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「巡回終了でーっす!」
バタン、と。
保安室のドアが勢いよく開いた。
「・・・って、あれー!?」
大股で入ってきた香藤は、ハタと足を止めた。
「岩城さんだ!!」
顔をほころばせて、香藤は恋人に駆け寄った。
「・・・か、香藤」
「待っててくれたんだ? 嬉しいよ」
満面の笑みで、するりと。
香藤はごく自然に、岩城の背中に手を回した。




「よお、おかえり」
にんまりと笑う芝沼。
「主任、引き止めておいたぞ」
「ども!」
小さく頷きながら、香藤は会釈を返した。
「なにか異状は?」
「特にないっす」
「残業者は?」
香藤がてきぱきと巡回中の様子を説明する。
芝沼は頷きながら、日誌に何か短く書きつけた。
「よし・・・っと」
くるりと再び、香藤は岩城に向き直った。
「ただいま、岩城さん」
「・・・うん」
岩城は座ったまま、頬を紅潮させて香藤を見上げた。
「おかえり」
瞳が小さく揺れた。
その表情に、頼りなげな陰を読み取って。
「んんー?」
香藤は小さく首をかしげた。
「どうしたの、岩城さん?」
「なんでもない・・・」
唇を引き結んで、岩城はふるふると首を振る。
「なんでもないよ」
「なんでもないって顔、してないよ」
子供をあやすようにそう言って、岩城の髪を撫でる。
頬を指先でなぞる。
「うーん」
香藤は首をかしげながら、芝沼を振り返った。
「なんかあったんすか?」
「いや、すまん」
芝沼は苦笑して、ぽりぽりと頭をかいた。
「別になにも―――おまえの卒業のこと、話したくらいかね」
「へ?」
「俺は、単なる世間話のつもりだったんだが」
「・・・あー」
香藤は苦笑して、一瞬だけ天を仰いだ。
「うー」
「・・・香藤?」
岩城の声がかすれた。
「ちょっと休憩、入ります」
口早に芝沼に告げると、香藤は岩城の腕を引っ張り上げた。
「ほら岩城さん、こっちに来て?」
「・・・っ!」
びっくりして岩城が、ぴょこんと立ち上がる。
「話があるんだ」
「おい、香藤・・・っ」
恋人の手をぎゅっと握って、香藤はずんずんと仮眠室に導いた。
「・・・あのっ・・・」
芝沼を気にして、あたふたと岩城が振り返る。
その困ったような表情に、芝沼は薄い笑みを返した。




「はい、こっちね」
仮眠室は冷え冷えとしてした。
チラチラゆれる安っぽい蛍光灯の下に、一段高くなった畳敷きのコーナー。
片隅には積み上げられた布団一式があった。
「靴ぬいで、座って?」
「あの・・・」
言われるままに、岩城は革靴を脱いで揃えた。
そろりと畳に正座する。
「ふふ」
香藤はにっこり笑い、膝を突き合わせて胡坐をかいた。
髪の毛を無造作にかき上げる。
かしこまる岩城をあらためて見つめる。
それから、すっと手を伸ばした。
まるで岩城の部屋にいるときのような気安さで、岩城のなめらかな頬に触れた。
「おい、ドア・・・」
ドアは少し開いたままだ。
振り返って、岩城はちらりと視線を泳がせた。
「いいの」
「いいのって・・・」
「気にしない」
間近に迫った恋人の瞳を、岩城は見つめ返した。
「いいから、おいで」
やさしく囁いて、香藤は岩城の頭を抱き寄せた。
じんわりと体温が伝わる。
「香藤・・・」
ふうっと。
岩城が息を吐く。
氷がくしゅりと解けるように、その身体から力が抜けた。
「あのね」
「うん」
「バイト辞める話、ちゃんとしてなくてごめん」
香藤はため息まじりに言った。
さらさらと零れる岩城の黒髪を撫でながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「いつ辞めるか、まだ決まってなかったのもあるんだけど」
「うん・・・?」
岩城はもぞもぞと膝をずらして、香藤の胸に寄り添った。
ぬくもりを探すように、おずおずと。
ちょん、と。
香藤は岩城の頭のてっぺんにキスを落とした。
「・・・なんとなく恐くてさ」
「何が?」
「俺たち、ここで知り合ったからね」
笑いながら、香藤は岩城の肩をいっそう抱きしめた。
「ここで週に三回、いつもいつも」
「うん」
「弁当持って、岩城さんの研究室に会いに行くのがあたりまえになってて。そうじゃなくなるってのが、想像もつかないって言うか―――」
「・・・うん」
わかる、と。
岩城は素直に頷いた。
「俺がバイト辞めても一緒にいてくれるかな、とか。俺を忘れちゃわないかな、とか」
「え―――」
「柄にもなく、いろいろ考えちゃって」
岩城が目を瞠る。
香藤は照れ隠しに肩をすくめた。
「バカだよね」
それから、岩城の頬に掠めるようなキスをひとつ。
「それで、なかなか切り出せなかったんだ」
「かとう・・・」
「だって、心配するじゃん?」
「・・・なにを?」
「どっかの変態野郎が、前みたいに岩城さんを襲ったらどうしよう、とか」
「何を言ってるんだ」
「これからは誰の弁当を食べるんだろう・・・とか」
「・・・バカ」
「うん」
くすりと笑って、岩城は香藤の手を握り返した。
「心配なんだよ」
「でも」
「岩城さんを好きだからさ」
「あ・・・」
「岩城さんだけだよ」
「そっ・・・」
岩城が顔を真っ赤にする。
背筋に走る震えを、香藤の指は敏感にとらえた。
「好きだ」
「かと・・・」
岩城が喘ぐように恋人を呼ぶ。
それを合図に、香藤のキスがそっと落ちてきた。
「・・・ん・・・」
唇を吸われるまま、岩城は深いキスに応える。
しんとした仮眠室。
保安室からは物音ひとつしなかった。
「あ・・・っ」
香藤の舌が岩城の咥内に侵入し、やわらかく動き回った。
それを追いかけて、岩城の舌が跳ねる。
ねっとりと絡みつく。
「・・・っ・・・」
ぴくり、と身体を震わせて。
恋人の貪るようなキスに、岩城は恍惚と身をゆだねた。
「・・・かと・・・」
荒い吐息。
小刻みにゆれる身体。
濡れた唇を震わせて、岩城は若い恋人を見つめた。
「ま、待って・・・」
「自分でも馬鹿だって思うけど、でも」
半ば独りごとのように、香藤が言った。
「時間が止まればいいのに」
「香藤・・・」
「今すごく幸せだから、この生活が変わるのが怖いんだ―――」
岩城ははっと恋人を見つめた。
意外な告白だった。
若い香藤が脆い心境を岩城に漏らしたのは、これが初めてかもしれない。
「お、俺は・・・っ」
岩城の声が跳ね上がった。
「うん」
香藤は微苦笑をもらし、岩城の頬を愛おしむように撫でた。
何度も、何度も。
「岩城さんを信じてないわけじゃないよ」
頬を上気させながら、岩城はぽろりと呟いた。
「・・・知ってる」
「たださ―――」
「俺は、おまえしか要らない」
遮るように、岩城は言った。
小さな、だけど強い響きだった。
視線はまっすぐに恋人だけを見つめたまま。
「おまえしか要らない」
岩城が繰り返す。
「え・・・」
「・・・こんなこと」
自分を抱きしめる香藤の太い腕に、そっと指を這わせる。
「他の誰かとなんてできないし、したくない―――」
「・・・うん」
香藤しかいない。
だから安心してほしい。
岩城の瞳は懸命にそう訴えていた。
「岩城さん・・・」
香藤はくしゃり、と顔をゆがめて頷いた。
「うん、そうだよね」
一本一本そっと指を絡ませて、岩城の手を握り込む。
「好きだよ、岩城さん」
「香藤、俺も・・・」
「おーい、香藤!!」
半開きのドアの向こうから、いきなり芝沼の声が響いた。
「・・・ひっ・・・!」
びくりと飛び上がって、岩城が身体を捩る。
「・・・はっ・・・はい!」
「おっと、失礼」
ひょいと頭だけ覗かせた芝沼が、抱擁する二人を見てにかっと笑った。
「おー」
「あっ・・・」
岩城があわてて逃げようとする。
香藤はしかし、抱擁を緩めようとはしない。
「・・・香藤ッ」
「いいから、岩城さん」
宥めるように恋人の耳元に囁いてから、香藤は芝沼を軽く睨んだ。
「わざとやってるでしょ、芝沼さん!」
「バカ言え」
にんまりと、芝沼がすっとぼけた。
「こっちはこれから巡回だぞ」
「・・・ったく!」
大げさに顔をしかめて、香藤が苦笑した。
「覗きとか、趣味が悪いっすよ」
「勤務中に何を言ってるんだか」
ドアから離れていく声が、笑いを含んでいた。
岩城は茫然と、戸口を眺めている。




「行こっか、岩城さん」
芝沼の後を追って、香藤は仮眠室を出た。
しっかりと、岩城の手を握りしめたまま。
「・・・ったく」
「芝沼さん」
「調子に乗るんじゃないよ」
制帽をかぶりながら、芝沼がぶつぶつ言っていた。
「へっへー」
香藤は負けずに、強気の笑顔で対抗する。
「じゃあ俺、岩城さんを通用門まで送って―――」
「いいって、香藤」
赤い顔をそむけながら、岩城はひらりと屈んで鞄を拾い上げた。
「俺はいいから」
「岩城さん・・・」
「仕事に戻れ。な?」
「・・・うん」
「それじゃ、失礼します」
早口に芝沼に告げて、岩城はぺこりと頭を下げた。
「おやすみなさい、岩城主任」
「ちょっと待ってよ、岩城さん!」
香藤が大股に一歩、二歩近づいた。
「あのさ・・・」
「いいから、とにかく仕事に戻れ。俺は大丈夫だから」
押し殺した岩城の声に、香藤は首を振った。
「岩城さん、そうじゃなくって」
「え?」
「俺の卒業式、来てくれるかな」
「―――ッ」
「来週の日曜日なんだけど」
岩城はちらりと、壁掛けのカレンダーに目をやった。
「・・・そうか」
「イヤじゃなかったら、だけど」
慌ててつけ加える香藤に、岩城はそっと笑ってみせた。
「嫌なわけじゃない。でも・・・」
「うん?」
「いや、何でもない」
「岩城さん?」
「・・・わかった、行くよ」
ぽつりとそう言って、岩城は保安室を後にした。





藤乃めい
23 March 2008


2015年09月12日、サイト更新。
サイト引越(2012年〜)にともない新URLに再掲載。初公開時の原稿を大幅に加筆・修正しています。