さしも知らじな  第十二章 その2





「香藤・・・」
甘い吐息が、俺の頬にかかる。
久しぶりの岩城さんのぬくもり。
抱擁に安心したように、岩城さんが大きく息をついた。
「・・・清算、かな」
「岩城さん?」
「あのな、香藤。・・・少し、話してもいいか」
静かな口調に、俺は黙って頷いた。
するり、と。
岩城さんの腕が伸びて、俺の腰に巻きつく。
ぴったりと鼓動が重なった。
「―――応えなくちゃいけないと、思ったんだ」
「何に?」
「おまえの、気持ちに」
俺の首筋に顔を埋めるようにしながら、岩城さんが小さく言った。
「俺の気持ち?」
「ああ。おまえは俺を信じてくれたから。こんな、こんな俺を―――」
そのままでいいと、言ってくれたから。
ささやくように俺の耳元でそう言って、岩城さんは恥ずかしそうに顔をくしゃりとさせた。
「岩城さん・・・」
「応えたいと思った。だから・・・部長に、会いに行った」
岩城さんの身体が、その告白にわずかに震えた。
部長ってのは、以前、岩城さんが克哉と呼んでいたあの男のことだろう。
―――別れを告げた、ってことか。
心の奥がじんわりと熱くなる。
「部屋の鍵を返してもらった。でも・・・それだけじゃ、駄目だと思ったんだ」
「どうして?」
俺はやさしく聞いた。
「あのマンションは・・・」
ふと、岩城さんが言い淀んだ。
俺の反応を窺うように、そろりと顔を上げる。
先を促すように、俺は彼をぎゅっと抱きしめた。
「あそこは・・・もともと、部長が探してきた物件だから」
ひと息にそう言って、岩城さんは嘆息した。
「・・・すまん」
「・・・そっか」
俺はねぎらうように、彼の背中を撫でた。
―――要するに、逢い引きのための部屋だったわけか。
初めて聞く、あの男との関係。
それを岩城さんが自ら話す気になったことを、俺は凄いと思った。
彼にとっては重く、忘れ難い過去にちがいない。
だから清算の必要があった、と。
彼なりのけじめをつけた、ってことなんだろう。
―――不思議と、醜い感情は湧いて来なかった。
あの男と何年続いていたのか、俺は知らない。
そこにどれだけの愛憎があったのかなかったのか、俺は知らない。
岩城さんが言いたいなら、いくらでも聞く。
でも自分からは、しいて聞きたいとは思わない―――。
「それで、引っ越したの?」
「ああ」
「・・・大変だったでしょ、こんな短期間で」
俺は腕の中の岩城さんを労わった。
愛おしい、という気持ちしか湧いてこない。
―――俺のために。
俺とふたりで、新しい一歩を踏み出すために。
その覚悟が潔いと思った。
言葉ではなく、その態度で。
岩城さんは目いっぱいの本気を示してくれた。
「そうだな」
くすりと笑って、岩城さんはゆっくり顔を上げた。
「確かに、こんなに急の引越しは始めてだな」
まっすぐな柔らかい眼差しが、俺を見つめていた。
そこに、迷いは見えない。
「香藤」
「うん」
「明日、買い物につきあってくれるか?」
「買い物?」
「ソファやカーテンを、買いなおしたいんだ」
「前の部屋にあったのは?」
「捨てたよ」
「もったいなくない?」
「・・・あれは、克哉の趣味だったから・・・」
かすかに身じろぎして、岩城さんが独り言みたいに呟いた。
なるほど、それも決別の一環なのか。
「おまえの気に入るのを、買ったほうがいいだろう?」
「ええ!?」
俺は面食らって、岩城さんをまじまじと見つめた。
「どうした?」
俺の反応に驚いたのか、彼も目を丸くして俺を見返した。
「香藤・・・?」
「えっと・・・!」
俺は咳払いして、岩城さんの肩を掴んだ。
「あのさ、ここは岩城さんの部屋なんだから。インテリア選ぶのに、俺の意見なんて関係ないでしょ?」
「・・・!」
「もちろん、買い物には喜んでつきあうよ? ってか絶対、一緒に行きたいよ?」
「香藤・・・」
「でも、決めるのは岩城さんだよ」
びっくりして声も出ない岩城さんを、俺はもう一度しっかり抱き寄せた。
―――せつなすぎるよ、岩城さん!
つきあってる男の趣味に合わせるのが、当然だと思ってたのか。
そんなところまで、相手の顔色を伺っていたのか。
「・・・香藤」
俺を呼ぶ、やさしいやさしい声。
しなやかな恋人の身体のたしかなぬくもり。
たまらなくて、俺はそっと岩城さんの唇を塞いだ。



☆ ☆ ☆



「んん・・・っ」
喉を鳴らして、岩城さんが俺のキスに応える。
したたるように甘いくちづけを、何度も。
「・・・いわっ・・・」
全身を俺に預けてくれるのが嬉しくて、嬉しくて。
俺は貪欲に、彼の唇を味わった。



ひと月ぶりの抱擁に、心臓はバクバク言いっぱなしだった。
岩城さんの熱い肌。
しっとり火照って、愛撫に応えてくれるのが堪らない。
俺は腰をぐいぐいと、岩城さんの下半身に押しつけた。
「・・・香藤・・・っ」
せわしない吐息と、甘いかすれ声。
俺の背筋を、疼きに似た衝動が駆け抜けた。
欲しくて、欲しくてしょうがない。
「いい・・・っ?」
断られるとは、思ってなかったけど。
俺は両手で岩城さんの腰を抱きながら、耳元に囁いた。
「・・・っ・・・」
いたずらな指を忍ばせて、岩城さんのまるい尻を掴む。
双丘の狭間をなぞるように、思わせぶりに。
びくりと全身を震わせて、岩城さんが顔を上げた。
紅潮した頬。
潤んだ瞳。
―――とてつもなく淫らで、美しい。
「そんな、いきなり・・・」
困惑した岩城さんの視線が、躊躇いがちに窓に向けられた。
―――カーテンがない、ってことか。
俺は構わずに、岩城さんのうなじにキスを落とした。
「ベッドルーム、どこ? やっぱりカーテンないの?」
「・・・んぁっ・・・」
耳朶を噛むと、岩城さんが甘く呻いた。
「ベッドに行こう、岩城さん」
「・・・香藤、んんっ」
俺の腕の中で悶えながら、それでも首を横に振る。
「もう、待てないよ」
―――片腕をしっかり、岩城さんの腰に回したまま。
俺はすたすたとリビングを横切った。



見当をつけて、俺はひょいと白いドアを開けた。
そこは確かに、どう見ても寝室だった。
―――けど。
「・・・ええっ?」
俺は自分の眼を疑った。
思いもかけない光景に仰天して、岩城さんを見つめた。
だって、ないんだ。
そこにあるはずの、ベッドがない・・・?



まったく、想定外の事態だった。
「・・・岩城さん、これ・・・」
寝室は、やけにがらんと広く見えた。
あろうことか、フローリングに直に布団が敷かれている。
ごくごく普通の、シングルサイズの和布団。
その脇には、まだ荷解きの済んでない箱がいくつか。
窓にはやっぱり、カーテンはない。
代わりに、ワイシャツが何枚か窓枠に掛けられて、急ごしらえの目隠しになっていた。
「えーっと・・・」
俺はポリポリと頭をかいた。
―――ああ、そうか。
前のマンションにはちゃんと、でっかいベッドがあった。
部屋をほとんど占拠するほどのダブルベッド。
それも、捨てて来たってことか。
―――たしかに、まあ。
ベッドって特殊な意味を持つ家具だから。
処分した岩城さんの気持ちはわかるし、その心遣いは嬉しい。
だけど・・・!
「香藤・・・?」
「・・・あは、ごめん」
呆然と立ち尽くす俺を、岩城さんは気遣わしげに見上げた。
「ごめんね、岩城さん。俺ちょっと、びっくりしちゃって」
間抜けなことしか言えない自分が恨めしい。
「だから、まだ、引っ越したばかりだって・・・」
言い訳をするように、岩城さんはそう呟いて俺の腕の中で苦笑した。
「うん、そうだよね」
ほとんど自分を納得させるように、俺は頷いた。
「明日、ベッドも買わなくちゃね」
「・・・先に買っておくべきだったな・・・」
それからおまえに連絡すればよかった、と。
いかにもそう言いたげな岩城さんを、俺は制した。
「そんなことないって!」
「でも・・・」
「俺に電話するのが先だった。そのほうが嬉しいよ」
岩城さんの額に、ちょん、とキス。
くすぐったそうに笑って、岩城さんが髪をかきあげた。
「そうか」
「でも今晩は、とりあえず・・・っ!」
俺は岩城さんの手を引いて、クローゼットの扉を開けた。
「なにをするんだ?」
「カーテンの代わり、要るでしょ?」
ウィンクして、俺はハンガーに掛かったコートやジャケットを物色した。
「おい、香藤」
ガーメントケースごと吊るしてある、丈の長そうなものを数着。
そそくさと選び出して、俺はそれを持って窓の前に立った。
隙間がないように、ちゃんと目隠しになるように。
ハンガーをカーテンレールに掛けて、慎重に配置した。
それからおもむろに、壁のエアコンのスイッチをオンにした。
ヴゥン・・・とかすかな動作音が聞こえはじめる。
「これで、よしっと!」
「あのなあ・・・」
呆れた声を出した岩城さんを、俺は再度、抱き寄せた。
「食事もまだ、してないだろう」
ひそやかに苦笑して、岩城さんが俺の頬を撫でた。
「もうちょっと待てないのか」
「そういう言い方はずるいよ、岩城さん」
わざと顔をしかめて、俺は岩城さんにキスをした。
「・・・やりたいだけの男だって思われるの、心外なんだけどさ」
腰をゆらめかせて、岩城さんの身体を刺激する。
「でもごめん。今は、こっち優先」
熱をやり過ごすみたいに、岩城さんがくいと顎を上げた。
「ご飯は後で、ね―――」
俺は白い首筋に、そろりと舌を這わせた。





藤乃めい
1 November 2007



2013年7月1日、サイト引越に伴い新サイト(新URL)に再掲載。初掲載時の原稿を若干加筆・修正しています。