれば―――。
「・・・香藤・・・」
ぽつりと、岩城さんが呟く。
本当にそれでいいんだな、と確かめるように。
「うん」
俺は頷いて、彼の頭をしっかりと抱えた。
何があってもあなたを守る、という気持ちを込めて。
「じゃ、決まりだね!」
俺は明るく、笑ってみせた。
「―――何が、決まりなんだ?」
「俺とつきあうこと。あの男には、俺が言うよ」
これには、本当にびっくりしたんだろう。
岩城さんは、俺の腕の中で飛び上がった。
「・・・ばっ・・・冗談だろう!?」
「当然でしょ? 岩城さんは俺のものなんだから、俺があいつに話をつけるよ」
「・・・!!」
「好きだよ、岩城さん―――」
俺は有無を言わさず、岩城さんを抱きしめて唇を重ねた。





藤乃めい
7 July 2007



2013年5月7日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。
・・・しかしこの愁嘆場。これだけ延々とやって、よくぞマンション住民に通報されなかったものです・・・(汗)。