「・・・ごめん、香藤」
ぽつり、と。
岩城はちいさく謝罪の言葉を口にした。
顔を真っ赤に染めながら。
取り乱したことを恥じるように、うつむき加減で。
「俺が悪かった」
「謝らないで」
香藤は微笑して、岩城の髪の毛を撫でた。
しっとり汗に濡れたその手触りを確かめるように、ゆっくりと。
岩城はたまらず、香藤の胸に頬をこすりつけた。
「ねえ、岩城さん」
「うん?」
「俺がもう好きじゃない人たちと、自分を比べても意味がないよ」
「かとう・・・」
「そんなことで苦しむ岩城さんは、見たくない」
子供を諭すようなやわらかな口調。
「すまん、俺は・・・」
岩城は唇を戦慄かせた。
―――どうして、こんなに。
香藤はいつでも岩城が欲しい言葉をくれる。
やさしい言葉で、岩城の懼れを宥めてくれる。
言葉にできない岩城の思いを、あやまたず汲み取ってくれる。
―――なんて、大人なのだろう。
誰よりも、岩城をわかってくれる。
恋に慣れない岩城が迷おうと立ち竦もうと、決して急かさない。
じっと待ち、ありのままの姿を受けとめてくれる。
―――大きい。
たとえようのない安心感。
岩城はただ、感嘆するばかりだった。
「俺は・・・」
「ん?」
「なんだか、おまえに甘えてばかりだな・・・」
ため息とともに、岩城はそう呟いた。
それ以外に表現のしようがない。
ふふ、と。
香藤はちいさく笑った。
「俺が好きなのは、岩城さんだけだ」
「香藤・・・」
思わず、若い恋人を見上げた。
迷いのない強いまなざしが、じっと岩城を見つめていた。
「岩城さんだけだよ」
「あ・・・」
じわりと熱が伝わる。
重ねた鼓動が跳ね上がる。
「ね?」
「かとう・・・」
じん、と心が疼いた。
熱いものが胸にこみ上げる。
年下の恋人の包容力に、岩城は改めて気づかされた思いだった。
「すまん」
もう一度、岩城は言った。
言わずにはいられなかった。
「俺は馬鹿だな・・・」
「岩城さんが悪いんじゃないよ。不安にさせちゃった俺が悪い」
「・・・そんな」
岩城はのろのろと首を振った。
ぎゅっ、と。
香藤がつよく、岩城を抱きしめた。
「いつか、さ・・・」
「うん?」
香藤の裸の胸に、じっと頬を預けたまま。
恋人の心音を、岩城は聞いていた。
―――愛おしい、という肌感覚。
それを岩城はようやく理解しつつあった。
理屈ではなく、心で。
―――香藤。
魔法の言葉のようだった。
それを口にするだけで、心が穏やかに凪いでいく。
「いつか、岩城さんが今よりずっとオトナ・・・いや、逞しくなってさ」
自分の選んだ言葉が、可笑しかったのだろう。
くすり、と香藤は小さく笑った。
「・・・バカ」
岩城もつられて苦笑した。
「岩城さんが、俺の過去なんてどうでもいいって、笑い飛ばせるくらいになったらさ?」
「うん」
「そしたら言うよ。・・・まだ」
「まだ?」
「そのとき岩城さんが聞きたかったら、だけど」
「・・・なるのかな」
ぽつり、と岩城は呟いた。
「なるって」
香藤はちょん、と岩城の額にキスを落とした。
あたたかいキス。
岩城の心が震えた。
「俺たち、始まったばっかりじゃん?」
「・・・うん」
「まだまだこれからだよ」
「うん」
「だいいち、岩城さんさ・・・」
「うん?」
「初々しいなあって、俺、思うもん。可愛くて可愛くて、ホントたまんない!」
「・・・ばか・・・」
「あははー」
それから、ゆっくりと。
香藤は再び恋人をシーツに横たえた。
「・・・香藤・・・」
岩城の声が、甘く低く掠れた。
汗が引きかけ、少し粟立った白い肌。
香藤は確かめるように、ゆっくりと手のひらで摩った。
「俺のこと好き?」
「うん」
「こんなに泣かせちゃったのに?」
「うん」
こくり、と岩城は頷いた。
―――あたりまえじゃないか。
天から降って来たような僥倖。
「好きだ・・・」
「嬉しいよ」
香藤はにっこり笑って、恋人の身体に覆いかぶさった。
「続き、しよ?」
若い牡の色香を滴らせて、香藤が囁いた。
筋ばった硬い手が、迷わず岩城の腰を引き寄せる。
「あ・・・」
それだけのことで、柔肌がざわめいた。
「続きって・・・」
「いや?」
からかうような響き。
恋人の甘い茶色の瞳がじっと見下ろす。
岩城の頬が、真っ赤に染まった。
「・・・いや、じゃない・・・」
甘い吐息をもらして、岩城はそろそろと両脚を開いた。
+++++
「あの・・・」
保安室の小さなガラス窓越しに、岩城が顔を覗かせた。
「こんばんは」
「やあ、岩城主任」
読みさしの夕刊を、ばさりとデスクに投げ出して。
ベテラン警備員の芝沼は、愛想よく会釈を返した。
「お疲れさまです。今日はもうお帰りですか」
言いながら、ふと壁の時計を見上げた。
「いや、もう10時近いのか・・・」
ひとりごちて、再び岩城に顔を向ける。
「毎日、遅くまで大変ですね」
「いえ」
「気をつけてお帰りになってください」
「・・・ええ、あの」
はにかむような上目遣いで、岩城はそっと左手を掲げた。
派手な迷彩柄のバンダナに包まれた弁当箱。
「ああ、そうか」
―――いつもの、ね。
岩城の言わんとしていることを察して、芝沼が頷いた。
「あいにく香藤はまだ巡回中なんですよ。それ、お預かりしておきましょうか」
「・・・すみません」
岩城はぺこりと頭を下げた。
―――いったいもう何ヶ月、続いてるんだろうねえ。
芝沼は内心、舌を巻いた。
残業の多い岩城は、食生活にとにかく無頓着だったらしい。
夕食を食べたり、食べなかったり。
コンビニのパンや握り飯だけだったり。
『そんなんじゃ、いつか倒れちゃうよ!』
岩城の健康を心配した香藤が、やがて手製の弁当を差し入れするようになった。
芝沼がそれを知ったのが、いつだったか。
正確には覚えていないが、少なくても半年は経っているだろう。
その間だいたい一日おきに、ほぼ休みなく。
香藤はせっせと岩城の弁当をつくって来る。
胃袋で落としたのだと、本人は照れて謙遜するが。
―――とんでもない。
香藤は男で、学生なのだ。
就職活動やら卒論やらで、何かと忙しい時期でもある。
誰かのための弁当づくりなど、よほどの気持ちがないと、とうてい続くものではない。
『岩城さんが喜んでくれるから』
その一途さが、芝沼には驚きだった。
―――意外なもんだ。
言っちゃ悪いが、香藤は遊び人に見える。
少なくとも、献身的なタイプには絶対に見えない。
ましてキッチンに立つ姿など、想像できるわけがない。
芝沼はひそかに苦笑した。
―――あの男が、ねえ。
香藤洋二。
私服の彼は、どこの芸能人かと思うほど派手だ。
たとえば、茶色く染めた髪。
耳に並ぶ銀色のピアス。
ファッション雑誌から抜け出して来たような、奇抜な服装。
―――今どきの若いもんは、訳がわからん。
芝沼には正直、まったく理解できないセンスだった。
あれで一応はいい大学の学生だって言うんだから、恐れ入る。
―――おかしな世の中になったもんだ。
こんなチャラチャラした学生、大丈夫なのか。
それが、第一印象。
香藤がアルバイトを始めた当初は、いろいろと危惧したものだ。
信用できるのか、こんな奴。
上は何を考えて、こんな学生を雇ったのか。
地味な警備の仕事など続くわけがない、とも思った。
―――でもこれが、意外と。
一本気で、いい男なんだよな。
芝沼はふと思い出す。
遅刻をしない、サボらない。
挨拶がきちんと出来る。
頭の回転が早くて、気配りができる。
そう気づいたのは、しばらく経ってからだ。
―――なかなかやるじゃないか。
自然と、見直すようになっていた。
明るく物怖じしない気性。
愛情たっぷりの家庭で育ったのだろう、と思わせる素直な性格。
打ち解けてみれば、香藤は悪くない相棒だった。
―――いや、むしろ。
派手な見た目はともかく、香藤はいい奴だ。
気持ちのいい男だ。
偏見を持っていた自分を、芝沼は反省した。
今では、いちばんお気に入りの後輩だった。
実際、数人いるバイトの中では、断然頼りになると思う。
「あの性格で、あのルックスだからねえ・・・」
芝沼は思う。
香藤の服装は奇抜だが、二枚目なのは事実だ。
―――さぞかし、女の子にモテるだろう。
あえて訊くまでもない。
香藤の恋愛経験が豊富なのは、察しがついた。
あれだけの男を、周りが放っておくわけがないのだ。
年齢の問題じゃない。
おそろしく場数を踏んでいるだろうことは、見ていればわかる。
友人・知人の数も、おそらく呆れるほど多いだろう。
同性にも異性にもモテるタイプ。
そういう人間はいるものだ。
―――生まれつき人を惹きつける華。
常に人の中心にいる者だけが放つ、特別な輝き。
香藤がそれを持った、頼もしい若者なのは間違いない。
―――選ばれた人間。
平凡ではあり得ない男。
そういうことなのだろう、と芝沼は思う。
―――それだけに、余計に。
香藤の片恋には驚愕した。
よりによって、相手があの岩城京介である。
この研究所きっての超エリート管理職。
天才の呼び声も高い研究者。
もちろん香藤よりずっと年上で、ついでに言うと男性だ。
―――なぜ、どうして。
さすがにその大胆さには、芝沼も度肝を抜かれたのだが―――。
「じゃあ、お願いします」
その超エリート研究者は今、芝沼の目の前にいた。
まるで少女のように、ぽっと頬を染めて。
「岩城主任・・・」
「はい?」
黒々ときらめく瞳がそこにあった。
色白の肌がつややかに潤って見えるのは、気のせいだろうか。
―――38歳だったっけ、この人。
「参ったね・・・」
「え?」
「いえいえ、こっちの話です」
この夏に不惑を迎える芝沼とは、ほぼ同世代。
―――同じ人間とは思えねえ。
いや、比べるのが間違っているのか。
彼は苦笑しつつ、少々張り出してきた腹をさすった。
「・・・ああ、そうだ!」
「え?」
ふと思いついて、芝沼は立ち上がった。
「岩城主任、お急ぎでなかったら―――」
気さくに笑いながら、芝沼は保安室のドアを開けた。
「中でお待ちになりませんか」
「え・・・」
「香藤、あと20分ほどで戻ってくるはずですから」
「・・・いいんですか?」
少し躊躇うように、岩城が尋ねた。
「もちろん。どうぞどうぞ」
「あの、お邪魔では・・・」
「ご遠慮なく。香藤もきっと喜びます」
「それは・・・」
「会いたいでしょう?」
芝沼の言葉に、岩城はちょっと目を瞠った。
藤乃めい
9 March 2008
2015年03月28日、サイト更新。
サイト引越にともない新URLに再掲載。初公開時の原稿を大幅に加筆・修正しています。