逡巡はほんの一瞬だった。
「・・・すみません」
お言葉に甘えて、と小さく岩城が言った。
おずおずと保安室に足を踏み入れ、かるく頭を下げる。
ステンカラーのコート。
黒いビジネス鞄。
シンプルなデザインの皮靴。
それだけ見れば、ごく平均的なサラリーマンの格好だ。
奇矯なところはどこにもない。
岩城京介。
確かにかなりのハンサムだが、全体の印象は控えめだった。
―――見た目は普通なんだよなあ。
ひと回り以上も歳の離れた、しかも同性の恋人がいるようには到底見えない。
―――人間、わからないもんだ。
あらためて芝沼はそう思った。
「さ、座ってください」
「お邪魔します」
岩城は勧められるままに、古ぼけた布張りの椅子に腰かけた。
「・・・えっと」
「はい?」
「呼び込んでおいてなんですが、その―――」
芝沼は申し訳なさそうに頭をかいた。
「電気ケトルが壊れてるんですわ、今」
「はあ」
「お茶も出せなくて、すみません」
「あ、いえ!」
岩城は苦笑して、首を横に振った。
「どうぞお構いなく―――」
もの珍しそうに、殺風景な保安室をぐるりと見渡す。
「ここが・・・」
おおよそ十畳あまりの空間。
書類キャビネと、大型デスクに雑多に積み上げられたファイル。
壁掛けのキーボックスとカレンダー。
他方の壁には、幾つもの液晶モニター画面。
「・・・あれは」
岩城の視線がふと、部屋の一角にとまった。
「はい?」
片隅に開けっ放しのドアがあり、その奥に和室が見える。
「ああ、あれですか」
岩城の視線を辿って、芝沼が説明した。
「あれは仮眠室です。昔は宿直室って言ってましたっけ」
「宿直・・・」
「夜勤の際、交代で休憩するときに使います」
「ああ」
「ま、せんべい布団とユニットバスがあるだけですけどね」
芝沼が無造作に頷いた。
「風呂場があるんですね」
「ええ」
「シャワーを浴びてくるって、そういうことか・・・」
納得したように、岩城がつぶやいた。
自然と笑みがこぼれる。
その柔らかな表情に、芝沼は問いかけた。
「初めてなんですか、ここ」
「ええ、そうですが・・・?」
岩城が小さく首をかしげる。
「なんだ」
芝沼は鷹揚な笑顔を返した。
「もうとっくに、香藤がご案内してるかと思いましたよ」
「え・・・?」
立ったままの芝沼を見上げて、岩城はわずかに頬を染めた。
「香藤って・・・あの・・・」
もじもじと視線を膝に落とす。
「だって、主任」
いたずらっぽく笑って、芝沼はどさりと自分の席に腰を下ろした。
「香藤とつきあってるんでしょう?」
「・・・!」
一瞬の沈黙。
岩城の全身がその刹那、きゅっと硬直した。
「あ・・・あの」
その後、息をひそめて。
目を伏せたまま、そっと岩城が訊いた。
「・・・それ・・・香藤が・・・?」
吐息のような問いかけ。
押し殺した声が、聞き取れないほど小さく震えていた。
―――おや。
おどかしてしまったのか。
「まあ、それもありますけど」
岩城の反応に内心で驚きつつ、芝沼は頭をかいた。
「でもその前から、知ってたような気がするなあ」
「・・・すみません」
ぽつり、と。
反射的に肩をすくめて、岩城が小さく頭を下げた。
その仕草に芝沼は苦笑した。
「なにを謝ってるんですか」
「・・・でも」
そっと、岩城が顔を上げる。
困ったように眉を寄せて、唇を引き結んで。
「謝ることがありますか」
「・・・」
「好きなんでしょう?」
「・・・あの・・・」
「お互い独身だし、誰かを裏切ったり騙したりしてるわけでもない。・・・でしょう?」
「それは・・・」
膝の上で組んだ岩城の指に、ぎゅっと力がこもった。
「なんの問題があります?」
「・・・」
「香藤はいい男だ」
「・・・っ」
「一緒に仕事をしてる俺が言うんだから間違いない。真面目だし、なかなか気骨のあるやつです」
「はい・・・」
「恥じることなんてないと思いますけど?」
「・・・そっ・・・それは」
耳まで真っ赤に染めて、岩城は一生懸命に言葉を探した。
「でも・・・」
「でも?」
「あまり、知られちゃいけないと―――」
「そりゃま、吹聴する必要はないでしょうけど」
「そ・・・そうじゃなくて」
「はい?」
「ふっ・・・普通じゃ・・・ないから」
「うーん」
芝沼はゆっくりと首を横に振った。
じっと、岩城を見返す。
―――普通じゃない、か。
たしかに、マイノリティには違いないが。
「最初は意外な取り合わせというか。俺も少しびっくりしましたけど」
にっこり笑って、岩城に向かって頷いた。
ゆっくりと、力強く。
「でも端(はた)から見ていて、自然な感じでしたよ」
「・・・自然、ですか・・・?」
その言葉がよほど意外だったのか。
岩城はぱちくりと、黒曜石の瞳を瞬かせた。
目の奥にはとまどい。
そして、かすかな煌めき。
「二人の人間が出会って、好きあっただけでしょう?」
違いますか、と。
言外ににじませて、芝沼が続けた。
「それは・・・」
「それだけのことだ」
「・・・ええ」
岩城の瞳がゆれた。
香藤との関係を真正面から肯定されて、逆にとまどっているように見える。
「本人たちが幸せなら、外野が騒ぐことじゃない。俺はそう思ってますけど」
「あ・・・」
頬を染めたまま、岩城はまじまじと芝沼を見つめた。
「だから、岩城主任」
「は、はい」
「堂々としてていいんですよ」
「はあ―――」
ふわりと、岩城が嘆息した。
緊張が解けたのか、がっくりとうな垂れて肩を落とす。
脱力した細い身体がゆるやかに揺れた。
「岩城主任?」
「・・・わかっちゃうものなんですね・・・」
頬を染めて苦笑する。
そんな岩城に、芝沼は思わず噴き出した。
「はい、わかっちゃいますねえ」
―――わかるも何も。
岩城の場合、そもそも恋を隠そうとすらしていなかった。
―――いや、それ以前に。
隠すって発想自体、なかったんだろう。
芝沼はそう思った。
もとから岩城は、驚くほど世間ずれしていない。
実年齢はさておき、ときどき危なっかしいほどに初心だ。
純粋で真面目で、ときに少女・・・いや少年のように眩しい。
―――特に、今は。
香藤しか、見えてないしな。
まっすぐに、ひたむきに。
たぶん芝沼でなくても、気づいただろう。
岩城がどれほど一生懸命に恋しているか、見ていればわかる。
あまりに一途で、むしろ痛々しいほどだった。
慣れない恋愛でいっぱいいっぱい。
周囲を見渡す余裕など、あるわけがない。
「なるほど、ねえ」
芝沼はくすりと笑った。
「香藤が岩城主任のことを、可愛いって言うのがわかるなあ」
「・・・へ?」
ゆっくりと顔を上げて、岩城は芝沼を見返した。
「か、かわい・・・っ」
「ええ、あの男はいつもそう言ってますよ」
「・・・バカ・・・」
よほど恥ずかしいのだろう。
岩城はちょっと俯いた。
「香藤はどうですか」
「ど、ど、どうって・・・?」
「はは、意地悪な質問ですみません」
芝沼は破顔して、言葉に詰まる岩城に頷いた。
「単なる好奇心ですかね」
「・・・っ」
「恋人として合格ですか、っていう意味です」
「・・・!」
「・・・まあ、主任の顔を見れば、答えは書いてあるようなもんですけど」
「・・・顔って・・・」
からかわれていることに気づいたのだろう。
ぽっと顔をさらに赤らめて、岩城は苦笑した。
たまらず片手を頬にあてる。
そっと、額の汗を拭うような仕草をする。
それが奇妙に艶っぽかった。
「大事にされてるのがわかります。今の岩城主任は、とても幸せそうだ」
「・・・幸せって・・・」
照れなのか、単にいたたまれないのか。
岩城はそっと顔を背けた。
「だって、幸せでしょう?」
「それは・・・」
「こう言っちゃなんですが、表情が前よりずっと柔らかくなった」
「・・・そうですか」
甘い苦笑をもらしながら、岩城は首を振った。
何気ない挙措。
それだけで、零れるような香華が立つ。
「いい感じですよ、今の主任」
芝沼はきっぱりそう言った。
「・・・香藤には・・・」
岩城は言葉を探すように、少し空を見つめた。
「よくしてもらってると、思います―――」
低く、そう漏らして。
岩城ははにかむような微笑を見せた。
「俺は、本当に不器用だから」
ひとつ、ほっと息を吐く。
「たぶん香藤には、迷惑ばかりかけてると思うけど」
そう言って、俯き加減に首を振った。
ほのかな幸福感。
岩城が隠しきれない喜びに浸っているように、芝沼には見えた。
―――あーあ、幸せそうな顔しちゃって。
盛大にのろけている、そんな自覚もないのだろう。
こほん、と芝沼は咳払いをした。
「寂しくなりますよね、実際」
「え?」
きょとん、と岩城が見返す。
「香藤はたしか今月いっぱいで、ここのバイトもお終い。早いもんだ」
「え・・・っ」
「使えるやつなんで、正直言うと惜しいですよ」
「・・・」
岩城は言葉を失った。
目を見ひらき、呆然と芝沼を見つめる。
腕を組んで嘆息した芝沼は、その岩城の反応に瞠目した。
「あれ、岩城主任?」
「はい・・・」
―――もしかして、いや、まさか。
「香藤がもうすぐ卒業だって、ご存知・・・ですよね?」
「あ―――」
ようやくそれに思い至ったのだろう、岩城は小さく声を上げた。
「そう・・・か」
その子供っぽい反応に、芝沼は微笑んだ。
「四月から就職じゃ、しょうがないですけどね」
「そ・・・そう、ですよね・・・」
やっとそう返して、岩城は膝の上の拳を握りしめた。
藤乃めい
23 March 2008
2015年08月31日、ものすごく久しぶりにサイト更新。
サイト引越(2012年〜)にともない新URLに再掲載。初公開時の原稿を大幅に加筆・修正しています。