さしも知らじな  第九章 その2





「かと・・・っ」
弾かれたように、岩城さんが身体をよじった。
「え?」
するりと俺から離れて、肩で息をする。
彼の口の端から、長い口づけの余韻の唾液が伝った。
それに気づいて、岩城さんが手の甲で唇を拭う。
―――そんな仕草すら、エロティックなんだけど。
「どしたの?」
俺の声は、セックスに飢えた野獣みたいに掠れてた。
ここまで来て、駄目ってことはないよね・・・?
「その前に、風呂を・・・」
「だから、それは後でもいいよ?」
「・・・俺が、入りたいんだ」
噛んで含めるように、岩城さんが慎重に言った。
「少しくらい、待てるだろう」
「待てないよ」
なんだか、すごく情けない声が出た。
カッコ悪いけど、俺は今、本当に余裕がないから。
岩城さんが欲しくて、欲しくて、欲しくて死にそうだから。
岩城さんは、小さく嘆息した。
「そんなにがっつくな。初めてでもないだろう」
「初めてだよ!」
俺はぶんぶんと首を振った。
「岩城さんがやっと、俺の恋人になってくれるんだよ?」
「・・・ばっ」
「両思いになってから、初めてのセックスじゃん!」
岩城さんは、真っ赤になって口をぱくぱくさせた。
恋人とか、両思いとか。
そんな言葉に、本気でうろたえてる。
「ねえ、岩城さん・・・」
俺はもう一度、岩城さんをゆっくり抱き込んだ。
しなやかな熱い身体は、素直に俺の腕の中。
―――意地を張るくせに、触れなば落ちん、っていうか。
あやうい、アンバランスな脆さがあるよね。
「・・・わかったよ。じゃあ、せめて一緒に入ろう?」
甘えるみたいに、拗ねるみたいに、その首筋に鼻先を押しつけた。
岩城さんの汗の匂いなら、嫌いじゃないけど。
「それも、ダメだ」
静かな低い囁き。
「なんで?」
俺がわがまま過ぎるのか。
それとも彼が、頑(かたく)ななのか。
俺は無性に焦れた。
岩城さんがこうやって、俺を遠ざけようとするのがイヤでイヤでたまらない。
今は、ほんの一瞬でも離れていたくないのに。
・・・やっと、やっと、ここまで来た。
これは俺たちの本当の初夜、なのに。
「ねえ・・・」
岩城さんとの距離を縮めたくて、俺がひとり、空回りしてるだけかもしれないけど―――。
「・・・あのな」
観念したみたいに、岩城さんがぽつりと呟いた。
わずかなため息と、衣擦れの音。
「うん?」
「頼むから、風呂に入る間くらい、待ってくれ」
「え―――」
「その・・・いろいろ、準備、が要るんだ―――」
か細い声だった。
言いにくそうに耳元に囁いて、もう一度ため息をつく。
「へ?」
俺は顔をあげて、岩城さんをまじまじと見つめた。
至近距離で、かっちり視線が絡む。
「準備・・・って?」
「・・・おまえが知らないのは、しょうがないけどな」
ふと、こぼれた寂しい苦笑。
「なんのこと?」
「だから―――男の身体は・・・女みたいに、都合よくできてないんだ」
「え・・・」
心なしか、岩城さんの頬が赤い。
少しの間、沈黙が落ちた。
「・・・俺は、おまえを受け入れたい。受け入れてやりたい」
ようやく聞こえるほどの震え声だったけど。
それは、ひどく生真面目な口調だった。
俺は息を呑んだ。
身じろいで、岩城さんがかすれた声で続けた。
「おまえが俺を欲しいなら、好きにさせてやりたいと思う」
でも、と言葉を切って。
岩城さんはそっと目を閉じた。
ちょっと口ごもって、それから一気に。
「でも、すぐには無理だ。その―――うしろを使う前には、洗浄をしたり・・・」
「岩城さん!」
彼をさえぎって、俺は首を振った。
その白い身体をぎゅっと、強く抱きしめる。
「・・・ごめん!」
今度は俺の声が震えた。
腕の中の恋人は、目を伏せてじっと動かない。
「ごめんなさい。言いにくいこと、言わせちゃったね」
乾いた唇を潤すように、ゆっくりと俺はキスをした。
なんだか、泣きたい気分だった。
―――さらりと差し出された、岩城さんの思い。
俺のためにしてくれること。
愛のことば、だよね。
それが全部、脳内をぐるぐる回ってた。
焦がれるほどの恋情では、ないかもしれないけど。
でも確かに、そこには彼の決意があって―――。
「岩城さん」
胸が熱くて、たまらなかった。
この人は、俺が思ってるよりずっと、情熱的な人なのかもしれない。
俺が思ってる以上に、俺を好きでいてくれるのかもしれない。
「香藤・・・?」
そっと俺の名前を呼ぶ、その声が愛しかった。
俺の無知のせいで、恥ずかしい思いをさせちゃったのに。
それでもこうやって、黙って全身で俺を赦してくれる。
・・・大人、だよね。
大人で、綺麗で、思いがけないほどに清冽で。
俺を包みこむように、優しく受け入れてくれる。
腕の中のあたたかい奇跡に、俺は魂が震える思いがした。
「好きだよ、岩城さん」
もどかしいくらい、それしか言えない―――。



☆ ☆ ☆



風呂からあがると、部屋はすっかり涼しくなっていた。
冷たいエアコンの風が、俺の火照った素肌を撫でた。
音楽もテレビの音もない、静かな部屋。
もうそろそろ真夜中だから、それもあたりまえか。
わずかに時折、外を走り抜ける車の音が聞こえるくらい。
「岩城さん?」
俺は彼の姿を探して、リビングからいちばん奥の部屋に入った。



ドアが開け放たれた、岩城さんのベッドルーム。
ぎりぎりまで絞られたルームライトが、薄ぼんやりと光る。
もちろん、この聖域に入るのは今夜が初めてだ。
「岩城さん・・・」
覗き込むと、ベッドに腰かけた岩城さんが顔を上げた。
下肢に白いバスタオルをまとっただけの、扇情的な姿で。
俺はごくり、と喉を鳴らした。
「香藤」
片手に持ってるのは、飲みかけの缶ビール。
「おまえも欲しかったら―――」
岩城さんは片腕を上げて、キッチンの方向を指した。
「それ、ちょうだい」
俺は微笑して、岩城さんの手からビールを奪った。
「あ・・・」
小さな声をあげる彼を横目に、よく冷えたアルコールで喉を潤した。
こんなに深い酩酊感を感じながらビールを飲むなんて、初めてかもしれない。
「ぷはっ」
俺が飲み干したビールの缶を受け取って、岩城さんが笑った。
「横着者」
邪気のない、いっそ穏やかな微笑。
―――すごく、綺麗だ。
俺はゆっくり腰を屈めた。
その頬に手を添えて、紅い唇をゆっくり塞ぐ。
ためらいを封じ込めるための、念入りなキス。
「好きだよ、岩城さん」
「ん・・・」
わずかな吐息が漏れ、岩城さんが震える。
されるがまま、じっと大人しい岩城さんに、俺は苦笑した。
「なんだ?」
「なんでもないよ」
俺を受け入れる覚悟をしてくれたのは、ものすごく嬉しいけど。
―――なんでだろう。
まるで生贄のように、身体を捧げられてる気がする。
どこか微妙に違う気がするのは、俺の思いすごしだろうか?



「岩城さん」
立ち上がった岩城さんが、ぱさり、とタオルをはぎ落とした。
ほの暗い寝室に、岩城さんのぬめるような裸体が現れる。
「香藤・・・」
俺の鼓動が、どくりと跳ねた。
「うん」
誘われるように、俺も腰のタオルを取った。
エアコンの冷気が、部屋には満ちているはずなのに。
ちりちり灼けるみたいに肌が熱かった。
まるで息苦しいほどに、ぴんと張りつめた空気。
一触即発、って感じで。
向かい合って立ちながら、ゆっくりと無言で、お互いの裸体を視線で犯した。
―――岩城さんのすべて。
俺が今から抱こうとしてる、恋人の身体。
「きれいだ・・・」
興奮で脳みそが沸騰して、肌がそそけ立った。
「岩城さん」
緊張を笑顔でごまかして、俺は一歩を踏み出した。
「・・・そこに、座れ」
こんなに情欲にかすれた岩城さんの声は、初めて聞く。
そう思っただけで、心臓がバクバクした。
素直にベッドの端に腰かけると、岩城さんがゆっくり跪(ひざまづ)いた。
一糸まとわぬ姿で、俺のすぐ前に。
「え―――」
「待たせて、悪かったな」
小さく言って、彼はすうっと俺の股間に顔を寄せた。
伸ばされた手が、ふと止まる。
「あ・・・れ?」
俺の脚の間にしゃがみ込みながら、岩城さんは小さく首を傾げた。
―――そこで、どうしてそんな顔?
それって、すっごく気になるんですけど!?
「なに?」
何かに戸惑っている?
岩城さんが俺のペニスを見るのは、初めてじゃないはずだ。
「岩城さん・・・?」
俺はおそるおそる、お伺いをたてた。
「ああ、違う」
俺の声音に不安を聞き取って、岩城さんが苦笑した。
「その・・・さっき、辛そうだったから」
そう言いながら、穏やかに息づく俺のペニスに目をやった。
「まず先に、と思ったんだが」
「それって・・・」
俺はいきなり岩城さんの手を引き寄せて、裸の背中を抱きしめた。
「おいっ!?」
腰を浮かせた彼が、びっくりした声をあげる。
―――可愛いっていうか、律儀って言うか・・・!
『待たせて悪かった』って、そういう意味なのか。
さっきまでギンギンだった俺を放って風呂に入ったのを、気にしてくれたんだ。
「・・・ごめん」
いたずらを告白する気分で、俺はぺろりと舌を出した。
自然と、笑みが漏れる。
「俺、我慢できなくて、風呂場で抜いてきちゃった」
岩城さんが、子供みたいに目を瞠った。
「だってさ。岩城さんがあそこで、どんな準備をしたのかって想像したら―――」
くすくす笑って、俺は彼の首筋にキスを落とした。
「あっという間に、達っちゃったよ」
「・・・ばか」
少し俯いて、岩城さんは笑った。
反応に困った照れ笑い。
それから流れるような動作で、するりと俺のペニスを掴んだ。
ゆっくり撫でてキス。
愛おしげにキス、キス。
「いわっ・・・?」
慌てた俺が、何か口走るより早く。
彼は何のためらいもなく、俺を深く深く呑み込んでいた。
「うわ!」
「・・・んぐっ・・・」
岩城さんの喉が鳴った。
ねっとりと熱い咥内が、俺のペニスを擦りあげる。
「ああ・・・っ」
たわむれる舌先。
縦横無尽に、俺の快感を煽り立てた。
俺のバカ息子は、節操なく狂喜して、タラタラと先走りをもらしてる。
「・・・はっ・・・」
初体験のディープ・スロート。
あまりに強烈な快感に、俺は思わず声をあげた。
・・・上手すぎるだろ、これ・・・!
俺の膝に手をついて、腰をわずかに回すように、奉仕(フェラチオ)してる岩城さん。
その全身が、ほのかな桜貝みたいに上気してた。
ときどきちらりと、視線を上に投げかける。
まるで、俺の感じてるエロスを確認するみたいに。
「・・・んっ・・・」
俺の怒張を銜えたまま、上目遣いに、ひっそり微笑してみせる。
―――反則だよ、それ!
翻弄されて、一気に高みに押し上げられて。
俺はコントロールを失っていた。
「んんぅ・・・!!」
岩城さんのうなじを、背中を撫で回しながら、俺はあっけなく達した。
彼の喉奥に、熱い精を迸(ほとばし)らせる。
早い、早すぎる・・・!
思春期のガキみたいな暴発。
直前にペニスを引き出してやる、そんな余裕も―――。
「ごめっ・・・!」
「ぐ・・・っ」
眉をしかめながら、彼が苦しげに息を呑んだ。
「岩城さん、やめっ・・・」
むせて、けほけほと咳をする。
それから、ごくり、と俺の精液を嚥下する音がした。
「え、え・・・っ!?」
俺は呆然と、紅潮した岩城さんの顔を見つめた。
「岩城さん・・・」
「・・・なんだ、よくなかったのか?」
濡れた唇を手の甲でぬぐって、彼がちろりと俺を見上げた。
「そうじゃなくて!」
俺は叫んで、岩城さんをもう一度抱き寄せた。
ふたりの鼓動が、ぴったり重なる。
ドクドク早鐘を打ってる、俺の心臓。
それとは対照的に、岩城さんの鼓動は・・・平静だった。
―――平静すぎて、俺は少しうろたえた。
「まさか・・・?」
驚いて、そっと彼の股間に指を伸ばした。
「え・・・」
嫌な予感は的中していた。
肌がわずかに色づいてはいたものの、岩城さんのペニスは大人しいまま。
―――とんでもなくエロティックな、極上のフェラチオだったけど。
俺に奉仕するだけ、だったんだ。
自分自身は、口でやっても興奮しないってことか。
「香藤、どうした?」
穏やかな瞳が、俺をじっと見つめる。
―――躊躇いもしなかった、岩城さん。
男の吐き出したものを、当然のように飲んでしまえるのか。
そういうセックスに馴れている、ということか。
「岩城さん・・・」
俺はまじまじと、彼を見下ろした。
「うん?」
岩城さんも、真っ直ぐに俺を見返した。
たしかに、性経験は豊富なんだろうけど、でも。
彼にとって、セックスがどういうものだったのか。
過去の男たちが、彼をどう扱ってきたのか。
想像できる気がして、俺は絶句した。






藤乃めい
7 August 2007



2013年5月15日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。